Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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不滅の六段円塔 見よ! 創価の誇りここにあり

1999.5.10 随筆 新・人間革命2 (池田大作全集第130巻)

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1  「滅びざる――かぎりなき、――朽ちざるもの
 眼に見えぬ思想となりて」(『バイロン詩集』阿部知二訳、『世界の詩』7、弥生書房)
 これは、イギリスの革命詩人・バイロンの詩の一節である。
2  今から十七年前(昭和五十七年)の、忘れ得ぬ三月二十二日のことである。
 その日、大阪の長居陸上競技場を舞台に、歴史的な第一回の関西青年平和文化祭が開催されたのであった。
 午後一時二十九分。関西発足三十周年を記念する大祭典は、新入会の一万人の青年たちによる行進で幕を開けた。
 各部の友が、息もつがせぬ名演技を繰り広げていったあと、二時四十八分、精悍なる四千の若人が躍り出た。男子部の組み体操である。
 八基の五段円塔も、″八葉蓮華″のごとく美事に花開いた。そして、フィールドの中央に、もう一つ、新たな青年のスクラムが組まれ始めた。
 会場のすべての目が、そこに注がれた。いや、全関西の同志が、その″庶民の勝鬨の塔″の成功を祈り、見つめていた。
 「六段円塔」である。
 一段目六十人が、しっかりと肩を組んだ。その土台の上に、二段目二十人、三段目十人、四段目五人、五段目三人、そして最上段に立つ一人が乗った。
 ゆっくりと、二段目が立ち上がり始めた……。
3  蓮祖の御聖訓通りに、わが学会に対して、この数年来、激しい批判と中傷の風が吹いていた。事実でもなく、真実でもない。悪趣味と陰険な凶器の言論の波である。
 それらの三類の強敵に対しても、わが関西は微動だにしなかった。特に、婦人部、女子部の方々は、柔和な天使の笑顔で、学会活動にいそしんでいた。
 関西の友は、卑劣な悪口罵詈の暴力に裂かれても、刺されても、ちぎられても、厳然たる、また勇敢なる行動と雄叫びを忘れなかった。
 さらに、あの″雨の関西文化祭″(一九六六年=昭和四十一年)を、見事に勝った同志は強かった。
 そして今、何ものにもビクともしない、大関西の若き陣列をつくらんと、わが青年部は燃えに燃えていたのである。
 一九八一年(昭和五十六年)の十一月、思い出深き四国指導を終えて、第三回の関西総会に出席するため、再び大阪に入った私に、太陽のごとく熱き心臓をもった青年たちは言った。
 「『学会ここにあり、師匠は健在なり!』と、満天下に示す舞台にいたします!」
 「十万の関西の青年がお待ちしています!」
4  年が明けてすぐ、私は、雪の秋田指導に飛び、三障四魔という魔軍に対して、戦闘を開始した。凶悪の仏敵を倒そうと、自らが最前線に、獅子のごとく飛び込んでいった。
 それは、闘え! 鳴らせ! 轟け!――と、全軍の闘争の合図となった。
 時を同じくして、関西の青年たちも、寒風のなかで、大阪城公園等を会場として、練習を開始したのである。
 六段円塔のグループは、よく交野の関西創価学園の体育館を借りて、練習していたようだ。しかし、本番までに成功したのは、たった一回だけ。そのころ、学園の教師をしていた私の長男も、その一度の成功の場に居合わせて、皆と喜びをともにしたと聞いた。
 「あの感激と歴史は一生忘れることはできない!」と。
 実は、この直前、男子部の体操のメンバーであった一人の青年が、病のために亡くなったのである。しかも、六段円塔の頂点に立つのは、彼の親友であった。六段円塔は、出場を果たせなかった友の心を抱き締めての、友情の塔でもあったのだ。
