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日蓮大聖人・池田大作

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先駆の港・横浜 進め! 波越え 希望の海へ、師弟の心は いかなる嵐にも不動

2000.5.5 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  一九七九年(昭和五十四年)の五月三日、木曜日であった。
 私は、会長の″辞任式″となった、創価大学の中央体育館での本部総会を終えて、まっすぐに、横浜の神奈川文化会館に走った。
 そして、この訪問では、文化会館の八階より、海を見つめたり、山下公園を見つめながら、さまざまなことを思索した。
 彼方の静かな青い海には、白波をあげながら、何隻かの船舶が行き来していた。
 空は、五月の太陽が眩しいほど輝いていた。
 何人かの同志が、笑顔で、私を迎えてくれた。気さくに、いろいろなことを語り合った。
 皆、大切な私の同志である。いな、弟子であるといってよいだろう。
 記念に一緒に写真を撮ろうと言って、文化会館の脇の階段を使って、笑いながら撮影したことも、思い出の一つである。
 この折、開港百二十周年の横浜では、″みなと祭り″の大パレードなどが、文化会館前の大通りで行われた。
 妻が、「あなたの歓迎をしてくれてるわ。すばらしい行事ね。お祝いになったわね」と笑って言ったことも、懐かしい。
 ともあれ、私の胸中は、一段と深い決意を刻み、高鳴っていた。それは、誰もわからなかったにちがいない。
 毛筆で「正義」と認め、わが魂魄をとどめたのも、この時の訪問であった。
 戸田先生が、「君は、世界に行くんだ! 狭い日本でなくして、世界に大いに羽ばたいて、一生を終われ!」と言われた、世界広布の使命への厳命の言葉が、耳朶から離れない。
 恩師は、二十五歳の私に、こう詠んでくださった。
  大鵬の
    空をぞかける
      姿して
    千代の命を
      くらしてぞあれ
2  私には、情けない宗門の見苦しい嫉妬も、反逆者たちの陰険な悪口罵詈も、そして、あらゆる非難も覚悟の上であったがゆえに、永き未来に対して、いささかも動揺などなかった。
 妻も、いつもと少しも変わらぬ笑顔であった。会長辞任という重大な事件に対しても、まったく眼中にないように、春風そのものの微笑みであった。
 私のことを、一番、知悉している妻は、今回の事件がいかなる暗い策謀であったかは、十分に知っていたのである。
 共に海を見つめながら、将来への世界広布を展望した。
 恩師から最も可愛がられた二人、最も信頼された二人、最も頼りにされた夫婦であったことを、最大の自負としていたのである。その事実は、十方の仏菩薩が照覧のことである。
 これが仏法の法理だ。
 二人して、にこやかに、大いに広宣流布のために、学会のために働こうと、目と目で合図し合っていた。
 「いつも変わらぬ心、いつも変わらぬ使命、いつも変わらぬ決心、いつも変わらぬ人生。これほど尊く、偉大なものはない」。これは、ある哲学者の言葉である。
3  文化会館の八階から、山下公園の全体がよく見える。
 若い人が動いている。若いカップルが、楽しそうに歩いている。
 老いたる人も、ベンチに座って思索している。そして、中年の紳士たちも、タバコを吸いながら、何かを考え、語り合っていた。
 賢そうな人も、寂しそうな人も、悲しそうな人も、質素な身なりの人も、親子連れも、少年少女たちも、皆、それぞれの魂をもって、動いていた。
 人生は、さまざまである。だから楽しい。
 窓辺に立っていた私たち二人を見つけたのであろう。
 山下公園から、婦人の方々が手を振ってくれた。七、八人の婦人は、ハンカチを振っていた。あちらにも、こちらにも、学会員の姿があったのである。
 私と妻は、手を挙げて合図をした。それを、とても喜んでくださっている笑顔が、まばゆく見えた。
