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日蓮大聖人・池田大作

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春光輝く滋賀の湖 大願を起こせ! 太陽と進め!

2000.3.10 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  かつて、インドネシアの著名な文学作品である『人間の大地』(プラムディヤ・アナンタ・トゥール著)という本を読んだ。そのなかに、忘れることのできない一節があった。
 それは、「私にとって幸せな人生とは、他者から与えられるもののなかにあるのではなく、自らの苦闘のなかから見つけ出すものだ」(押川典昭訳、『プラムディヤ選集』2、めこん)と。
 その通りであると思った。
2  この半世紀、私は仏意仏勅ともいうべき広宣流布のために、東奔西走し抜いてきたつもりである。まったく悔いのない青春時代であり、歳月の旅路であったと、嬉しく思い、誇りと思っている。
 私には、日本中、多くの歴史的な思い出があるが、その一つの光景として、平安の宴を映す、あの湖面も美しき、詩情豊かな琵琶湖が鮮やかに胸に浮かぶ。
 ある時、わが師・戸田城聖先生が、笑みをたたえながら言われた。
 「大作、いつか琵琶湖のほとりに青年の研修の場をつくりたいものだな。牧口先生も喜んでくださるだろう」
 思えば、牧口先生は『人生地理学』で、琵琶湖を秀峰・富士と並ぶ「我邦の双美」とされ、湖の美景は、青年たちに大いなる影響を及ぼし、世界雄飛の気宇を涵養すると、厳然と論じておられたのであった。
 そうした先師、恩師のお心を体して、私は、二十一世紀の若き指導者の育成の道場を、琵琶湖の湖畔に築くことを心密かに決意していた。
3  滋賀の研修道場が、西に琵琶湖を望み、東に伊吹山を仰ぐ、米原の地に晴れ晴れと誕生したのは、一九七一年(昭和四十六年)の九月五日であった。
 心の晴れ渡った、あの日、賑やかな開所式では、私たちの思い出の第一回「琵琶湖フェスティバル」が明るく開催された。
 希望に燃えゆく高等部の英才たちが清々しい声で「琵琶湖周航の歌」を合唱してくれた。皆が期せずして大拍手を送った。そして、皆で何度も、何度も、この「琵琶湖周航の歌」を歌ったことは、ことに、忘れ得ぬ懐かしき思い出となった。
 民衆的な親しみの音楽と誇りある讃歌を、湖の波とともに謳い上げている、滋賀の研修道場に、私は、幾度となく指導に走った。
 開所以来、明年で三十年となる、この豪華な人材の城を築き上げた道場からは、なんと多くの偉大なる広宣流布のスクリューの力をもった若人が巣立っていったことか。
 その広布への宣言の誓いを刻んだ道場には、風雪のなか、「世界の友顕彰の碑」が、今も粛然と立っている。
 ここには、世界中から地涌の同志が訪れる。世界が見つめている人材の城、世界に希望の光を送る同志の城、すばらしき不滅の興隆の滋賀になったことを、私は確信したい。
4  一九七六年(昭和五十一年)の厳寒の二月のことである。
 京都から滋賀に入った私は、まず、草津で新会館の起工式を行い、電光石火、大津の会館に走った。
 この年は、滋賀県に最初の「班」の組織が誕生して二十周年。そして私が、滋賀の六千人の同志と、大津の県立体育館で意義深き記念撮影をしてから、四年ぶりの訪問であった。
 寒い二月であった。雨も降っていた。当時の会館はあまりにも狭く、照明も暗かった。
 非難中傷の雨に打たれながらの、まだまだ小さな、わびしき滋賀の創価学会であった。
 私は断固として訴えた。
 「滋賀よ、日本一の朗らかな大滋賀を建設せよ!」と。
 そして、すべての人が大きく境涯を開き、「常勝の人生」「常勝の滋賀」を築いてほしいと祈った。
 仏法は勝負である。信心に中途半端はない。
 日蓮大聖人は、弟子たちに、何度も「大願を起こせ」「思い切れ」と激励されている。
 環境がどうあれ、朗らかな、決然たる心さえあれば、そこに偉大な活力の太陽、敗北することなき太陽が昇るのだ!
5  「法華経を・をしへの如く時機に当つて行ずるにはことに難あるべし」とは、大聖人の厳たる御聖訓である。
 「如説修行」の滋賀の同志もまた、この御文の通り、私とともに大難の烈風を受けた。なかでも、琵琶湖の北西部に広がる高島方面には、最も激しい迫害が襲ってきた。
 恐るべき陰険狡猾な坊主たちは、悪意に満ちた雑誌を片手に、永遠に許せぬ、卑劣な学会攻撃を繰り返してきた。
 さらに、巧みな言葉の裏に、寺に従わなければ葬儀や法事にも行かないと、恫喝の睨みをきかせてきた。
 特に許せないのは、尊き広布の会合での、信頼し合い、尊敬し合っている会員たちの言動を、戦前の″特高″さながらの、監視さえしていたということであった。
 こんな非道が、そして無慈悲が仏法であるはずがない!
 わが同志は、唇を噛み、岩に爪を立てて、苦悩の闇に希望の黎明を探して、必死に前進していったのであった。
6  一九八一年(昭和五十六年)の秋十一月、遂に、反転攻勢の進撃を開始した私は、死を覚悟して、四国や関西等の各地を回り始めた。
 あの地も、この地も、冷たい汗に濡れて疲れきった亡命者の如く、権力の坊主たちに追いつめられていた、あまりにも、かわいそうな同志がいた。
 この健気な同志たちに、勇気を与えよう、光を与えよう、歓喜を与えよう、勝利を与えようと、正義の月桂冠を右手に高く持ちながら、私は巌の魂をもって滋賀に突入した。
 研修道場で行った自由勤行会には、二千五百人以上の友が、「我は立つ!」「私も戦う!」と、勇んで集ってこられた。
 太陽は闇を破る。「法華経は日輪のごとし」と、大聖人は仰せである。今再びの創価の旭日が昇ったのだ。
 翌年(八二年)の五月には、私は、一番苦しんできた高島の代表にお会いした。
 この高島の英雄たちが、地元の一本部で、堂々たる凱歌の文化祭を開催したのは、一カ月後の六月六日。牧口先生のお誕生日であった。
 出演者四百人、大勢の友人も参加されて、観客はなんと千二百人にも広がった。
 現在、高島は、かつての世帯数を遥かに超え、高島本部、喜多高島本部の二本部に大発展している。
 滋賀の同志は、まず今年の五月三日をめざして、県下三万人の座談会運動を行っている。
 また、二〇〇二年の関西広布五十周年を勝ち越え、二〇〇三年の黄金の創立記念日へ、五十本部、百五十支部、五百地区をめざして、大きく力強く、希望の拡大を進めておられる。
 さらに、全県の一割の方々に聖教新聞の購読をと、目標は明確であり、遠大である。
7  滋賀は、詩情の国である。
 千年の昔、ここ近江の湖を見つめた一女性は、人類史に燦然と輝く、壮大なるロマンの物語を綴り残した。紫式部の『源氏物語』である。
 滋賀はまた、堅固な城の国でもある。
 信長も、秀吉も、家康も――皆、この地に城を築いた。
 過日、私は、尊き同志の福徳と栄光を祈り、贈った。
  滋賀県の
    偉大な広布の
      開拓者
    断固と護らむ
      諸天も諸仏も
 雄大な歴史の絵巻の大舞台・滋賀の友よ!
 麗しき湖国の五十の愛する市にも、町にも、そして村にも、「広布永遠の都」を、断固として建設してくれたまえ!

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