Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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仏法は勝負なり 「創価学会の信心」に大功徳

1999.10.9 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  ある高名な宗教学者の方が、こう語られていたと伺った。
 「創価学会の発展は、戦後の日本社会における一大奇跡だと思っています。学会には、いろんな困難が起こりますが、それらを見事に乗り越え、ますます発展されている。心から敬意を表します」と。
2  学会は、二十一世紀の大空に昇りゆく希望の旭日である。
 山に山を重ね、波に波を重ねる大難の歴史であった。
 しかし、学会は、不屈の巌のごとく、いっさいの波浪をはね返し、遂に、民衆の勝利と幸福の勝鬨をあげたのだ。
 この大発展を可能にした、根本の因は何か。
 それは、一言でいえば、御本尊の偉大な御力であり、創価学会の「信心」である。
 「暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」(「観心本尊抄文段」文段集四四三ページ)とは、日寛上人のあまりにも有名な御文である。
 わが尊き同志の皆様は、この仰せの通り、大御本尊を信じ、妙法を唱えに唱え、祈りに祈り、戦いに戦い、そして、断固として勝ったのである。
3  御本尊の向かって左の御肩には、「有供養者福過十号(供養すること有らん者は福十号に過ぎん)」とのお認めがある。
 この「十号」は、仏の「十の尊称」のことで、「如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊」と説かれている(別の分類の仕方もある)。
 たとえば、仏は、世の尊敬や供養を受けるに値する者の意味で「応供」といい、正しく悟った人ゆえに「正遍知」という。
 知と行を完全に具えることから「明行足」といい、迷いの世界を超え、よく悟りに達するゆえに「善逝」と呼ばれる。
 また、世間に通暁する意味で「世間解」といい、人間の心を調え、よく悪心を制御する勇者ゆえに「調御丈夫」と名づけ、諸天と人間の師匠となることから「天人師」という。
 いわば、最高の人間学、指導者学の勲章といえよう。
 妙法を信受し、御本尊を供養した福徳は、このような仏様を供養する功徳に勝ると、明確に仰せなのである。
4  明年は、牧口初代会長、戸田第二代会長が、お二人で学会を創立されて七十周年。さらに、両先生のお心を継いで、第三代の私が、世界広宣流布の扉を開いて四十周年である。
 この間、私どもは、ありとあらゆる三類の強敵の邪悪を打ち砕きながら、日蓮仏法を世界に弘め、百二十八カ国・地域に御本尊を流布してきた。
 まさに、仏法史上、未曾有の供養といってよい。
 わが同志が、生々世々、最高の知性と人格をもつ大指導者として、自在に活躍されゆくことは、御本尊様のお約束であり、絶対に間違いないのである。
5  一方、御本尊の右の御肩には、「若悩乱者頭破七分(若し悩乱せん者は頭七分に破れん)」と認められている。
 「頭七分に破れん」は、「心破作七分(心が七つに破れる)」ともいわれる。御本尊を誹謗し、正法の実践者を迫害する輩は、心がずたずたに裂けてしまうというのである。
 「心」の崩壊とは、すなわち「精神の機軸」の崩壊である。要の壊れた扇のごとく、人間としての根本が狂ってしまう。
 そうなれば、当然、正邪も、善悪もわかろうはずがない。
 正義を憎み、自分で自分の生命を破壊し、地獄の闇へ沈んでいくことになる。
6  「福過十号」と「頭破七分」――仏法の因果は、あまりにも厳しく、仏法の勝負は、あまりにも峻厳である。
 牧口先生は、常々、こう言われていた。
 「御本尊様は偉大な力がおありになる。罰なくして大利益があるわけがない。子をしかる力のない父が、子に幸福を与えられない。御本尊様をじっと拝んでみよ。『若し悩乱せん者は頭七分に破れん』との御本尊様のおおせが聞こえないか」と。
 戸田先生は、論文「創価学会の歴史と確信」の中で、この初代会長の持論を紹介しながら、明快に記されている。
 「利益と罰は、われわれ日常の真実の生活であり、価値生活の全体である。この尊いことを忘れておって、牧口先生がこれを説くや、おどろきあわてた連中のすがたは、いま思い出してもこっけいのきわみである。
 そして、いまごろになって、むかしから知っていたような顔をしている悪侶もあるのにはおどろくのである。今日にいたって、なお、これを思い出さない愚侶もいるのには、おどろくというより無知を悲しむものである」(『戸田城聖全集』3、聖教新聞社)と。
 それどころか、悪侶たちは、罰論を説いて弘教された牧口先生を、″宗門の教義に背く″と激しく攻撃さえしたのだ。
 「悩乱せん者」そのものであり、戦時中の「神札事件」のごとき、「頭破七分」の現証も必然であった。
7  日興上人は、五老僧の師敵対の悪行について、「一同に此の本尊を忽緒し奉る」と、″御本尊を軽んじ、ないがしろにした″大罪を明確に挙げておられる。
 この五老僧の末流こそ、今日の日顕宗なのである。
 日蓮仏法は、全世界を照らす「太陽の仏法」である。
 「修羅は帝釈をあだみて日天を・いたてまつる其の矢かへりて我が眼にたつ」――日輪に矢を射た修羅のごとく、「太陽の仏法」に反逆した日顕宗は、仏罰厳然として、暗黒の自滅の一途をたどっている。これこそ、「頭破七分」の破滅の姿である。
8  「罰を以て徳を推するに我が門人等は福過十号疑い無き者なり」とは、蓮祖の御断言である。
 御本尊の功力顕然たり!
 仏法の勝負は明白なり!
 仏意仏勅の創価学会に大功徳は無量である。
 わが戦友たる、尊き同志よ! 燦々たる福光を浴び、隆々と威光勢力を増しながら、晴れ渡る「創価の世紀」に乱舞しようではないか!

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