Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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征け! 偉大なる愛知 民衆が築けり 難攻不落の人材城

2000.3.31 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  愛知の広宣流布の歴史は、苦難と苦闘の連続であった。御聖訓に仰せのままの弾圧、誹謗、中傷。
 そしてまた、某政治家たちによる陰湿な迫害で明け暮れた、愛知広布の苦しみ通しの激戦であった。
 地獄のごとく、つぶてを投げられ通しの法戦であった。
2  しかし、決意と使命と真剣勝負の正義の信仰に立った先輩たちは耐え忍んだ。
 職場でも、地域でも、罵倒、罵倒、また罵倒をされながら、三類の強敵の嵐のなかを、戦い抜いた。
 それこそ、命懸けの一日一日であったにちがいない。
 東京から、応援に来た幹部も、そのあまりにもすさまじき狂気じみた、大迫害の実態に、驚きもし、嘆き、苦しみもした。
 だが、名古屋の先輩たちは、「去る者は去れ! 意気地なしは去れ!」との戸田城聖の絶叫を忘れなかった。
 彼らはひたすらに、巌にぶつかるごとく、戦い進んだ。
 一人、また一人と、やっと、折伏の道は開けていった。
 広宣流布の険しい坂道を、少しずつ登り、前に進んだ。
3  「進まざるは退転」とは、日蓮仏法の魂である。
 「勇気だ!」
 「祈りだ!」
 「励ましだ!」
 「行動だ!」と、彼らはわが愛する国土のために、生命を絞るような決意で、叫びに叫んだ。破折の精神の光を、一段と燃え上がらせた。
4  愛知は有名な「尾張法難」の舞台である。
 百八十年ほど前、一人の在家の弘教をきっかけにして、名古屋とその近郊の村々に、妙法の同志の輪は広がっていった。
 これに危機感を抱いた他宗と寺社奉行が結託し、約三十年に及んだ弾圧事件が、尾張法難であった。
 寺社奉行の命令で、他宗の七カ寺の僧侶との問答に臨み、堂々と破折したのも、在家であった。いつ終わるともつかない迫害を忍びつつ、逮捕された友を救わんと、命懸けで赦免運動に努めたのも、在家であった。
 自ら役人の追及を受けながら、その覚悟を詠んだ歌も残っている。
 「かくなれば浮世の事を打捨て唯此のり(=法)を頼みにぞする」(堀日亨編著『尾張法難史史料』)
 これが、名古屋の北在、つまり今の小牧、春日井、江南方面で活躍した庶民の、不撓不屈の信仰の境涯であった。
 「法華経ゆえの大難」というこの誇りを、無名の民衆が厳然と受け継いできたのが、わが愛知創価学会である。
5  一九五三年(昭和二十八年)の暮れ、私は、この広布開拓の苦難に満ち満ちていた愛知を初訪問し、名古屋市東区での座談会に出席した。
 翌日は岐阜を回り、名古屋に戻った私は、悪寒に震える熱っぽい体を押して、もう一カ所、座談会に出た。
 懐かしい、東松録三郎さん・園子さんのお宅であった。
 東松さんは、前年の夏、戸田先生が名古屋で最初に開かれた座談会で、入会した先輩の一人である。
 会合のあとも、私の寒気は治まらず、夜行列車までの時間、東松家の二階で、小休止させていただいた思い出は、忘れることはできない。
 二階で横になっている私に、東松さんは、毅然と言われた。
 「池田先生、何があっても、私たちは負けません。学会とともに、広宣流布のために戦います。どんなことがあっても、学会を守ります。学会を広げます。池田先生、見ていてください」と。
6  中部で最初の名古屋支部が結成されたのは、一九五六年(昭和三十一年)の九月である。
 初代支部長は津川康郎さん、婦人部長は夫人の春子さんであった。
 翌年の二月、この生まれたばかりの名古屋支部が前月の二・四倍の折伏を達成し、全国二十位から九位へと大躍進した。また、地区でも、愛知の豊橋が、二カ月連続で全国一位の折伏に輝いた。
 戸田先生は、この旧習の深い、中部の学会発展の機運を大変喜ばれた。そして「関西は盤石な土台ができ上がってきたし、この中部も、先々は本当に明るい」と。
 ともあれ、先生は、「次は中部だ、愛知だ」――そういうお心であった。
7  私は、難攻不落の中部の堅城を胸に刻みつつ、広布の師・戸田先生に一首を捧げた。
  いざや起て
    いざや築けと
      金の城
    中部の堅塁
      丈夫勇みて
 先生は、即座に、返歌をくださった。
  いざや征け
    仏の軍は
      恐れなく
    中部の堅塁
      立つは楽しき
 私は、生命と生命が一つに響き合う、この深き師弟の魂を瞬時も忘れず、断固たる決意で、偉大なる愛知の建設に駆け走った。
8  あの初訪問から四十七星霜。
 この間、百回を超える中部への広宣流布の旅路は、行事参加の記録だけを見ても、約三百日もの滞在となっている。
 西春日井郡の西枇杷島町の公民館や、名古屋市中区にあった金山体育館などで行われた会合には、何度も、何度も出席させていただいた。
9  一九七六年(昭和五十一年)は、一年間に七回も中部を訪問した年である。
 西区にあった名古屋文化会館を中心に、南区、北区、千種区、中村区、昭和区の会館に足を運ぶなど、友の激励に市内各所を駆け巡った。大切な愛知の皆様方と過ごした思い出は、今でも黄金の光を放って、わが胸に輝いている。
 「人の一生は重い荷を負うて遠き路を行くがごとし」とは、愛知が生んだ天下人・徳川家康の至言である。
 壮大なる闘争なくして、壮大なる建設も、壮大なる勝利も断じてない。
 私が「偉大なる愛知たれ!」と呼びかけたのは、十五年前の「幸の風」薫る五月のことであった。以来、わが愛知家族の朗らかな前進、雄々しき快進撃はとどまることを知らない。
 「艱難汝を玉にす」という格言があるが、苦難を越えて、強き愛知になった。
 頼もしき愛知になった。
 天下にそびゆる「偉大なる愛知」になった。
 過日の中部訪問でも、その勢いを感じた。青年部諸君の成長も著しい。実に嬉しい。
10  三世永遠の愛知の城を! そのためには、一にも、二にも、土台を固めることだ。人材をもって城とすることだ。
 愛知は、二十世紀の幾山河を勝ち越え、二〇〇三年の広布五十周年への大前進を、愉快に、力強く開始した。「偉大なる愛知」の尊き同志の足音が、歓呼の声が、今や、世界の各国にも轟き響いている!

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