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日蓮大聖人・池田大作

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創価学園の第1回入学式 21世紀の大空へ!、わが鳳雛たちよ 学び飛びゆけ

2000.3.25 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  それは、第三代会長に就任する直前の、一九六〇年(昭和三十五年)春、四月五日の火曜日のことであった。
 私は、マッチ箱のような大田区小林町(当時)の自宅より、本部で用意してくださった車で、生き生きとした新緑の小平市(当時は小平町)の鷹の台を目指した。
 妻と二人で微笑みを浮かべながら、嵐にも揺るがぬ、将来の創価学園の建設候補地を視察するためである。
2  ここには、有名な玉川上水の清き流れがある。
 約三百五十年前、徳川四代将軍・家綱の時にできあがった水道であるようだ。
 完成当時、水道としては、世界一の規模であり、幕末・明治期に来日した外国人たちも、すばらしいと賛嘆した。
 せせらぎの音を聞き、未来の若き哲学者たちを生み出す、この学園アカデメイアを夢見、語りながら、私たち夫婦は、この地に向かって合掌した。
 誰もいない、上水のほとりの雑木林で、妻の手作りの昼のおにぎりを広げた。二個は梅干し、二個は鰹節であった。
 お茶の入った水筒があった。「あっ、忘れてきた! 湯呑み茶碗を」と二人で大笑いしながら、そのまま水筒の蓋を使って、代わる代わるに飲んだことも、楽しい思い出である。
3  小平という所は、もともと、月が沈む山もないほど、「平」な土地であった。
 一六五七年(明暦三年)、小川九郎兵衛が最初に開拓したことから、その名前の「小」をとり、「平」と結んで、「小平」と名づけたと言われる。そして、明治二十二年(一八八九年)、七つの村が合併されて「小平村」になったと、伺った。
4  当時、会長就任への要請を、私は固辞し続けていた。
 しかし、小泉隆理事長ら最高首脳から「このままでは、創価学会の未来はありません」との再三の懇請に、承諾せざるをえなくなっていった。
 万年の道を厳然と開くために、何から手を打つか。私は、第一に創価学園の創立への行動を起こしたのである。
 「牧口先生の悲願である、創価の学舎には、最高の教育環境を整えてもらいたい」とは、戸田先生の遺言であった。
 その教育の理想郷を探すに当たって、私は具体的に、四つの条件を定めていた。
 それは――
 一、武蔵野の大地であること。
 一、富士が見えること。
 一、清流が流れていること。
 一、都心から車で一時間ほどの距離であること。
5  眼前に洋々と開ける鷹の台の天地は、そのすべての希望に適っていた。
 ここだ! ここに、創価学園を建てるのだ。
 私は、約一万坪の敷地の購入を、この日、この時、決意したのである。
 当時は、あまりにも貧しい学会であった。資産は、わずかしかなかった。学校の設立など、誰一人として、夢にも思わなかった。
 しかし、私は妻に言った。
 「これから、本を書いて書いて、書き続けるよ。その私の印税で、世界的な学園を、必ずつくってみせるからね」
 妻は、微笑みながら頷いた。
 一陣の春風が梢を鳴らし、野鳥が勢いよく空へ飛び立った。
6  創価学園の起工式が行われたのは、その六年後(一九六六年=昭和四十一年)の十一月十八日。
 牧口先生の命日であり、また『創価教育学体系』が発刊された日であった。
 この日を迎えるまで、地元・小平の尊き同志の方々が、自発的に、建設予定地の清掃を続けてくださっていた。
 ヤブ蚊に刺され、土埃にまみれながら、雑草を取り、瓦礫を除く、気高き労作業は、六年間で百回を優に超えている。
 そこには、わが子を背負ったけなげな母の姿もあった。その幼子が、のちに学園に入学したというエピソードも、私は伺っている。
 ともあれ、この四十年来、学園を支え、守ってくださったすべての方々の真心に、私はいつも、感謝の題目を送っている。
7  一九六八年(昭和四十三年)の四月八日の月曜日。
 この日は、見事な快晴であった。青空に、白亜の校舎が眩しく映えた。待ちに待った輝きわたる第一回の入学式である。
 栄冠の第一期生は、高校三百二十一人、中学二百十七人。
 法華経には「五百弟子品」とあり、無限に広がりゆく人材の一つの核を、五百人としている。もとより次元は異なるが、中学、高校を合わせると、五百人の使命深き英才の出発となった。
