Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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創価の永遠の軌道 「師弟」がある故に学会は大発展

1999.5.12 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

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1  先日、ボストン二十一世紀センターの代表が、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のバーナード・ワイナー教授にインタビューした内容を報告してくれた。
 ワイナー教授は、「動機づけの心理学」の第一人者として、世界的に著名である。
 その教授が、人間に偉大な「動機」をもたらし、自発の心を育む重大な役割として着目しておられるのは、何か――。
 それは、「師匠との出会い」だというのである。
 その観点から、教授は、創価学会が「師弟」の絆を通して、信仰を深め、運動を広げていることに、大きな共感を寄せてくださったという。
2  教授は言われた。
 「池田会長は、自分が今あるのは、すべて戸田会長のおかげであると語られている。
 すべてを戸田会長から学んだのだ、と。
 これは、大変に重要なことである。自らが誇れる師匠をもてば、その思想と絆を人びとに伝えていくことの大切さを確信できる。師匠をもたなければ、この師弟の関係の重要性はわからない」と。
3  戦時中、牧口先生を、師匠と尊敬し、仰いでいた直弟子らが、先生が戦争反対で入獄したあとは、手のひらを返すように、「牧口の馬鹿野郎」「牧口、牧口」と、頻繁に罵倒したものである。人の心は恐ろしい。
 よく、戸田先生は語っておられた。
 ――私が会長になった時に、ずる賢い傲慢な連中は、「俺は、戸田の弟子ではない。牧口会長の弟子である」と言い出した。
 別に、私から、弟子になってくれと頼んだ覚えはない。それでは、彼らは、なぜ勝手に、牧口先生の弟子だというのか。
 要するに、彼らは、自分の都合のいいように、自分を飾っているだけだ。
 牧口会長の弟子といえば、体裁がいい。しかし、弟子として戦っているかといえば、何もしない。それでは、現実を逃避して、空論の世界に入ってしまっているにすぎない。
 つまり、牧口会長を利用しているだけであって、決して弟子ではない。
 牧口会長の本当の弟子ならば、その精神を受け継いで、広宣流布に敢闘しゆく戸田城聖につくというのが、牧口先生の甚深の指導ではなかったか。師弟は不二である。師弟不二であるがゆえに、初代の心を継いだ第二代に仕えることが、牧口先生に対する報恩であろう。
 また、私自身のことはいざ知らず、令法久住の一つの方程式、一つの法理として、仏法は、永遠に師弟によらねばならないのだ――と。
 牧口会長の弟子を名乗って、戸田先生につかなかった連中は、皆、退転、反逆であり、仏法から遠ざかってしまった。
 彼らがいかなる自己正当化の強弁をしようとも、それらは、真実の深き師弟というものを知らない、浅はかな愚者の邪論であり、戯論であったことは明白である。
4  戸田先生が第二代会長になられる前年(昭和二十五年)のことであった。
 我々が師匠として尊敬する先生が、当時の学会の最高の職務であった理事長職を、突然、人に譲られたのである。
 事業が窮地に陥り、学会に迷惑をかけぬための辞任であったが、私には、戸田先生のいない学会など考えられなかった。
 私は、すぐに、先生のもとへ行って、お聞きした。
 「先生が理事長を辞められると、これから、私の師匠は誰になるのでしょうか……」
 先生は即座に言われた。
 「苦労ばかりかけるけれども、君の師匠は、この私だよ」
 ――小説『人間革命』にも書いたが、生涯忘れ得ぬ、師弟の劇の一齣ひとこまである。
5  いうまでもなく、われらの信仰は、日蓮大聖人を末法の御本仏と拝する。
 日蓮仏法は、その上に立って、師弟を教えている。
 日興上人も、こう仰せである。
 「この大聖人の法門は、師弟の道を正して、成仏していくのである。師弟の道を、少しでも誤ってしまえば、同じく法華経を持っていても、無間地獄に堕ちてしまうのである」と。
 (「ほうもん法門は、しでし師弟子たゞして、ほとけり候。しでしだにも、ちがい候へば、おなほくゑ法華たもち、まいらせて、候へども・むけん無間ぢごく地獄ち候也」)〔「佐渡国法華講衆御返事」、『歴代法主全集』1所収〕
    
 ゆえに、「法」を正しく行ずる師匠を求めないで、まるで親分・子分の関係のように、「自分につけ」というのは、仏法の在り方ではない。
 仏道を修行する同志は、「異体同心」であり、平等であるからだ。
 そのうえで、仏法それ自体が、仏(師)と衆生(弟子)の一体不二を教えた「師弟論」である。法華経は、峻厳な師弟の道理を築き、その軌道に則って、人間として永遠に向上していく大道なのである。
 ともあれ、″師弟があるから、創価学会は発展している″ことに着目された、このアメリカの心理学の、ワイナー教授の指摘は、まことに鋭い。
6  御書には、繰り返し、「悪知識を捨てて善友(善知識)に親近せよ」と説かれている。
 悪知識には、親近してはならない。いくら信心していても、野心があったり、我見がある疑似信仰者、疑似幹部には、親近してはならないのである。
 さらに、御聖訓には、「悪知識と申すは甘くかたらひいつわび言をたくみにして愚癡の人の心を取つて善心を破る」とも仰せである。
 この悪知識の偽善を、聡明に見抜いていかねばならない。
7  「開目抄」には、「善知識と申すは一向・師にもあらず一向・弟子にもあらず」とある。
 同志は、互いに善知識として励まし合い、学び合っていくことを教えられている。
 学会の幹部は、善知識にほかならない。また、いうなれば、これから続いていく、代々の会長という立場は、その善知識の頂点ともいえよう。
 そして、厳然と、広宣流布へ向かう、その信心の深さ、使命の深さから、「師」と仰がれるようになっていかなければならないのだ。

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