Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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三代会長決定の前夜 広宣流布へ! 我は立つ

2000.3.29 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

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1  「偉大なる愛情は、深い智慧と切り離せない。
 智慧の広さは心の深さに等しいものである。それ故、人間性の最高の高みに達するのは偉大なる心であり、それこそが偉大なる智慧なのだ」(З. Борохов ″Знцнклопедня афоризмов,″ Издателъство АСТ)
 これは、十九世紀半ば、長崎に来航した、ロシアの著名な小説家ゴンチャロフの名言である。
2  私の先輩である小泉隆理事長は、大田区の蒲田駅の近くに住んでいた。その家は、以前は幼稚園だった場所で、地元の蒲田支部などの会合でも使われていた。
 私の家は小林町で、徒歩で二十分ほどの距離であった。
 理事長が、飼っていた秋田犬を連れて、わが家に来られたことも懐かしい。
 都議会議員という立場になっても、その気さくな人間味は、いささかも変わらなかった。
 その後、戸田先生が逝去された半年後の秋には、先生のおられた目黒へ引っ越しをされた。
3  一九六〇年(昭和三十五年)に入った、冬の朝早く、小泉理事長が、突然、わが家に来られたので、驚いて、上がっていただいた。
 「先生はお出かけになられる所でしょうから、すぐ失礼します」
 理事長は、決死の様子で、
 「先生、第三代会長を、是非とも、是非とも、お引き受けください。全理事の一致したお願いなんです。
 一番、戸田先生にお仕えした人が、会長になるべきです。
 また私たちは、いつも『次の会長は大作だよ』と伺っておりました。
 どんなことがあっても、お守りしますから、学会のため、広宣流布のため、戸田先生のためにも、お受けください」と懇願された。
 さらに理事長は、「原島宏治君も一緒に来たいと言ったけれども、むしろ一人の方がいいと思って、私だけで来たんです。宏治君からも″朗報を待っているよ。頑張ってきてくれ″と言われてきたんです」と語られ、帰られた。
 私も、妻も、その深い言動に心打たれた。
4  思えば、小泉理事長とは、不思議な縁で結ばれてきた。
 一九四七年(昭和二十二年)の八月十四日、私が最初に戸田先生とお会いした座談会にも、出席していた。生の事業が最も苦境にあった時、ただ一人、お仕えしていた私に、深々と頭を下げて感謝された先輩も、彼であった。
 その難を乗り越えて、先生が第二代会長に就任された翌年の一月、二十四歳の私は、蒲田支部の支部幹事に任命された。
 その時の支部長が小泉さんであり、婦人部長が白木静子さんであった。
 そして蒲田は、二月の一カ月間で、初めて二百世帯を超す、日本一の大折伏を成し遂げた。これが、戸田先生の願業の七十五万世帯の成就への起爆剤となった「二月闘争」である。
 また、私が無実の選挙違反容疑を着せられた大阪事件で、私と共に逮捕され、戸田先生への弾圧を阻止したのも、小泉理事長だった。
 さらに、日淳上人が亡くなる前日、枕元に呼ばれ、正法弘通を厳粛に託されたのも、私と小泉さんの二人である。
 「戸田先生の後を誰が継ぐか。それは決まっている。
 創価学会のために一番苦労した人が継ぐべきだ。それは何といっても池田先生だ。池田先生以外に、誰がいるか」――これが、小泉理事長の口癖であった。
5  戸田先生を失い、「空中分解するだろう」と悪口を言われた学会にあって、私は若き総務として、小泉理事長を守り、団結の方向へ、前進の方向へ、指揮をとってきた。
 だが、先生の三回忌の四月二日を前に、理事長が中心となって、第三代推戴への動きが始まったのである。
 三月三十日の午後、本部の第一応接室で、小泉理事長から、私に正式な要請があった。
 「今のままでは、学会の新しい発展はありません。
 会内には、先生の会長就任を待ち望む声が高まっています。どうか、今年の五月三日の総会で就任してください」
 小泉理事長の真情が、痛いほど伝わってきた。
 しかし、私は、わがままのようではあるが、きっぱりとお断りした。
 まだ三十二歳。あまりにも若輩である。