5  私は、三月二十一日の夜に、大阪に入った。この日、大阪は激しい雨に見舞われ、予定されていた文化祭の第一日は中止になっていた。
 私は役員会に駆けつけ、落胆しているであろう、青年たちを激励した。
 六段円塔という極限の演技を二日も続けることは、あまりに過酷である。むしろ雨が降ってよかったのだ。明日は、元気いっぱいにやりなさい、と。
6  ――快晴のもと、あの歴史的な栄光のフィールドでは、六段円塔が築かれていった。
 スタンドには「青年よ21世紀の広布の山を登れ」と、鮮やかな人文字が映えていた。
 四段目が立った。
 懸命に、五段目が立った。
 午後三時六分、ついに、六段目に立つ青年が体を起こし、顔を上げた!
 彼は叫んだ、亡くなった友の名を。
 そして「やったぞ!」と両手をあげ、生命の限りなき威厳の姿を見せた。
 その瞬間、人文字は、金地に深紅の字で、「関西魂」と描き出した。
 六段円塔は、雲一つない″常勝の空″に、人間と人間の勝鬨の太鼓を打ち鳴らしながら、そびえ立った。
 創価の太陽が燦然と輝きわたった瞬間であった!
 無数の歓声。自らの口をラッパのごとく吹きながら叫ぶ万歳の波の声――。
 名聞名利に翻弄されゆく人びとを見下ろすがごとく、彼らの″勝利と正義の大塔″はすばらしく、またすばらしく、偉大なる希望の大光を満々と注いでいた。
 来賓として見えていた著名な外国人が、世界第一の六段円塔でしょうと驚嘆していた。
7  堂々たる立像の演技が終わると、幾万人の競技場は静寂に戻った。至るところにいる同志が、勝利者の輝く実態を見た。
 関西青年部長であった大西正人君(現・副会長)がマイクに立った。
 「全関西の池田門下生十万の同志諸君!」
 弟子の誓いが光る、「平和宣言」の第一声が響くと、会場は厳粛な空気に包まれた。
 「一、我々は、日蓮大聖人の仏法を広く時代精神、世界精神にまで高め、『生命尊厳・人間平和主義』の理念にのっとり、立正安国の恒久平和運動を展開しゆくことを誓う……」と。
 私は、最後に挨拶した。
 出席した宗門の法主と、来賓の方々に謝意を述べたあと、青年たちにこう呼びかけた。
 「平和こそ、人類の願望である。我々は、いかなる中傷批判も乗り越えて、平和へ前進しなければならない。あとは諸君、この道をしっかり頼む!」
8  文化祭が終わって、二、三日たってからと記憶する。すぐ登山せよと、突然、連絡が入った。男のやきもちは真っ黒けと、陰口を言われている法主が呼びつけたのである。
 私は、京都、滋賀を訪問するという、わが愛する同志との予定を変更し、急ぎ、秋谷会長らと登山した。三月二十五日のことである。
 そこには、ものすごい修羅の形相の法主がいた。彼は、関西の文化祭について、居丈高に喚いた。
 ――青年部の宣言で、大聖人の仏法を時代精神、世界精神に高め云々と言っていた。もともと高いものを「高める」とは、なんたる不遜な言葉であるか、と。
 さらに、私の挨拶についても、「『日顕上人猊下』と言ったが、なぜ、『御法主上人』と言わなかったか!」と。
 あの大文化祭を見て、この調子である。まったく呆れ果てた、愚者のごとき、哀れな威張り方であった。それは、法主の名を借りた魔性の大悪僧の、嫉妬に狂う悲痛にも似た実態をさらけ出した一幕であったと、皆が怒り、笑っていた。
 御聖訓には、「修羅は日輪を射奉れば頭七分に破る」と仰せである。
 ともあれ、関西の空に厳然と立った″青年の塔″は、一歩も後退せぬ学会の反転攻勢の突破口となった。あの日、あの時から、今再びの常勝の関西から、われら正義軍の大行進は始まった。新しき二十一世紀の創価の勝利山へ!

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