Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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幸福の島・沖縄 希望の世紀はわれらの手で!

1999.6.11 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  今、わが沖縄の友が、燃えに燃えている。
 陽気な無限の喜びを、胸いっぱいに呼吸しながら、にぎやかに前進している。
 一九六一年(昭和三十六年)の一月二十八日のことである。
 私が、初のアジア広布の旅立ちをした その時、祝福の合図を送るがごとく、弘教日本一の勝利の旗をもって、最高の美しい瞳をもって、歓送してくださったのは、沖縄の地涌の同志であった。
 沖縄の同志の方々は、まことに実直であられる。
 いかなる労苦に対しても、「私は永久に広宣流布″という仕事を忘れない!」と語る。
 活発な、若々しい魂の姿を見ながら、多くの本土のメンバーが、どれほど感動したことか。砂浜と青き海を眺めながら、皆様は、広き心で、どれほど多くの悩み疲れた人びとを、激励してきたことか。
 広宣流布とは、友情の拡大である。幸福の華の拡大であり、正義の光の拡大である。それは「人のつながり」で決まる。「法」といっても、目には見えない。見えるのは、「人」である。故に、広布とは、「善なる人の連帯」を、どこまでも広げ、強めていくことである。
2  天も地も、人の心も美しき「光の国」沖縄は、その光彩を嫉妬されたかのごとく、残忍な国家主義によって、幾年もまた幾年も、暗黒の犠牲の夜を強いられてきた。県民の三人に一人が亡くなられたともいわれる、あの凄惨な沖縄戦の悲劇がそうであった。
 戦前も、さらに戦後も、そうであった。
 仏法は、一番苦しんできた人が幸せになるためにある。一番不幸を味わった地域が、燦然と楽土と輝くためにある。暗から明へ、夜から朝へ、天空を動かしゆくがごとき、生命変革の回転軸が、妙法である。
 その″妙法の種″が沖縄に蒔かれたのは、一九五四年(昭和二十九年)のことであった。
 初代支部長の安見福寿さん(現・参議)が沖縄に渡ったのだ。当時、彼は、入会してわずか十日余りであった。戸田先生は、沖縄でも、必ず一人の地涌の菩薩が立つと予見されていたが、その通り、たった一人から、沖縄広布の火蓋は切られたのである。
 沖縄には、安見さんを第一番として四千番まで、入会された方々のお名前が記録された草創の名簿が、大切に保管されていると伺った。一人また一人と立ち上がり、一人から一人へと語り継いで、久遠の使命に続いた歴史の縮図である。この地涌の原理のままに、今再び、平和の世紀への勇者の行進が、壮大に始まっている。
3  私は、第三代会長に就任すると直ちに、愛する友の待つ沖縄を訪問させていただいた。
 一九六〇年(昭和三十五年)の、真夏の七月十六日のことである。まだアメリカの施政権下であり、パスポートを持っての″入国″であった。
 ともあれ、あの日、あの時、私は一人、この「悲劇の島」を「幸福の島」へ、宿命の転換を誓ったのである。
 以来、今までに訪問すること十六回を数え、沖縄の皆様との綺羅(きら)の思い出は、わが胸中のロマンの星座に輝いている。
 その一つ一つを書き尽くすことはできないが、ちょうど二十五年前(一九七四年=昭和四十九年)の二月、私が、八重山の石垣島から宮古島に入った時、わが友に語った思いは、今も変わらぬ、不動の信念である。
 「今までも私は、不幸な人の味方となって戦ってきたつもりであります。今後とも、いかなる批判も受けとめ、一人確然と、庶民のために、庶民を守る庶民党の党首として生き抜いてまいります!」
4  恩納村の沖縄研修道場にある「世界平和の碑」は、かつての米軍の「ミサイル基地」の跡地である。冷戦下には、ミサイルは中国に向けられていた。
 今、アメリカからも、そして中国からも、内外問わず、世界の友が訪れてくださる。
 デンマーク出身の平和研究者ヤン・エーベリ博士は、こう語られたそうだ。
 「ここに立つと、″核時代″の狂気が見えてきます。
 戦争のための基地を、平和を発信するセンターに転換させたSGI会長の着眼、発想に敬意を表したい。世界に存在する基地が、このような″平和発信の基地″になる日まで、私たちは希望をもって、戦い続けなければなりません」
 私のことはともかく、一念が変われば、国土も変わる、必ず涙の歴史を転換していけることを、厳然と示したかった。
 「ミサイル基地」が、「永遠平和の基地」に変わった。
 それは、「戦争と暴力に蹂躙された慟哭の二十世紀」をも、「母と子の笑いさざめく平和の二十一世紀」に変えられるという象徴なのだ。
 絶対に、そう変えていくという誓願なのだ。
5  中国・三国時代の魏の詩人、曹植そうしょくは詠んだ。
 「丈夫 四海に志さば
  万里 猶お比隣ひりんのごとし」
 (男子が世界への雄飛を志したうえは、万里の彼方も隣近所のようなものである)
 武力ではなく、文化の宝で、「万国の津梁しんりょう(懸け橋)」たらんと志したのが、「世界の沖縄」の心であった。
 つい先日も、民音(民主音楽協会)の「アジア平和芸能フェスティバル」が行われ、アジア七カ国・地域と沖縄の″舞の競演″に、大喝采が送られたばかりだ。
 まさに、千客万来――。
 「イチャリバ・チョーデー(行き会えば、皆、兄弟)」との言葉のごとく、沖縄の海風は、人間を引き裂く、国家主義の「鉄の暴風」にも屈することなき、心と心を結ぶ「文化の薫風」であった。
 平和こそ、文化の華の大地である。絶対に平和は守らねばならない。そのうえで、今度は千花、万花に彩られた花園が人の心を魅了し、和ませ、平和の心を育むように、「人間」を大切にし、「民衆」によって担われた「文化の要塞」こそ、「平和の要塞」の盤石なる礎となるのである。
 さあ、希望の世紀は、われらの手で!
 今、沖縄に、新しき「平和の文化」の太陽は昇り始めた。
 あらゆる苦難の黒雲を突き破って、赫々と輝き始めた!

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