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日蓮大聖人・池田大作

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ハワイ初訪問 永遠の平和へ 旭日の旅立ち

1999.6.1 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

前後
1  「路とは何か。それは路のなかったところへ踏み作られたものだ。荊棘いばらばかりのところに開拓してできたものだ……」
 第三代会長に就任する直前のある夜、私は、茫漠たる大地に挑みゆくような思いで、日記にこう書いた。中国の大文豪・魯迅の有名な言葉である。(引用は『魯迅評論集』竹内好編訳、岩波文庫)
2  ハワイの早朝の浜辺は、心優しい友のように、静かであった。
 私は、朝風に吹かれながら、最大の称賛を送りたいような太平洋を見つめた。
 振り返ると、椰子の林の向こうに、朝日を浴びたダイヤモンド・ヘッドの頂が、崇高な大望を膨らませていくように、金色に染まっていた。
 一九六〇年(昭和三十五年)の十月二日、私が「世界の広宣流布の第一歩」を踏み出した、ハワイの最初の朝のことである。
 ハワイは前年、アメリカの五十番目の「州」に昇格したばかりであった。その新時代のハワイから、私は、新たな旅立ちをしたのである。
3  私の滞在は、わずか三十数時間にすぎなかった。しかし、その間に、海外での初の地区を結成し、平和と幸福と喜びの前途を祝しゆく組織をつくった。
 当時、私がお会いしたのは、大半が日系の方であったが、誰もが言い尽くせぬ悲哀と煩悶の歴史を胸に畳んでいた。
 日系二世として、戦争に翻弄された方がいた。日本に帰りたいと泣き暮らす婦人がいた。
 私は、無限の力のある悠久の希望をもつ、信心の偉大さを語りに語った。
 喜びの人生のために、恐れを知らぬ人生のために、そして無知を乗り越えた勝利の人生のために、私たちの創価の信仰と使命があることを訴えた。
 「武器による戦い」ではなく、「対話」を通して、一人ひとりの不幸と対決し、希望と勇気の火をともす、「平和の戦い」を開始したのである。
4  私は、ホノルル市街から西へ、車を走らせた。
 そして、あの有名な真珠湾(パール・ハーバー)に行った。
 一九四一年(昭和十六年)の十二月七日(ハワイ時間)の朝、日本軍は、この真珠湾の米軍基地を奇襲し、戦艦四隻を撃沈するなど、壊滅的な打撃を与えた。
 ここから日米開戦という、愚劣にして悲惨な砂塵が、雲のごとく舞い上がったのである。
 私は、同行の友に訴えた。
 ――幾千万の母と子を落胆させ、悲しませる戦禍を、また、冷酷な鉄の心で人殺しをする戦争を、根絶しゆく大法の道が広宣流布である、と。
5  初訪問から二十一年後(一九八一年)の一月十五日(ハワイ時間)、私は、この悲劇の海を再び訪れ、湾内にあるアリゾナ記念館に渡った。
 真珠湾攻撃で爆沈した戦艦アリゾナは破損が激しく、引き揚げを断念され、今も、乗員千百七十七人の遺体とともに海底に眠っている。白亜の記念館は、その船体をまたぐようにつくられている。
 現在でも、船体から海面に浮かび上がる油は、何かを告発するかのように思えた。
 あの戦争を起こした、わが国の権力者たちは、多くの若者の名誉ある人生を、屈辱の人生に変えた。しかし、無言の海は、歴史の審判に照らし、確実に、彼らの愚かな所業を断罪しているように見えた。
 「ああ 真珠湾の
      鎮魂の唱題
  この日 あの時の瞬間
      生涯 忘れまじ」
 その時に、記念館を案内してくださった方に、この言葉を贈った。
6  世界中の人びとが、ハワイは、永遠の平和の島であることを願望している。
 私は、ホノルルの郊外にあるパンチボールの丘に行き、かの太平洋国立記念墓地にも詣でた(一九六〇年)。
 ここには、アメリカ人として第二次世界大戦で戦った、日系人の戦没者の墓もある。
 小説にも書いた通り、真珠湾奇襲は、日系人がハワイ社会に築き上げてきた信頼を破壊し、彼らは「敵国人」として、偏見と差別にさらされることになったのである。
 その不信を晴らすため、ハワイ生まれの二世たちは、アメリカへの忠誠を誓い、戦場にわが身を投じていった。それが「第一〇〇歩兵大隊」であり、日系二世の志願兵による「第四四二部隊」であった。
 「ゴー・フォア・ブローク(当たって砕けろ)」と銃弾の雨に飛び込んだ彼らは、最大の犠牲と引き換えに、英雄的部隊として、日系人への信頼を回復したことは、あまりにも有名なことである。
 後年(一九八五年)、私は、パンチボールの丘で、全世界の平和を祈念して献花式を行ったが、この時、「第四四二部隊」出身の九人の同志が参列してくださった。あの誇り高き雄姿は、今も胸に刻まれている。
7  初代のハワイ地区部長は、日系二世のハリー・ヒラマさんであった。初代支部長のワタル・カワモトさんとともに、忘れられない方である。がっしりした体に、愛くるしい目をした彼は、その後、男子部の指導者としても活躍した。皆から喜ばれ、信頼された人物であり、ハワイの人びとは彼が好きであった。彼が来ると歓声があがる。彼の顔を見ると、皆が楽しかった。
 彼が率いる、若き平和の英雄であるハワイ草創の男子部は、銃弾の戦場ならぬ、広布の戦野を駆け、いつからか「パイナップル部隊」と呼ばれていた。
 ヒラマさん自身、戦争の非道さを経験し、平和を願う心は、誰よりも強い。
 「パイナップル部隊」には、「妙法の平和部隊」というハワイの誇りが輝いていた。
 白シャツ、黒ネクタイにパイナップルのタイピンなど、皆で制服も決めていたという。
 ある時は、二十七人の部員が来日。その機敏で力みなぎる姿は、日本の青年部を驚かせた。
 T・J・ライフさん、トム・ハラさんをはじめ、ハワイ広布を担ってきた、多くの平和の人材も輩出している。
8  初訪問から明年で四十周年。
 これまで十八回も、この平和の島、東と西が出合う島を訪れることができた。
 「アローハ!」
 幾度、私は、この慕わしい挨拶を交わしたことだろう。
 「アロハ」という言葉には、人間への愛があり、慈悲があり、寛容がある。優しさがあり、共感がある。
 「アロハ」の精神とは、平和の心であり、多様な民族・人種が調和する虹の島・ハワイの魂といってよい。
 それは、残酷な戦争の暴力にも汚されず、宝石よりも美しくハワイを飾る、人間性の勝利の光彩ではあるまいか。
 世界広布という、新しき平和の光の波は、ここハワイからわき起こった。意義深き、その燦然たる栄誉は、創価の歴史を永久に照らし続けることは間違いない。
 二十一世紀の灯台よ、希望の光のハワイよ、永遠なれ!

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