Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

長崎の平和の鐘 友よいざ征け 生命の勝鬨高く

1999.7.19 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  あの日、長崎の空は白い雲を浮かべ、勝利の雄叫びをあげるように、晴れ渡っていた。
 一九八〇年(昭和五十五年)の四月二十九日、私は、華国鋒かこくほう主席(当時)と会見した五度目の中国訪問を終えて、大村の長崎空港に降り立った。
 この訪中は、名誉会長になって最初の海外訪問であった。
2  皆の胸は、喜びに満ちあふれていた。同志は躍り、同志は叫んでいた。
 彼ら勝利者の鐘は、学会の讃歌と共に、鳴り渡っていた。
 拍手、また拍手が、長崎空港いっぱいに、響き渡っていた。
 同志の無数の形の目が、キラキラと美しく輝いていた。
 同志の歓迎は、千人にも及んでいたようだ。
 長崎は十二年ぶりである。
 ここ大村の地では、権力と暴虐な宗門の坊主たちによって、県下でも、最も陰湿なる迫害を受けてきた。
 それを聞いていた私は、開口一番、県長の梅林二也君(現・参議)に言った。
 「獅子が来たんだから、何も心配するな!」と。
3  長崎市内のホテルでの各社の合同記者会見が迫っていたが、私は、真っ先に、長崎文化会館に向かった。長崎支部結成二十二周年の記念幹部会が行われていたからである。
 午後六時前、会館に到着。
 激しく、熱き心で待っていてくださった数百人の幹部のなかに飛び込んだ。
 生命が多彩な光を放つようなどよめきのなか、出会いの時間は短かった。
 しかし、この日、この時より、自由な翼と共に、大長崎の行進は始まったのだ。
 翌日、福岡に移動する直前、私たち夫婦は、宿舎の近所であった小林喜丸君(当時・県書記長)のお宅を訪問した。
 長崎の先駆者の一人として大切にされていた母親の倭子しずこさんは、毅然としたお姿で迎えてくださった。
 砕ける、暗き激動の波をものともせず、そこには、創価の仏の天使がおられた。
 ――後に、伺ったことだが、前年の四月二十四日、この老いたる広布の母は、テレビで私の会長辞任を知った時、身を震わせて激怒されたという。
 「とんでもないことだ! これから総本山に行って、猊下に命懸けで抗議する!」
 この母こそ、千年の未来まで詩人たちに愛され、謳われていくべき女性の鑑であろう。
 後年、小林君は県長、そして総県長となって活躍した。残念なことに、一昨年、八王子の牧口初代会長の殿堂で、「長崎の広宣流布を!」と叫んだのを″遺言″として、五十四歳の若さで亡くなった。
 しかし、夫人の昌子さんをはじめ、ご一家の方々が父の遺志を受け継いで、万巻の広布の歴史をつくりゆく闘争を開始したのであった。
 私は、この創価の英雄をたたえて贈った。
  君の名は
    大九州に
      残りなむ
    地涌の鑑と
      年々 光りて
4  一九八二年(昭和五十七年)の五月、私が諫早の新法城を訪問したのは、先の訪問の二年後であった。
 長崎にも深き使命がある。遠くはキリシタンの弾圧、近くは原爆投下の惨劇を経験したこの地に、断固として、平和と正義の鐘を打ち鳴らさんと、皆で決意を再確認し合った。
 平和は戦い取るものである。生命軽視の権力の魔性との闘争であり、人間を踏みにじる邪悪との闘争である。
 その攻防戦に断じて勝ってこそ、平和の旗を愉快に掲げることができるのだ。
 会館に着くと、私は全国初の「青年塾」に足を運び、開所式を行った。青年たちが自ら建設した労苦の結晶の城である。
 翌朝には、私の訪問を知った会員の方々が、十重二十重の波のごとく集ってこられた。
 当初、会合は予定されていなかったが、急きょ、午前十時を第一回として「自由勤行会」を開催したのであった。
 遠方では、平戸、島原、佐世保、さらに五島列島から駆けつけた同志もおり、夕刻までに四回を数えた勤行会の参加者は、実に七千人に上ったのである。
 天も晴れ、皆の心も、歓喜の五月晴れであった。
5  あの悲惨な戦争の電光と殺人の騒音は去り、われらは新しい平和を涙して勝ち取った。恐ろしき武器が消えゆく日を願い、わが兄弟は燃えていた。
 第三日には、私は、長崎市の平和公園に走った。
 実は、四月にフォークランド紛争(マルビナス戦争)が起こり、イギリスとアルゼンチンは戦争状態にあったのである。
 この長崎には、懐かしきイギリスの故・コーストン理事長が同行しておられた。
 どちらの国にも、創価の同志がいる。彼の心は、血と野蛮の紛争を乗り越え、優美な精神性が光る、おとぎの国のような理想の平和の時代を祈っていた。
 私たちは、″平和祈念像″に献花し、厳粛に唱題したのである。
 紛争が終結したのは、二十日後の六月十四日のことであった。
6  私が長崎入りした初日、青年たちが、九州男子部の愛唱歌をつくりたいと、原案をもってきてくれた。
 ″大楠公″などの歌に込められた父子の心を、後継の決意を表現したいというのだ。
 私は応援を約束し、滞在中、時間をこじあけるように、四度五度と推敲を重ねていった。
 ある時は「青年塾」の一室で朱筆をとり、ある時は大村湾に沈む夕日を眺めながら、不滅の光の言葉を探した。
 長崎の県歌「平和の鐘」が、一足早く発表となり、九州男子部の歌が完成したのは、最終日の朝である。それを、凛々しき九州男児たちが歌ってくれた。
 火の国・「青葉の誓い」の誕生であった。
  ♪厳父は覚悟の 旅に発つ
   生い立て君よ 民守れ
   …… ……
   火の国我らの 旗光り
   広布の山の 先駆たり
   友よいざ征け 黎明だ
   ああ青葉の誓い 忘れまじ
   夜明けの世紀だ 黎明だ
   ああ青葉の誓い 忘れまじ
 多くの若人が傷つき、空しく青春を彷徨する時代にあって、今、情熱の血潮たぎる青春を生き抜く、誓いの歌が誕生した。
 わが生命の光を、真実の青春の光を――と。

1
1