Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ハワイからサンフランシスコへ 感動と飛躍の「未来の風」を

1999.6.7 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  未来の風は、金門海峡で待っている――世界的に有名な詩人ジョージ・スターリングは、サンフランシスコをこう歌った。
 その「未来の風」に向かって、ユナイテッド航空九八便は、ハワイのホノルル空港を飛び立った。一九六〇年(昭和三十五年)十月三日の朝の九時である。
 私は、永遠の安息の天地ともいうべき「平和の島」を、機上から見守り、題目を送った。
 前々日の深夜の十一時過ぎに到着してから、実質、一日のみの滞在であった。
 しかし、その限られた時間に一心を凝結し、私は、末法万年の「一閻浮提広宣流布」のための種を蒔いたつもりである。
 それは、不滅の太陽が輝くのと同じように、「妙法の太陽よ、永遠に光れ!」との祈りであった。
 御聖訓には「たねと申すもの一なれども植えぬれば多くとなり」――ものの種というものは、一つでも植えれば多数になると。
 このすばらしきハワイの原点の地は、目覚ましい発展の歴史をたどっている。この時、結成した一つの地区は、今では九十三地区となり、数十人であったメンバーは、一万人を超える地涌の大動脈へと広がっている。
 私の初訪問を、家族総出で歓迎してくれた一家のなかに、十歳の大柄な少年がいた。
 握手を交わした、その少年が、現在、ハワイをはじめ、グアム、サイパン、サモアなど、パシフィック(太平洋)ゾーンのゾーン長として飛び回っている、バート・カワモトさんである。
2  ハワイを出発した飛行機は、五時間半を経て、金門橋に迎えられた。ホノルルとの時差は二時間である。
 「全米で最も美しい都市」とたたえられ、「西部のパリ」と謳われるサンフランシスコに降り立つと、空港ロビーの時計は、午後四時三十五分を指していた。
 同行者は、秋谷栄之助青年部長(現・会長)、北条浩副理事長(故人)らでであった。
 出迎えてくれた数人のメンバーと、そのまま空港控室で、日程等の打ち合わせを開始した。蒲田支部の出身の方もおり、私の妻が子供連れで座談会に来てくれたことがあると、懐かしそうに語っておられた。
3  アメリカは、小さな人間の涙など無視するかのように広く、そして、大空に羽ばたく大望たいもうに燃えた魂のように広い。
 汝ら日本人よ、この無限の可能性と未来性に満ちた天地を見つめよ!――と、若々しい響きが胸に激しく迫ってきた。
 ゆえに、私は思った。
 アメリカの広宣流布は、決して焦る必要はない。
 まず確実な「一人」である。
 その「一人」が、仏法の世界とは、これほど楽しく充実し、これほどすばらしいものかと、心から納得することが根本である。そうすれば、その人が「核」となり、二人、三人、百人と、連動して、妙法流布の人材は、必ず大地よりわき出てくる。
 これが、「地涌の義」に則った私の断固たる確信であり、燃えるごとき決意であった。
4  その晩、メンバーの案内で、私たちは、大衆食堂のような質素な日本料理店に入った。
 電気の明かりも消えたような、それはそれは薄暗い食堂であった。ほかに、お客の姿は見えなかった。
 当時は、外貨も、一人が一日当たり三十五ドルと、厳しく制限されていた。私たちの旅は、「倹約」をモットーとし、徹底して出費を切りつめた。
 その分、少しでも、現地の友に尽くしたかったからである。
 次の訪問地のシアトルで、せめても皆で栄養補給をと、安い一ドル十五セントの、まるで靴底のように硬い肉を食べた。ところが、過労と重なり、蕁麻疹じんましんが出て苦しんだことも、今となっては懐かしい。
 後に初の海外出張で、このシアトルに来た坊主は、やがて宗門の法主となるが、その時に起こした前代未聞の不祥事のために、告発される事態になるとは、誰人も思いもよらぬことであった。
5  サンフランシスコでも、一切は、「座談会」から始まった。
 集った約三十人の友に、私は地区の結成を宣言した。
 さらに、五時間かけて馳せ参じてくれた、使命感に燃えた、生き生きとしたオライエさんご夫妻を中心に、隣のネバダ州にも、地区を発足することとした。
 サンフランシスコの初代の地区部長であるサチコ・ガルシアさんと地区担当員のキヨコ・トーマさんは、共に女性である。
