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日蓮大聖人・池田大作

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雄々しき熊本の歌声 断固と越えゆけ! 激戦の坂

2000.1.12 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  一年の初めと比べて、その年の終わりに、自分自身がはるかによくなったと感じられる人は、人間として最も幸福な人である――。
 これは、文豪トルストイの人生観であった。
2  一九八一年(昭和五十六年)十二月十五日のことである。
 「万歳! 万歳!……」
 澄みきった師走の天空に、千五百人に及ぶ「広宣流布の英雄」の若き声は、歓喜の波となって轟きわたった。
 天は晴れ、私は、心から愛する熊本県の広布の同志とともにいた。
 この方面も、嫉妬と陰湿な策謀を抱ける坊主らに、最も苦しめ抜かれた地である。
 その悔しさを跳ね返すために、雄々しき熊本健児は、わが熊本文化会館のそばの、壱町畑公園に集まった。
 ここで、勝利の思い出の写真を撮り、全員で勝鬨をあげた。
 そして、自然のうちに、熊本の″愛唱歌″ともいうべき「田原坂」の歌の大合唱となった。
3   ♪雨はふるふる 人馬はぬれる
   越すにこされぬ 田原坂
   右手に血刀 左手に手綱
   馬上ゆたかな 美少年
   天下取るまで 大事な身体
   蚤にくわせて なるものか(熊本県民謡)
 私は深く決意した。
 この尊き同志たちを、蚤にも劣る邪険な奴らに食わせてなるものかと。
 雄渾なる魂の熊本の同志たちは、邪悪な坊主たちによる″険難の田原坂″を、堂々と勝ち越えていった。
 悔し涙に濡れた頬は、今、笑顔に光っていた。戦いは断固として勝たねばならぬ。
4  第二代会長・戸田先生が逝去されて七カ月。その十一月十六日、熊本県下の一万人の友が、意気高く、記念すべき大会合に集合した。場所は、熊本市立体育館であった。
 私と一緒に、全国一の熊本支部の結成大会の歴史を刻んだのである。天草から駆けつけた、健気なる同志の顔も、忘れることはできない。
 さらにまた、一九六八年(昭和四十三年)の五月には、思い出多き菊池郡の大津町での「花の記念撮影会」へ出席した。
 会場は、なんと優に一万本を超えゆく、真心の花、また花で飾られていた。
 私は、そのバラやカーネーションを、一本一本とりながら、婦人部の方々の胸につけさせていただいた。
 そして、記念写真に納まった。
5  時移りて、嫉妬に狂った法主らの、どす黒き謀略が明らかになる直前(一九九〇年九月)、私は、十回目の熊本訪問を果たした。
 この折、長寿県の熊本での会合の意義を留めて、私は「健康の四モットー」を提案した。
 (1)張りのある勤行
 (2)無理と無駄のない生活
 (3)献身の行動
 (4)教養のある食生活
 以上の四点である。
 わが同志のご健康とご長寿、そしてご多幸。これは、私の一切の祈りの根本である。
 会合が終わりに近づくころ、若き広布の英雄たちが「田原坂」を声高らかに歌ってくれたことを、ああ、私は生涯、忘れることはできない。
6  熊本城の北方約十八キロメートルにある田原坂は、「西南戦争」の最大の激戦地であった。
 一見なだらかな丘陵だが、当時は、この辺りで、大砲を載せた車が通れる唯一の坂であり、戦いの急所でもあった。
 一八七七年(明治十年)の二月、西郷隆盛を押し立てて決起した薩摩軍は、政府軍が籠城する熊本城を包囲する。
 そのため、博多から政府軍の援軍が南下し、迎え撃つ薩摩軍と、ここ田原坂で激突したのである。
 戦闘は三月四日に始まり、坂の上を占拠する薩摩軍に対し、政府軍が幾度となく、猛攻撃をしかけた。熾烈な白兵戦に次々に兵士は倒れ、嵐のごとく銃弾が飛び交った。
 二つの弾丸が空中で衝突した「かちあい弾」が幾つも見つかるほど、凄惨を極めた死闘であった。
 しかし、三月二十日に至り、政府軍に背後を突かれた薩摩軍が敗走し、難攻不落の要衝は遂に陥落した。夜来の雨で、薩摩軍の旧式の銃の多くが使えなかったともいわれている。
 両軍合わせて約七千五百人もの若き生命が散った。
7  私が、この田原坂に足を運んで追善の唱題をしたのは、一九六八年(昭和四十三年)の秋のことである。
 道々、蜜柑や柿がたわわに実をつけ、のどかな田園風景が広がっていた。
 坂の上の茶店のご主人である故・作田聖さんが、丁寧に、「田原坂の激戦」の様子を説明してくださった。
 学会の青年部が、よくお邪魔していることも伺っていた。
 私は、せめてもの御礼にと、書籍に揮毫して贈った。
8  戸田先生は「田原坂」の歌が大変お好きであられた。
 たびたび、私たち青年とも歌い、舞われた。そして、目頭を熱くされるのが常であった。
 ご逝去の二カ月前、先生は、歌のモデルといわれる、弱冠二十歳の三宅伝八郎の話をされた。この青年が激戦に疲れながらも、死んだ同志のために伝令を果たそうとした姿を通して、先生は強く言われた。
 「君たち青年部は、生きて、生き抜いて、民衆の楽土をつくるのだよ。つまらぬ失敗で、身を滅ぼすようなことがあっては、絶対にならんぞ!」
 さらに先生は、「田原坂」を合唱した婦人に、こう語られている。
 「傷ついた子供も守り、立派に大きく育てて、再び、世に送り出そうとする。その母の心境がこの歌だと考えてみてはどうかね……」
 先生の眼鏡の奥が、慈愛に光っていた。
9  蓮祖は仰せである。
 「法華経を持つ者は必ず成仏し候、故に第六天の魔王と申す三界の主此の経を持つ人をば強に嫉み候なり
 また、「末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有つて流罪死罪に及ばん」と。
 御聖訓に照らして、広宣流布に「三障四魔」「三類の強敵」があるのは、必然である。
 その坂を、我々は、勇敢に乗り越え、勝ち抜いて、「末法万年尽未来際」にわたる、正義の道を切り開いているのだ。
 これこそ、人類にとって、最も大事な、最も尊き、平和と幸福の道であるからだ。
 戸田先生は、「右手に血刀左手に手綱」の歌詞にちなみ、「学会は『右手に慈悲、左手に哲学』で進むのだ!」と教えてくださった。
10  思えば、一九六〇年(昭和三十五年)の五月三日。
 私の第三代会長の就任の際、熊本の同志が、美しい肥後菖蒲の花を、たくさん届けてくださった。嬉しかった。
 御宝前に捧げ、また宝城のあちこちに飾り、あとは、これから勇み立ちゆく青年の諸君たちに差し上げた。
 また、怒涛が逆巻く嵐の大法難で迎えた就任十周年――。
 「多くの人が退転しようとも、熊本の地には、先生の本当の同志がおります」と、手紙をくださったのも、「火の国」の婦人部であった。
 すばらしき人生の歴史と年輪を、幾重にも刻んできた、誇り高き熊本家族とともに、私は、二〇〇〇年の五月三日を晴れやかに飾りたいと願っている。
 合掌

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