Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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詩心の山光・鳥取 日本海に昇れ! 広宣の太陽

1999.7.26 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  私が初めて、多くの願いを込めながら、「山光」の鳥取の天地に足を運んだのは、一九六〇年(昭和三十五年)の寒き二月のことである。
 その二十二日には、鳥取市内で、山陰の総決起大会が開催された。
 「山陰」というと、いつしか陰気なイメージを与えがちであるが、この地を新しい広布の楽園にしていかんとする、信念の同志の炎は燃え上がり、寒々とした地域どころか、南国のような季節を感じる日となった。
 翌日、私たちは、日本一といわれる鳥取砂丘に、波音と風に包まれながら立った。雄大なる自然と私たちの精神とが、親しく交流し、深く呼吸しゆく瞬間であった。
 師・戸田先生が逝いて二年。当時、わが学会は船頭を失ったまま、荒れ狂う大波のなかを、最悪の状態で進んでいた。
 わが愛する会員を断固として守りゆかねばならない。
 そのためには、犠牲を払って、誰かが厳然と立たなければならなかった。
 私が、会長になることは、既に決まっていたようなものだ。それが戸田先生の心であり、当時の幹部の心であり、全会員の総意であったことは間違いなかった。
 私は、殉難を覚悟し、広宣流布に立つ決意をもって、この光に満ちた大砂丘で、一首の歌を詠んだ。
  東洋の
    広宣流布に
      断固征け
    日本海の
      波は荒くも
 懐かしきこの日から七十日後、私は、第三代会長に推戴されたのである。
 その五月三日に、山陰で最初の支部として誕生したのが、鳥取支部であった。
2  鳥取には、因幡いなば伯耆ほうきと呼ばれた昔からの深き歴史があり、美しき詩歌の舞台がある。
 あの「万葉集」四千五百余首の最後を飾る歌は、因幡の国で歌われたものであった。
 また、「故郷」「春が来た」「春の小川」などの叙情豊かなメロディーは、鳥取出身の作曲家・岡野貞一の名曲である。
 なお、余談になるが、戦前、私は、小学校の学芸会で、「因幡の素兎しろうさぎ」の劇をやった。
 私は、大国主命おおくにぬしのみことにもなれず、また兎にもなれず、以下多数の「鮫」の役であった。
3  ともあれ、都会と違って、純朴な人の多い鳥取が、私は大好きである。
 そこには、たとえ生活が楽でなくとも、青空のなかに、風に走る雲のなかに、毎日、花が幾百と咲いていくような心の彩りがあった。
 一九六五年(同四十年)の一月には、小さな木造の米子会館を訪問し、″私は何もほしくない、ただ広宣流布がしたい″との思いにあふれた尊き同志の皆様と、積雪を踏みしめながら、記念のカメラに納まったことは懐かしい。
4  一九七八年(同五十三年)のことである。
 「秋でもいいのでは」との声を押し切って、私は、真夏の七月二十日に、伯耆富士・大山が光り、静かな輝きのある米子に入った。この当時も、学会への迫害の嵐は荒れ狂っていた。
 しかし、「三類の強敵」も、「三障四魔」も、「悪口罵詈」も、すべて御聖訓通りの迫害であると、皆が自負していた。
 「臆病者は学会から去れ」とは、戸田先生の口癖であった。
 真の同志には、臆病者など一人もいなかった。
 その日の、おとぎの世界を思わせる夏の夜、青春の心に包まれた、わが友たちが、一万匹ものホタルを放ってくれた。この夜の夢のような光景は一生、忘れることはないだろう。
 いとしき友よ、いつまでも、いつまでも、わが人生を明るく生き抜いてもらいたいと、心で祈った。
 ″自身を罵ってはならない。負けてはならない。暗い心に絶対になってはならない″と。
 二日目は、朝早くから、眠そうな顔をした人も、上機嫌な人も、「先生だ、先生だ」と喜んだり、なんとなく満ちたりない顔をしたりしながら、集まって来られた。
 私も汗まみれになりながら、約七千人に及ぶ広布の尊き友を、根気よく、また忍耐強く、心から満足してほしいと願って激励していった。
 これが後に、いわゆる「自由勤行会」という名称で、伝統となっていったのである。
 三日目は、日本海側で初の開催となった本部幹部会――。
 その日、米子文化会館の会場を飾っていたのは、まばゆいばかりのヒマワリの花であった。そして同志の顔も、それ以上に輝いていた。
 この時の会合は、今でも「ヒマワリ本幹」として、語り継がれているようだ。
 なお、米子、境港の三軒の個人会場に伺ったことも、楽しい思い出となっている。
5  それから六年後(一九八四年)の、ツツジの花咲く五月にも、再び私は、鳥取を訪れた。倉吉の県立体育文化会館で、壮麗なる鳥取の青年平和文化祭が行われたのである。
 この倉吉こそ、傲慢と邪智の坊主が、純真な鳥取の学会員を狙って暗躍した、正義と邪悪の攻防の戦場となっていた。
 しかし、この時、天魔のどす黒い雲を一掃し、清らかな目をした地涌の若人が、陸続と躍り出た。新しき日本海広布の幕は上がったのである。
 御聖訓には、「百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる」と仰せである。いわんや、日蓮仏法は「太陽の仏法」である。断じて絶望の闇はない。行き詰まりもない。鳥取の同志は、悠久の太陽を抱きて、恐れなき獅子となって、立ち上がったのである。  
6  私の心のなかで、一つの言葉が水晶のように光った。
 翌日(五月二十一日)、私は、十一年ぶりに島根の松江に向かった。
 その日、鳥取・島根の天地に、山陰ではなく、「山光」という愛称を提唱させていただいたのである。
 それは、誰彼がということではなく、「山陰」という暗いイメージを、「山光」という明るいイメージにしたいと、多くの声なき声から、どこからともなく沸き上がった名称であった。

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