 まだ十五歳、ないし十二歳という少年たちが、北は北海道の知床半島、南は奄美大島、沖縄から、先輩もいない、歴史もない、まったく無名の学園に、馳せ参じてくれたのである。
 本人も、また送り出されたご家族も、どれほど深い決意に燃えていたことか。私は心で涙しながら、若き逸材の祝福に駆けつけた。
8  この日、正午前に、私は、学園に到着した。
 車を降りるや、ロータリーに集まった新入生に囲まれた。まず記念の花束を、私の方から新入生の代表に贈り、そして、みなと一緒に、モットーの碑の除幕を行った。
 「英知」「栄光」「情熱」の三項目である。
 その場で、新入生が、覚えたばかりの校歌を、歌って聞かせてくれた。清々しい青春の歌声が、大空へ響いていった。
 それから、玉川上水の上に架かる「栄光橋」の渡り初めである。
 二十一世紀への行進のごとくに、その真新しい橋を渡りながら、私は、学園生に語った。
 「創価学園は、周囲を、彼方の山と川、武蔵野の平野と木々の緑に囲まれている。山は王者であり、川は純粋な精神である。武蔵野の平野は限りない希望を、そして、緑は潤いのある人生を表している。どうか、この栄光橋を渡る時、自分も栄光の人生を渡っているとの確信に燃え、進んでほしい」と。
 一切が、ゼロからのスタートである。私は、一つの橋にも、明確な意義づけをし、誉れ高き伝統を築いていきたかったのである。
9  初々しい学園生と、記念の撮影に納まった。皆、凛々しき秀才の顔をして光っていた。
 思えば、牧口先生と戸田先生、また戸田先生と私は、二十八、九歳という年齢の開きがあった。ほぼ同じ年齢差で、私に続く若人が、この一期生である。不思議な感慨を覚えた。
 私はこの時、四十歳。
 歴史を振り返れば、師ソクラテスの志を受け継いだ、かのプラトンが、学園アカデメイアを創立したのと同じ年代である。
 人生の総仕上げの事業と定めた教育への挑戦を、私は、学園一期生と一体になって、本格的にこの日から開始した。
 記念撮影のあと、体育館の側面に設置された「青年と鷲」のブロンズ像が披露された。その時、未来部を代表して除幕を行った、小学四年生の息子の尊弘が、現在、学園の常任理事として、創価教育の発展に尽力している。
10  諸行事が一段落すると、私は、「栄光寮」へ向かった。親元を離れた寮生たちを、少しでも励ましたかったのである。
 「ホームシックになるのは、お腹が減った時、成績が下がった時と、病気になった時だよ」
 「先輩は後輩を、弟のように可愛がり、後輩は先輩を、兄のように尊敬していくという、麗しい気風で進んでほしい」
 「日本一、世界一の寮にしていこう!」
 この寮のあった敷地は、今、野球部のグラウンドとなり、その一角に「誓球寮」が立っている。
 創価の球児たちは、春夏通算七度目の甲子園出場を勝ち取った。今日は、晴れの開会式である(第七十二回選抜高校野球大会)。朗らかな敢闘を祈りたい。
11  一期生は、一人ひとりが格別に思い出深い。
 つい先日も、現在、大学教授として活躍する一期生から、嬉しい便りをいただいた。この春から、イギリスの名門大学に、客員研究員として行ってまいりますという報告であった。
 広宣流布の組織でも、埼玉で圏長として、指揮をとってきたリーダーである。
 そこには、こんな一節が綴られてあった。あとに続く学園生への励ましとして、ありのままに紹介させていただきたい。
 「学園一期生として入学以来、創価大学大学院修了までの十二年間を、創価の学舎で学ぶことができたことが、私の最大の誇りであります。特に高校一年から二年への進級の時、成績不良者の一人として、創立者室において、池田先生より、直接、激励を受けたことは、生涯の私の原点となっております」
12  巡り来る春四月、学園の入学式は、私と妻にとって、一年のなかで、最も心躍る日である。
 今年は、東京校は、第三十三期生。関西校は、第二十八期生の新入生を迎える。明二〇〇一年。アメリカ創価大学のオレンジ郡キャンパスでも、第一回の入学式が行われる。
13  かつて、大教育者ペスタロッチは、自らの創立した学園の草創の友に呼びかけた。
 「諸君が私の許に来られたその日(入学の日)、即ち私の胸に諸君を抱きしめ、大空高く両眼を投げかけたその日こそ、私にとって聖なる日であった。私はその時、諸君に対する最大の希望を胸に抱いたのである。その希望は果された。
 諸君は立派に教育された。諸君は立派に人となった。諸君は今や人類に尽すことが出来、且つ進んで尽そうとしている」(「学園講演集」四本忠俊訳、『ペスタロッチ』3所収、玉川大学出版部)
 この教育のロマンが、わが心に、いよいよ高鳴りゆく昨今である。

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