 戸田先生も、牧口先生の七回忌を終えられてから、会長に就任された。私も、せめて、戸田先生の七回忌までは、との思いであった。
 また、当時、私は、大阪の事件の被告の身であった。
 会長になって、万が一にも、有罪判決となれば、学会に傷をつけてしまう。断じて無罪を勝ち取るまでは、お受けできないと、私は決めていた。
 小泉理事長は、苦渋の色を浮かべながら、絶対に、引き下がらないという表情であった。
6  その後、四月九日に、臨時理事会の決定として、推戴の連絡をお受けしたが、丁重に辞退した。医師から「三十歳まで、もつかどうか」と言われた病弱な私である。
 この日の日記には、「誰か――疲れ果てたわれに代わり、指揮する者ぞなきか」(『若き日の日記』。本全集第37巻収録)と綴っている。
 四月十一日には、本部の会議室で、緊急理事会が行われ、私も出席した。
 理事一同からこぞって、要請があった。心苦しかったが、私は承諾しかねた。
 翌十二日も、また十三日も、理事室の代表から懇請をいただいたが、私は固辞した。
7  四月十四日の木曜日。朝の雨は止み、次第に晴れ渡っていった。
 この日、第一応接室に、小泉理事長と、原島宏治、辻武寿、柏原ヤスの三理事が待っていた。
 理事長は、有無を言わせぬ気迫を込めて、懇々と訴えた。
 「先生が辞退されている限り、広宣流布は遅れてしまいます」
 「偉大な第三代会長を全魂込めて守れ! 三代を中心に生き抜け! そうすれば、広宣流布は必ずできる。これが戸田先生の遺言でした」
 「会長推戴は、広布を願っての全幹部の要請です。お引き受けください」
 もはや、万事休すであった。
 「それほどの皆さんのお話なら……」と私が言いかけた瞬間、理事長は間髪を入れず、「よろしいのですね! ありがとうございます」と最敬礼をされた。
 時計は午前十時十分。
 壁には、牧口先生と戸田先生の写真が、一切を見守っていた。
 理事の一人が、急いで部屋を飛び出した。
 歓声があがった。皆の歓びが、波のように広がっていった。
 理事長は、目に涙をため、私の手を、強く強く握りしめて、離そうとしなかった。
8  戦時中、軍部の迫害に臆して、牧口先生を裏切り、戦後は戸田先生に敵対した輩がいた。
 その姿を通し、小泉理事長は、常に厳格に戒めていた。
 「私たちも人ごとではない。信心の古い人間は、油断すれば″五老僧″の嫉妬の心に腐ってしまうからだ」
 学会は、″五老僧″の末流による分裂の画策を、未来永遠に許さないとの断固たる決意であった。
9  この当時、青年部からも、「学会の首脳は、何をしているのか! 第三代会長の推戴を急げ!」との声が沸騰していた。
 小泉理事長は、その青年部の決起を頼もしく見つめていた。
 日興上人も、身延離山に際し、「原殿御返事」のなかで、「君達は何れも正義を御存知候へば悦び入って候」(編年体『日蓮大聖人御書』一七三四ページ)と記されている。
 たとえ誰が、悪知識にたぶらかされようとも、青年たちが正義を貫き通す限り、何も心配ないとの仰せである。
 「創価学会も、若き第三代会長とともに、青年部が立ち上がった。
 これで広宣流布の万年の未来は、もはや、大盤石である」
 誇り高き学会の元老は、確信の笑みを浮かべたのである。
10  それは、あの一九七〇年(昭和四十五年)の、言論問題の渦中のことであった。
 私が、日本中からの非難の集中攻撃を受けた時に、「第三代会長を、絶対に倒してはならない」と、体の弱かった私のことを案じ、一年間にわたって丑寅勤行を断行し、健康を祈ってくれたのは、小泉隆元理事長であった。
 彼は、「師弟不二」の学会精神を、深く体得していた人である。
 のちに、彼が重病に伏した時には、真剣に彼の健康を祈り続けたのは、私であった。
 彼は、「死のうと思っていたのに、先生に祈っていただいたお陰で、また元気になってしまった。また具合が良くなってしまった」と、娘や奥さんを通して、よく報告してくれたものであった。
11  師弟一体の黄金の絆が、仏法であり、創価学会の伝統であり、精神である。
 牧口先生、戸田先生は、今の学会幹部は恵まれた環境に″満足″することに慣れて、いわゆる″偉く″なってしまい、その根本の精神が薄らいでいると、思っていらっしゃるのではないだろうか。
 わが青年部よ! しっかり頼む。
 これが、私をはじめ、全学会員の願望である。

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