Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

世界の太陽・婦人部 笑顔満開! 創価の母の大行進

2000.4.14 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  真の王女のように、私は、天から最極の恩恵を受持している。
 ゆえに私は、「希望」と「若さ」と「生命」という不滅の勲章を持っている。
 幸福という、太陽の子である私には、何も恐れるものは断じてない。
 私は、今日も、大空を見上げる。
 大空は、なんとすばらしいことか!
 無限の天空は、私の生命と同じく、瞬時も休まず、止まらず、自身の心に美しく開きゆく、自在の夢の楽園をつくってくれる。
 ゆえに私には、寂しさも、悲しさもない。
 私は、いかなる苦難も、必ず悠々と乗り越えていける、旋風の翼を持っているからだ。
2  私は、偽善者にはなりたくない。
 それは、悪魔であるからだ。
 罪深い、永遠の欲望に囚われて反逆しゆく人の、心が破壊されて血まみれの姿の哀れさを知っているからだ。
 今日も、風に炎は揺らめき、庭の木の葉はざわめく。
 しかし、私は、私の広宣流布の道を、悔いなく歩む!
 私の彼方には、旗がある。花の輪がある。凱旋門がある。
 多くの懐かしい、信じきれる仲間がいる。
 わが友の目の前に立つと、勝利の荘重なラッパが鳴る。
 勝利の歓声が聞こえてくる。
 堂々たる凱歌の太鼓が鳴っている。
 そして、友と友との、燦然とした、誇り高き饗宴が待っている。
 私の人生は勝っている。
3  間もなく、栄光と凱旋の五月三日。学会の″お正月″である、この日は、偉大なる勝利者の母を讃える、「創価学会母の日」である。
 さらに六月十日は、世界第一の女性のスクラムが誕生した、「婦人部の日」である。
 そして、偉大な母たちの平和の大行進の先頭を進んでおられるのが、ヤング・ミセスの皆様方である。
4  十四年前の一九八六年(昭和六十一年)、桜花爛漫の四月十一日のことである。
 前日、小平市の創価学園の入学式に出席した私は、この日、妻と共に、小平文化会館へお邪魔した。そこには、北多摩のヤング・ミセスの方々が、御書の研鑚にいそしんでおられた。
 私は、一家のご多幸と、お子さんの立派な成長を祈念して、一緒に勤行・唱題し、激励もさせていただいた。
 平凡というなかに、実は幸福への確かな道がある。
 来る日も、来る日も、太陽の辛抱強さで、皆に慈愛と希望の光を送り続ける婦人部こそ、創価の太陽なのである。
 この日が、後に「ヤング・ミセスの日」となった。
 戸田先生は「婦人の手で広宣流布できる」と言われた。
 そのお言葉の通り、婦人部の激闘ありてこそ、学会は民衆の大地に根を張った、世界最強の平和集団となったのだ。
 ことに″ヤング″で活躍された方々が、その後、地域の婦人部の中核へと、着実に成長している。嬉しい限りである。
5  ″ヤング″の皆様の奮闘は、育児をはじめ、実に大変だ。
 若いお母さんの大きなバッグには、″お出かけ七つ道具″が入っている。
 水筒・ミルク、おもちゃ、絵本、タオル・おしぼり、着替え・おむつ、ノート・鉛筆、ビニール袋……。勢い会合に参加するにも大荷物になる。
 おもちゃは、音の出るものは厳禁。マジックなども、会場の壁に絵を描かれては大変だから、持たせられない――などと、いろいろと気を使われているようだ。
 さらに、自由奔放な未来の大芸術家のおかげで、片づけても片づけても散らかる部屋。
 子供の病気もある。一瞬、目を離した隙の事故もある。
 幼子を抱えての活動は、確かに苦労が多い。しかし、子供を連れて学会活動できる期間は、長い人生にあって、ほんの限られた歳月でもある。
 大聖人は、幼いわが子を信心の後継者に育てようとする女性信徒に対して、御本尊を持ったならば、諸天善神が昼夜に身に影の添うように守護すると述べられている。
 どうか、どこまでも賢明に、価値的に動きながら、学会と共に、福徳無量の希望の大道を歩み抜いていただきたい。
6  また、お母さんのなかには、ご主人が未入会の方もおられるだろう。同居家族のことで悩む方もいるだろう。
 子宝に恵まれず、人知れず苦しんでいる人もいらっしゃる。
 現実の悩みは、絶え間ない。
 しかし、煩悩即菩提である。
 苦悩に負けてはならない。信心を忘れてはならない。いかなる労苦も、いかなる悩みも、すべて、幸福への原動力となると説くのが、日蓮仏法である。
 ゆえに、わが婦人部は、強く、強く生き抜くことだ。
 大聖人は、ある婦人に厳然と仰せである。
 「法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし
 何ものも恐れるな!