4  妻が何を思い出したのか、「小学校時代の先生の名前を覚えていますか?」と突然、聞いてきた。
 それは、自分の小学校時代の先生に似た人を、山下公園で見かけた衝動からの反応であったようだ。
 私は、即座に答えた。
 「一年生は手島先生、二年生は日置先生。どちらも女性の先生だった。
 三年生、四年生は、竹内欽吾先生、そして五年生、六年生は、桧山浩平先生だよ」
 「よく覚えてますね」と、妻は感心していた。
 妻は、学校の成績が大変に良かったようで、私の成績を追及するのかと思ったが、その質問ではなかった。
5  五月五日の午後、地元の学会員の方が、自分の船で湾を一周してくれるというので、三十分ほど、乗せていただいた。
 その「二十一世紀号」という船で、種々、雑談をしながら、海から見た神奈川文化会館のすばらしさに、皆が感動した。私は嬉しかった。
 案内してくださった、この親子の方も、今もお元気で活躍されている。
6  私が初めて横浜での会合に出席したのは、一九四九年(昭和二十四年)であった。
 鶴見区内で行われた座談会に、確か、新来の友も五人来ておられ、全員が入会を決意されたと記憶している。
 以来五十余年。私は、幾度となく、この進取の気性と活気に満ちた港・横浜に走った。
 一回また一回の小さな会合が、そして一軒また一軒の地道な家庭指導が、いかに広宣流布に確実につながっていくかを、思い知らされた修行であった。
 ここに一切がある。これが同志の幸福の道であり、世界に広がりゆく広布の道だ。
 華やかな大会合や、賑やかな大結集の姿の前で、偉そうに指導していることが、真実の広宣流布の深い一歩といえない場合もある。
 人気取りの幹部の挨拶など、口のうまい政治家の話と同じで、御仏智にかなっていないこともあるからだ。
 思い起こせば、戸田先生が、私たち青年門下に対して、不滅の「原水爆禁止宣言」を叫ばれたのも、横浜・神奈川区にある三ツ沢の競技場であった。(一九五七年九月八日)
 あの時、先生は、「いやしくも私の弟子であるならば、私のきょうの声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたい!」(同全集4)と鋭く叫ばれた。絶対に忘れることのできない、厳しき遺訓である。
 その遺言の通り、私は、先生の平和思想を、堂々と全世界に訴え続けてきた。
 師の教えを必ず実行する――それが、真の弟子の道であるからだ。
 戸田先生が打ち込んでくださった平和の熱き信念は、二十一世紀という新時代を迎えて、いよいよ偉大なる光を放ち始めたと、私は確信する。
7  会長を辞任する直前の四月二十日、私は、旭区にお住まいの功労者のお宅を訪問した。ご主人が病床に伏しておられると耳にしたからであった。
 若き日に、私が、師匠の命により、文京の支部長代理として派遣された時、その方は、保土ケ谷地区の、栄えある初代地区部長であった。
 「東海道五十三次」の宿場で有名な、この保土ケ谷の地名もまた、私には懐かしき思いが多い。
 一九五四年(昭和二十九年)の七月、私は保土ケ谷地区に走った。
 地区拠点は金沢文庫に移っていたが、意気高く二百人の友が参加し、大賑わいの座談会であった。
 ――そんな思い出を胸に抱きながら、私は、そのお宅にお見舞いに伺ったのである。
 私は、心に誓っていた。
 ″何があろうと、いかなる立場になろうと、私は尊き学会員を励まし続ける! 庶民と共にどこまでも歩み続ける!″
8  神奈川の同志は、大場好孝副会長を中心に、二十余年の激しき波涛を乗り越え、勝ち越えてきた。
 正義に立て! 横浜よ!
 獅子と立て! 神奈川よ!
 と、私は今再び、叫びたい。
 もう大神奈川は、「日本一」といってよいほどの、広宣流布の大陣地になっていることを、私たちは誉め讃えたい。

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