Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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太陽の国・宮崎 今昇りゆく 大仏法の旭日

2000.5.9 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  青春時代から、私はホイットマンが大好きであった。彼の詩に、こういう一節がある。
 「これらはわたしたちのものだ、これらはわたしたちと一緒だ、
 みんな、根本になる必要な仕事のためだ、そのあいだ、後に続くものたちは萌芽のうちに
 後で待つ、
 わたしたちは今日の行列の先頭をいき、わたしたちは旅のための道筋をきりひらく、
 先駆者よ! おお、先駆者よ!」(木島始編『ホイットマン詩集』思潮社)
 また、「平和の技術と研究とが戦争のそれらよりも重んずべきもの」とは、『プルターク英雄伝』(鶴見祐輔訳、潮出版社)の有名な、あるローマの哲人指導者の主張であったと記憶する。
2  来年の五月三日には、二十一世紀の世界の指導者を養成しゆくアメリカ創価大学の、待ちに待った新キャンパスが、オープンする。
 今、さまざまな準備が、急ピッチでなされ、今年の九月には、立派な図書館が完成する。
 大学だから、どの施設よりも、図書館がいち早く出来あがることは意義深いと、著名な大学教授が感嘆し、賞賛されていた。
 カリフォルニアの明るい太陽のもとに、勇んで集う若き英才たちを思うと、私の胸は躍る。「君たちよ、人類の希望の太陽と輝け」と、私は祈る。
3  ″太陽″といえば、宮崎を思い出す。昨年の早春で、私の訪問も十度目となった。
 私は、南国のフェニックスやソテツなどの木々に囲まれた、宮崎研修道場が大好きである。
 ″太陽の国″の青き空を仰ぎ、わが同志たちと歩きながら、″組織″を語り、″体験″を語り、″広宣流布″を語っていくのは、ことのほか楽しかった。
4  宮崎の広布の大功労者といえば、故・甲斐速水さんが思い出される。
 私が宮崎に″第一歩″を印したのは、一九五八年(昭和三十三年)の八月であった。
 この時、甲斐さんの抑揚の強い、滔々たる宮崎弁が聞き取れず、側の人に″通訳″をお願いしたことも懐かしい。
 その三カ月後、甲斐さんが初代支部長になり、宮崎に広宣の支部旗が翻ったのである。
 寡黙な、平凡な庶民の指導者であった。しかし、本当によく題目をあげる方であった。
 彼が「ちょっと題目をあげようか」といえば、一時間や二時間は動かない。いかなる戦いの時も、「祈れば必ず開ける! 必ず勝つ!」と、祈りに祈り、勝ち抜いてきた。
 人呼んで″題目の鬼″――同志は、巌のような支部長の背中を見ながら、策ではなく、信心根本に「祈って勝つ」姿勢を教えられたという。
 そして、筋金入りの″折伏の闘士″であった。
 甲斐さんが、大阪の支部に所属する高千穂地区の地区部長だった時には、勇んで全県を駆け巡り、見事「日本一の弘教」も成し遂げている。
 願うことは、寝ても覚めても宮崎の広宣流布。夢の中でも、誰かを折伏していたという逸話を残す彼であった。
 ともあれ、題目をあげ抜いた人にはかなわない。折伏を行じ抜いた人にはかなわない。
 「法華経に勝る兵法なし」である。
 どこの世界でも、黙々と努力し抜く、無名の戦士のなかに、より深く力を身につけた本物の勇者がいる。
 反対に、若くして有名になり、虚飾が見え始め、地道な闘争をおろそかにする人物は、必ず転落していくものだ。
5  初訪問から二十周年にあたる一九七八年(昭和五十三年)、私は、八度目の宮崎行きを果たした。
 宗教の権威をカサに、狂いに狂った宗門の学会攻撃が、全国で行われていた最中である。
 酷暑の夏であったが、大変な今こそ、かわいい大切な同志を激励したいと思い、私は宮崎に飛んだ。
 その日は、八月九日であり、日中の気温が三四・五度を記録したと、側近の幹部が言っていた。さらに自由勤行会が開催された十一日も暑かった。
 勤行会は当初、一回の予定であった。しかし、わが同志は、押し止めることのできない大波のごとく、喜びと決意の顔を輝かせ、宮崎平和会館へと行進して来られた。
 一度では、とうてい会場に入り切れず、二回目の勤行会が開かれた。それでも訪れる同志は引きも切らず、三回、四回と勤行会は続いた。
 勤行会が一回、終わるたび、全身は汗びっしょりで、何度も、シャツを替えねばならなかった。
 今日は、これで最後と、会場に飛び込んだ時、それが五回目の勤行会であった。いつしか、戸外は暗くなっていた。
 なんと健気な同志よ!
 この方々が菩薩である。
 この方々こそが仏である。
 私は、全員と共戦の握手をする思いで、そして全員に勝者の宝冠を捧げる思いで、激励に激励を重ねた。
 一回、また一回と、わが全魂を注いで語っていった。
 「一生成仏のための、勇気ある信心を!」
 「御本尊の功徳は、万人に平等である!」
 「信心を根本とした思い出深い歴史を築け!」
 「家庭・地域こそ本有常住の寂光の大地である!」
 「わが信念の道を堂々と生き抜く地涌の勇者たれ!」
6  翌日の十二日、午前中に会館を発った私は、宮崎市から高岡町、野尻町、高原町、都城市を経て、鹿児島へと向かった。
 その道々、多くの同志が待っていてくださった。途中で、会員宅にも立ち寄った。
 そして、意気軒昂な「地涌の戦士」のあまりにも尊い姿を見て、私は、
  忘れまじ
    汗と瞳の
      出会いかな
 と、一句を認めて、代表の方に差し上げた。
7  やがて二十一世紀は明ける。
 新しい「創価の夜明け」である。
 我らは、
 三類の敵人たちと戦い、
 三障という、生命の迷妄からいきり立つ愚者と戦い、
 四魔の邪剣と戦い、
 威風も堂々と前進していくのだ。何ものも恐れてはならない。永遠の勝利者になるために! 仏になるために!
8  今から、ちょうど二百年前の一八〇〇年六月、有名な「マレンゴの会戦」を前に、波瀾万丈の英雄ナポレオンは叫んだ。
 「我々のあらゆる努力の結実は必ずや嚇々たる栄光と確固たる平和とになるであろう」(マルテル編『ナポレオン作品集』若井林一訳、読売新聞社)
 時に、彼は三十歳であった。
 思えば、私の宮崎初訪問も、三十歳の夏であった。
 恩師亡きあと、真実の弟子として、広布の全責任を担い、全国の同志のもとへ、奔走していた時である。それこそ、「栄光」と「平和」をめざしての、激闘また激闘の転教であった。
9  今、宮崎でも、二十一世紀に向かいゆく、朝日に匂う山桜のごとき青年たちが、陸続と、晴れの広宣流布の舞台に躍り出始めた。
 「日向ひゅうが」。なんと深い意義のある地名であろうか!
 宮崎の若き開拓者の諸君よ、太陽に向かって、決然と立ち上がれ!
 暗い影を追うな。
 卑劣な影を追うな。
 光輝燦たる太陽に向かって進め!
 君は、先駆者である。
 君は、勝利者である。
 永遠の栄冠の人生を勝ち取った人なのだ。

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