 何ものにも臆するな!
 これが婦人部の確信である。
7  一九七七年(昭和五十二年)の一月に、私は、学会本部で行われたヤング・ミセスの世代にあたるお母さん方の代表の集いに、妻と一緒に参加し、激励させていただいた。
 その終了後には、別の部屋に設けられた″託児所″にも顔を出し、子守り役を引き受けてくださった役員の方々をねぎらうとともに、未来っ子たちの輪に入り、全員と記念のカメラに納まったことも懐かしい。
 母から子への、信心継承の願いを込めて、子供たちとも触れ合いのひと時をもちたかったのである。
8  桜花薫る四月は、日本の女性が大きく羽ばたいた、歴史的な月であった。
 わが国で婦人参政権が認められ、初の女性代議士が誕生したのが、一九四六年(昭和二十一年)四月なのである。
 この月、戦後初の総選挙が行われ、開票の結果、実に三十九人の女性が、堂々と当選したのである。
 当選した女性議員に、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥は語った。
 「日本の女性は今まで、自分の家のためにすべてを捧げ尽していた。今後は、その優れた能力を、自分の住む社会や、世界平和のために捧げるように。目を広く開いてほしい」(加藤シヅエ『加藤シヅエ』〈日本図書センター〉の中で紹介〉)
 以来、半世紀にわたる幾山河を乗り越えて、いよいよ「女性の新世紀」が明け始めた。
9  私たちの決意の前には、勇気をくじく何ものもない。
 妙法という尊極の命が燃える、私たちの心には、勇敢な子孫が続いている。
 そして、私たちは、哀れな批判狂の山犬を見下ろしながら、悠然と進む。
 私たちの行く手には、隆々たる美しきものの永遠の讃歌が待っている。
 私の人生の地図には、暗闇はない。すべてが、黄金の思い出となって眼に映る。
 さらに、尊き歴史の、新たな世紀が待っている。
 ゆえに、私は、生き生きと、今日も走る。
 負けずに、今日も歩む。
 その神々しき旅こそ、仏の道であるからだ。
10  20000417 永遠に民衆と共に
11  君よ 天晴れ!
 一個の快男児たれ!
 君よ 偉丈夫と言われる
 人物たれ!
 ――かつて文豪・夏目漱石が、ホイットマンを賞賛したように。
12  中国の周恩来総理は、「つねに広範な大衆に接してこそ、勇気がわいてくるのである」(北京・外文出版社版『周恩来選集』、日本語版《周恩来選集》翻訳室訳、東方出版)と、決意していた。
 民衆を離れての指導者は、まことの指導者ではない。
 周総理は、「新中国」誕生の半年前にあたる一九四九年四月、時代建設を担う青年たちに訴えた。
 「部屋に一人で閉じこもり、見ざる聞かざるをきめこんでいてはだめで、千軍万馬のなかにあって、すすんで人びとと交わり、人びとを説得、教育し、人びとに学び、もっとも広範な人びとを結集して、ともに闘う、これこそ勇気と言えるし、こういう人こそすばらしい勇者と言える」(同前)と。
13  わが創価学会の七十年の歴史も、貧しくも尊き民衆のなかに入り、悩める民衆と苦楽を共にしてきた、苦難の道であった。
 さらに、嘲笑と悪口罵詈のつぶてを投げられながら、ひたすらに民衆の幸福のために、戦い抜いてきた。
 誇り高く、尊貴な、偉大なる激戦の歴史をつくり、築き上げてきた。
 周総理が、いち早く「創価学会を研究せよ」と言われた慧眼は、見事、的中していたといってよい。
 痛烈な非難と中傷を受けながらの我らの魂と行動は、究極の正義である。
 これ「第六天の魔王」の支配する世界にあって、信念と勇気ある者でなければ、絶対にでき得ない、崇高な聖業が広宣流布である。
14  それは、一九五七年(昭和三十二年)の八月のことであった。
 わが師・戸田先生は、「大作、今度は葛飾を頼むよ!」と、私に言われた。葛飾区の「総ブロック長」になれとの、お話である。
 私が無実の罪で二週間にわたって大阪拘置所に勾留された、あの「大阪事件」のあと、軽井沢や札幌へと転戦するなかでのことであった。
