Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「大森の海苔」に想う 寒風に挑め 苦難が汝を強くする

2000.1.21 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  「青年男子たるものは常に挑戦しなければならない。
 怠惰にしていて誉れを得る者など一人もいないし、
 苦難が男らしさを生みだすのだから」(『アルケラーオス』根本英世訳、『ギリシア悲劇全集』12所収、岩波書店)
 これは、ギリシャの詩人エウリピデスの言葉である。
2  ちょうど一年前、私は、光栄にも、アルゼンチンのフローレス大学から、「名誉博士号」を、また、妻にも「社会学部名誉教授」の称号を頂戴した。
 授章式の席上、推挙の辞のなかで、ケルテース学長は、私が″海苔屋の息子″であり、少年時代に海苔づくりを手伝ったことまで紹介された。
 六十年以上も前の、遠い話である。これには、いたく恐縮する思いであった。
3  今は埋め立てられて、全く姿を消してしまったが、当時、私の故郷の大森の海には、「海苔ヒビ」が林立していた。
 ″江戸っ子″のなまりの私は、どうも「シビ」となってしまうのであるが、この「ヒビ」というのは、海中に立てて、海苔の胞子を付着させて育てる「粗朶」のことである。
 そのころは、「竹ヒビ」が主流だったと思う。
4  一月といえば、海苔の収穫の最盛期で、朝から晩まで、最も忙しい季節であった。
 私の幼い記憶をたどっても、家族が正月にゆっくりと休んでいた映像は全くない。
 海に出掛ける時間は、潮の干満の具合で決まった。明るいうちに海苔を採る場合もあれば、夜中に潮が引く時は、カンテラの光を頼りに作業した。
 さて、海に出ると、「ベカ」と呼ばれる一人乗りの小舟の上から、海中に手を入れて、「ヒビ」に付着して生育した海苔を摘み取るのである。
 冬の海は、刃物で刺すように冷たい。
 潮があまり引いていない時だと、肩までズブ濡れになって、やっと海苔に手が届く。そうして摘んだ海苔を、カゴに入れていくのである。
 最も寒さの厳しい、この一、二月に採れたものは「寒海苔」といわれ、香りもよく、味にコクがあった。
5  収穫した海苔は、一日おいて翌朝から製品化の作業となる。収穫量にもよるが、だいたい、午前三時、四時に起きて、仕事を始めなければならなかった。
 また、早朝に採った海苔は、その日のうちに干し上げなければ、品質が落ちてしまう。ともかく、「朝が勝負」であった。
 ことに母は、食事の支度をするために、誰よりも早く起きなければならなかった。
 だが、いつも、淡々と、微笑を浮かべて切り盛りする母であった。
6  私は、よく早起きをして、この海苔製造の作業を手伝った。
 凛とした朝の空気に触れると、心が引き締まる思いがしたものだ。
 作業は、まず「海苔切り」から始まる。
 私は、父に「海苔切り機」を使わせてもらい、生海苔を細かく刻んだ。確か、わが家の機械は、二枚組みの刃の付いた包丁が四本あり、それを上下に動かして裁断していた。
 次に「海苔付け」。私が刻んだ海苔を、父が水にとかし、よく混ぜる。
 それを枡ですくって、葦の茎を編んだ「海苔簀」の上に置いた四角い木枠に流し込み、むらなく「海苔簀」に付けていく。こうして、海苔を紙状に抄くのである。
 続いて「海苔干し」である。「海苔簀」に付けた海苔を、天日に干す作業になる。
 これも、よく手伝った。干し場に何百枚、何千枚と並ぶ海苔は、壮観であった。
 そして、できあがった海苔を、問屋に届けた。無事に、お使いの責任を果たすと、凱旋将軍のように、意気揚々と帰ってきたものである。
7  私の家は、古くから海苔づくりをしており、かなり大規模に営んでいたようだ。
 しかし、「昭和」に入るころには、既に、陰りが見え始めていた。さらに、私が尋常小学校の二年生の時、父がリウマチで倒れると、家業は急速に傾いていった。
 しばらくすると、大好きだった長兄が兵隊にとられた。小学生の私でも、わが家の大変さを、ひしひしと感じた。
 ″もっと、何かできることはないだろうか″
 やがて、私は、家の手伝いに加えて、新聞配達もするようになっていくのである。
8  海苔の生育には、風の強い、寒い日が良いと、私は聞かされていた。無風で暖かい日は、かえって良くない。
 だから、乾燥して、よく北風の吹く厳寒の日には、「いいあんばいで」と、挨拶が交わされていたものだ。
 ″いい海苔は、凍てつく北風がつくってくれる″――そういう心持ちは、今も、大森育ちの私のなかに残っている。
 スカンジナビアには、「北風がバイキングをつくった」という諺があるが、厳しい寒風を追い風と受け止める、心の強さ、豊かさがある。
 人間もまた、北風に打たれながら、荒波を越えて、雄々しく生き抜いていってこそ、本物の力がつく。鍛えられる。
9  子供の私が、海苔の製造を手伝っても、それほど家業の役に立つというものではなかったかもしれない。
 しかし、ささやかではあっても、自分なりに考え、手伝ったということは、なんともいえない充実感があった。
 この経験からも、子供たちには、年齢に応じて、家の手伝いをさせ、家族の一員として責任感をもたせるべきだと、私は思っている。
 海苔は大切な商品であった。だから、普通、家族が口にするのは、干した海苔を剥がす時に残った切れ端であった。
 確か、「ボロノリ」といったが、それでも、あの磯の香り、豊かな味は忘れられない。
  幼き日
    海苔の香りの
      大森の
    全てが懐かし
      今も懐かし
 数年前、大森の婦人部の方々にお贈りした歌である。
10  一九六〇年(昭和三十五年)十月二日、私は、羽田の空港から、生まれ育った大森の海を眼下に見つめながら、最初の海外訪問に出発した。
 ハワイに到着した夜、連絡の手違いもあって、ホテルに着いた時には、ルームサービスさえない真夜中になっていた。
 私は、旅行鞄に忍ばせていた大森の海苔の束を取り出して、同行の友と分け合って食べたのであった。
 四十年前の、懐かしき一夜。
 今にして思えば、故郷の香りに包まれながら、決然と踏み出した、世界平和への遥かな旅の第一歩であった。

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