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日蓮大聖人・池田大作

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三十二年前の長野・松代にて 戦う時は今 わが不滅の決戦譜を

1999.9.10 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  三十二年前のあの日、私は、上野から特急「第一あさま」に乗り、信州に向かった。
 島崎藤村ゆかりの小諸に降り立った私は、小諸会館、懐古園を訪問したあと、長野市の松代をめざして車を走らせた。一九六七年(昭和四十二年)の六月二十三日のことである。
2  千曲川の東岸にある松代は、かつて、真田十万石の城下町として栄えた街である。
 また、太平洋戦争の末期に、本土決戦に備え、この地に大規模な地下防空壕――いわゆる″松代大本営″が築かれたことでも有名である。
 しかし、私の訪問当時、松代は、地震に悩まされていた。
 「松代群発地震」である。
 この地震は、一九六五年(同四十年)の八月に発生し、次第に激しさを増した。
 ことに翌年はひどく、年間で「震度五」が八回、「震度四」も三十七回に及び、有感地震(人体に揺れを感じる地震)は、五万二千回を数えた。
 平均すると、およそ十分おきに一回の有感地震である。
 幾度となく、地滑りや家屋の倒壊も起こった。
 大地の底から唸りをあげるような地鳴り。いつ大地震が襲うかわからない恐怖。すべての方々が、どれほど不安の日々であったことか。
 ゆっくりと寝間着に着替えて眠ることもできない。貴重品や懐中電灯を枕元に置き、戦々恐々としながら、疲れきった体を横たえた。
 松代の同志は、そのなかで、昼となく夜となく、座っても歩いても、心で題目を唱えていたにちがいない。そして、広宣流布のためへの戦いを忘れることはなかった。
3  梅雨時には珍しい、まばゆい青空であった。
 私の敬愛する同志は、小さな、そして質素な松代会館に待っておられた。
 この健気な妙法流布の友たちを、なんとしても励ましたい!
 一番、大変な環境で戦ってくれているわが戦友を、私は勇気づけたかった!
 ただそのために、私は、なお地震の恐怖の消えぬ松代を訪れたのである。
4  勤行の時であった。地鳴りに続き、ドーンと突き上げるような地震が起こった。緊迫の空気が流れた。
 「立正安国論」にいわく、「すべからく一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」と。
 また、「観心本尊抄」に引かれた言葉には、「一身一念法界に遍し」と。
 地震がないように、豊作であるように――それは、私が第三代会長に就任して以来の、一貫した一念であり、祈りである。
 私は、松代の大地よ、平安の宝土たれと、一段と真剣な唱題を捧げた。
 さらに、私は、仏法の眼から見れば、いかなる災難も、自らの宿命を打破し、「我此土安穏(我が此の土は安穏なり)」としていくための現象であると語り、「立正安国」の精神を、懸命に訴えた。
 ――その後、「群発地震」も終息に向かっていったのは、嬉しい限りであった。
5  この日、私は、かの上杉謙信と武田信玄が戦った、史上名高い「川中島の合戦」の古戦場に、わが友らと足を運んだ。
 ちょうど千曲川と犀川が合流する辺り、二つの川に挟まれた平野が「川中島」である。
 ささやかな公園となっている一角で、地元の親切な青年たちが、上杉軍と武田軍の陣立を書いた模造紙を広げ、説明してくれた。
 我は見ぬ、両雄が相対した決戦場を。
 それは、遠い遙かなる夢の跡のごとく静かであった。
6  ――永禄四年(一五六一年)の九月十日の朝、四度目となる謙信と信玄の決戦の火蓋が切られようとしていた。
 信玄は、兵力を二分し、夜のうちに、自ら八千の兵を率い、川中島にある八幡原に本陣を移していた。
 彼の作戦は、早朝、武田の別働隊一万二千が、上杉の陣地である妻女山の背後から奇襲し、敵を八幡原に追い出したところを殲滅するというものであった。これが、有名な「啄木鳥きつつきの戦法」である。
 ところが、その動きを察知した謙信は、逆に奇襲をしかけるために、夜霧に紛れて千曲川を渡った。そして、武田の本陣の前面に、全軍一万三千を布陣したのである。
7  やがて、決戦の朝が明けた。
 深い霧も薄らぎ始めた。
 その時、突如、喊声が轟き、上杉の軍勢が武田陣営に殺到したのである。
 上杉勢は「車懸りの戦法」で攻勢をかけ、虚を突かれた武田勢も「鶴翼の陣」という陣形で必死に応戦した。
 その渦中、謙信は、自ら駒を駆って、武田の本陣に突入し、信玄の姿を発見する。
 「遺恨なり十年一剣を磨き」と謳われしがごとく、ここに、怨嗟のうめきを胸に、竜虎の一騎打ちとなり、太刀と太刀が火花を散らしたのである。
 しかし、謙信は、あと一息のところで、信玄を討ち損じてしまった――。
8  川中島の戦跡には、馬上から太刀を振るう謙信と、それを軍配で受ける信玄の像があった。
 私の胸に、かつて戸田先生の前で歌った、「霧の川中島」(野村俊夫作詞)の万感の響きが蘇った。仏法は勝負であり、ゆえに学会もまた、戦闘の連続であるからだ。
  ♪車がかりの奇襲戦
   無念や逃す敵の将
   川中島に今もなお
   その名ぞ残す決戦譜 (JASRAC 0503721-501)
9  戦いには「時」がある。
 時を待ち、時をつくり、時を逃さず戦い、断じて勝つ。
 仏敵との戦いも、同志への励ましも、自分自身の人間革命も、戦うべき時に、全力で戦うことだ。
 その「時」は今だ。「如々として来る」を如来という。瞬間、瞬間に雄々しく躍動しゆく大生命力の当体が仏である。
 今、戦わずして、あとに無念を残しては絶対にならない。
 「仏敵を一人も余すな!」とは、わが恩師の厳しき遺言であった。
 戦う人は勝者なり!
 戦う人は幸福なり!
 今、戦う長野は、私とともに、獅子のごとく決然と立ち上がった!

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