 葛飾の人びとは人情に厚く、気取りがない。人間味あふれる庶民の町であり、しかも未来性に富んでいる。
 古くは「勝鹿」とも書かれた葛飾の天地。ここに″民衆の勝利の都″を築け! 葛飾を東京の広布を決する″心臓部″に育てよ!――私は、師の期待をひしひしと感じた。
 私は、葛飾に、生き甲斐のある春風の吹く、堅固なる人材の大城を築くことを決意した。
 眠りながら人生の時を過ごしている人たちを呼び起こし、大音声をもち、長剣を抜いて、多くの魔性と戦いゆく雄叫びをあげたのである。
15  私自身、葛飾の総ブロック長として、徹底して家庭訪問、個人指導を心がけた。
 ある時は車に揺られ、ある時は自転車で、まだ舗装されていないデコボコ道をも駆け巡った。
 心で題目を唱えながらペダルをこいだ、亀有や立石、金町や細田の街角、路地裏……すべてがあまりにも懐かしい。
 会合には早めに行き、始まる前に会場の近隣の同志の家も回った。
 会合が終わると、大ブロック長のお宅を順番に回り、幹部との懇談会や質問会を開催した。皆をよく知ることはもちろん、幹部同士が深く知り合う場にもしたかったのである。
 さらに、一人ひとりの生活にも心を配った。商売が苦境にある男子部や夫婦仲が悪いという壮年など、悩みを聞いては共に祈り、全力で励ました。
 皆が使命の人である。宝の人である。宿縁深き同志である。
 一房のぶどうを皆で分けたり、数本のバナナを透けて見えるほど薄く輪切りにし、一緒に食べたことも、若き日の思い出の一コマである。
16  翌年(一九五八年)の九月、台風二十二号の襲来のため、葛飾でも、河川は増水し、多数の浸水家屋が出たほか、堀切橋も押し流されてしまった。
 私は大阪に出張していたが、帰京すると、すぐに葛飾に飛んだ。ことに、かつて自転車で区内を走った時、中川の土手の一部に低くなっている場所があったことが、気にかかっていた。
 大ブロック長の西方国治さんのお宅で長靴に履き替え、自転車を借りて土手を走ると、土嚢を積む作業中であった。
 「ご苦労様! しっかり頼みますね」と声をかけると、
 「わかりました! 大丈夫です」と、元気な返事。
 私を区役所の人と勘違いされたのか、「今日みたいなエラ方だと、声をかけられると嬉しいな」と、話し声がした。
 一緒にいた西方さんが、後にこう述懐しておられたという。
 「先生が、学会員であるなしに関係なく、皆を励まされる姿に驚いたものです」
17  私は、博識に満ちた書物よりも、無限に連なる無慈悲な人間よりも、光もなき苦悶の人びとを忘れゆく為政者よりも、何世紀もすべてに耐え抜いて生き抜く民衆が大事であり、この庶民の都が大好きである。
 自分は完全無欠などという虚栄心は、庶民には一つもない。しかし、無償で貢献していこうとする、奥深き信念の行動は、何百の棚の上の書物よりも尊い。
 これが仏法である。
 これが学会員であるからだ。
18  今、葛飾平和講堂では、地域の盆踊りに協力するなど、近隣の方々にも喜ばれ、信頼の輪を広げている。
 また、本年一月には、この講堂の、牙城会の迅速な連携プレーで、向かいの工場のボヤを初期消火で消し止めたという報告も伺った。
 青年の奮迅の活躍は、まことに嬉しき限りである。
19  私は、大好きな、葛飾の我が友に訴えた――。
 広布に捧げゆくその努力は、一見、無益な行動のように見えるが、最も尊き、悔いのない、自分自身の伝記をつくっていることを忘れないでほしいのだ。
 それは、あまりにも美しく、諸天と共感しあいゆく、驚くべき人生向上の勝利者の証なのである。
 我々は、正義のために多くの非難を受ける。
 しかし、復讐などせずも、厳然たる最後の審判が、彼らにある。これが仏法の因果の理法であることを知っているからだ。
 社会的地位で傲り高ぶり、権威と財力をもって人びとを見下げていくような時代は、もはや終わった。庶民の燃え盛りゆく勝利の夜明けが二十一世紀であるからだ。
 葛飾の友よ、頭を上げよ! 胸を張れ!
 君たちの胸に、勝利の旗は晴れ晴れと大きく振られている。

1
1