 まさに、「男女はきらふべからず」――男女は、分け隔てすべきではない――であった。
 この両婦人のアメリカ人のご主人に、私は、地区の顧問に就いていただいた。まだ入会していない人もおり、皆が驚いたが、創価の世界に、一人として大切でない人はいない。
 私は、自由の天地・アメリカの友は、どこよりも尊重しあい、明るく賑やかに伸び伸びと、いい人生を生き抜いていただきたいと願ったのである。
 この座談会に集まった参加者の大半は、日系の女性であった。
 彼女たちに、私は、「市民権の取得」「自動車の運転免許の取得」、そして「英語のマスター」という、三つの指針を贈った。
 使命に生き抜く人生には、感傷にひたる暇などない。今、自分がいる、この場所で、断じて自他ともの幸福を勝ち取っていかねばならない。仏法は、その具体的な向上と前進の目標を、常に明確に指し示していく黄金の智慧である。
6  翌日、この「新世界の広宣流布の母」たちと、私は、海を一望する「テレグラフ・ヒル(丘)」のコロンブス像の前で、一緒に写真を撮った。
 母たちの瞳は輝いていた。
 その瞳には希望があった。
 生きる力があった。前進しゆく生命の波動があった。
 爽やかな風に吹かれながら、私は「二十年、五十年たてば、この日は偉大な記念日となるだろう」と語った。その約束通り、この日から、満二十年後、再び同じ丘で、晴れやかな勝利の顔の母たちと、私ども夫婦は、共々に「妙法の広布の旅」のロマンの一葉に納まったのである。
7  私が滞米中であった、この一九六〇年の十月、一人の高名な大科学者が、上院議会に召喚された。
 最終的に世界の約一万三千人に上った、科学者による核実験反対の署名を国連に提出したことに対して、「署名運動を手伝った者の名前を明かせ」と迫られたのである。
 その人こそ、現代化学の父ライナス・ポーリング博士である。
 博士は、あらゆる恫喝にも、巌のごとく揺るがず、正義と人道の信念をば、夫婦して貫かれた。
 そうした博士なるが故に、「権力者を本来の正しい軌道に乗せるのが、民衆の力である。
 権力に対して『平和の圧力』を及ぼすのが、民衆の団結である。その先頭を切って進んでいるのが、創価学会である」と、終生、私どもに変わらざる信頼を寄せてくださった。
 博士とは、四度(たび)の会談を重ねた。最後の語らいは、ここサンフランシスコであった。九十二歳の博士の方から、わざわざ訪ねてくださったのである。
 この時、私が提案し、博士が快諾されたのが、「ポーリング展」である。〈「ライナス・ポーリングと二十世紀」展〉
 現在、サンフランシスコを皮切りに、全米各地の巡回展が始まり、議会など、各方面から絶賛を博している。
8  「人類の議会」たる国連の発祥の地も、サンフランシスコである。
 一九九三年(平成五年)三月、私は、北南米六カ国・九都市歴訪の最後に、この地を訪れた。三十三年前の第一歩から五回目の訪問となった。
 この折、私は、「国連憲章」採択の歴史的な舞台となった、壮麗なる″文化の大殿堂″(ウォー・メモリアル・パフォーミング・アーツ・センター)に、お招きいただいた。
 サンフランシスコの同志と共に、「国連貢献」と「国際文化交流の推進」への顕彰を拝受したのである。
 祝福に駆けつけてくれた友のなかには、今回、アメリカの野球殿堂入りに輝いた往年のホームラン・バッター、オーランド・セペダさんの姿もあった。ここサンフランシスコの誇りも高き地区部長である。
9  人類史のフロンティアを開くサンフランシスコ市とSGIには、三つの共通点がある――この地の政界で活躍する若き指導者は、こう指摘された。
 すなわち、それは、
 一、「文化の多様性の尊重」
 二、「創造的なエネルギー」
 三、「誰人にも希望を贈りゆく力」である。  
 ともあれ、「未来の風」を起こすには、自分が動くしかない。
 大聖人は、広宣流布の必然の流れについて、「木はしづかならんと思へども風やまず・春を留んと思へども夏となる」と仰せである。
 春夏秋冬に詩情豊かなサンフランシスコ。
 今日も、若きわが友たちは、笑顔で自信に満ちながら、金門橋の見える、あの坂道で、あの友の家で、二十一世紀への感動と飛躍の光風を薫らせているにちがいない。

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