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日蓮大聖人・池田大作

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嵐の「4・24」 断じて忘るな! 学会精神を

1999.4.27 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  先日、ある著名な学者から、伝言をいただいた。
 それは、私を励ましてくれる好意的な内容であった。
 「これだけ壮大なる創価学会になったからには、苦労も苦難も多いでしょう。
 日本を動かす原動力の一つになったことは、まことに偉大なことであります。
 若い時に、身体が弱かった貴方だから、健康のことを心配しておりましたが、この何十年もの間に、いよいよ大偉業を完遂してゆく姿に、心から感嘆し、頭が下がる思いです」
 また、ある高名な方からも、励ましのお手紙をいただいた。
 「これほどまでに、平和勢力を築き上げた大事業に、喝采を送ります。
 戦前戦後を通じて、これほどの業績は、誰も成し遂げることができませんでした。政治家でもない、著名人でもない、一民間人が、戸田会長という偉大な師匠があったことは事実としても、これほどの大業は、とうていできないものです。
 しかも、悪意の中傷を数多く受け、さらにまた、反対勢力の策略と陰謀を撥ね返してこられた。日本狭しと見下ろしながら、全世界を志向してのご活躍、そして、巨視眼と先手を打ちながらの平和活動は、それはそれは、歴史に残ることは絶対に間違いないでしょう」
 また、長年、おつきあいした文化人からは、「奇跡という他ない。誰からも誉められず、嫉妬され、けなされながらも、現実に未だかつてない偉業を創り上げた大芸術は、ナポレオンもユゴーも、きっと賛嘆するであろう」と。
2  一九七九年(昭和五十四年)の四月二十四日――。
 この日、私は、十九年間にわたって務めた、創価学会第三代会長を退き、名誉会長となった。
 全国の、いや、全世界の同志は、その発表に、愕然として声をのんだ。
 その背後には、悪辣なる宗門の権力があり、その宗門と結託した反逆の退転者たちの、ありとあらゆる学会攻撃があった。
 なかんずく、私を破壊させようとした、言語に絶する謀略と弾圧であった。
 正義から転落した、その敗北者たちは、今でも、その逆恨みをはらさんと、卑劣な策略を続けている。これは、ご存じの通りである。
 御聖訓には、随所に説かれている。
 「法華経の行者は諸々の無智の人のために必ず悪口罵詈等の迫害を受ける」と(御書140ページ等、趣旨)。
 広宣流布の闘争のゆえに、悪口罵詈されるのが、真の法華経の行者といえるのである。
 さらに「佐渡御書」には、「賢人・聖人は罵詈して試みるものである」(御書958ページ、通解)と。
 <「賢聖は罵詈して試みるなるべし」>
 真実の信仰者は、罵詈され、讒言され、嘲笑されて、初めてわかる。
3  畜生のごとき坊主らの暴圧による、わが友たちの苦悩を、悲鳴を、激怒の声を聞くたびに、私の心は血の涙に濡れた。心痛に、夜も眠れなかった。
 私は、けなげな創価の同志を守るため、一心不乱に、僧俗の和合の道を探り続けた。しかし、後に退転した、ある最高幹部の不用意な発言から、その努力が、いっさい水泡に帰しかねない状況になってしまったのである。
 それは、最初から、学会破壊を狙っていた仮面の陰謀家どもの好餌となった。
 坊主らは、狂ったように「責任をとれ」と騒ぎ立てた。
 私は苦悩した。
 ――これ以上、学会員が苦しみ、坊主に苛(いじ)められることだけは、防がねばならない。
 戸田先生が「命よりも大事な組織」といわれた学会である。民衆の幸福のため、広宣流布のため、世界の平和のための、仏意仏勅の組織である。
 私の心中では、一身に泥をかぶり、会長を辞める気持ちで固まっていった。
 また、いずれ後進に道を譲ることは、何年も前から考えてきたことであった。
4  ある日、最高幹部たちに、私は聞いた。「私が辞めれば、事態は収まるんだな」。
 沈痛な空気が流れた。
 やがて、誰かが口を開いた。
 「時の流れは逆らえません」
 沈黙が凍りついた。
 わが胸に、痛みが走った。
 ――たとえ皆が反対しても、自分が頭を下げて混乱が収まるのなら、それでいい。実際、私の会長辞任は、避けられないことかもしれない。
 また、激しい攻防戦のなかで、皆が神経をすり減らして、必死に戦ってきたこともわかっている。
 しかし、時流とはなんだ! 問題は、その奥底の微妙な一念ではないか。
 そこには、学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった。
 宗門は、学会の宗教法人を解散させるという魂胆をもって、戦いを挑んできた。それを推進したのは、あの悪名高き弁護士たちである。
 それを知ってか知らずか、幹部たちは、宗門と退転・反逆者の策略に、完全に虜になってしまったのである。
 情けなく、また、私はあきれ果てた。
 戸田会長は、遺言された。
 「第三代会長を守れ! 絶対に一生涯守れ! そうすれば、必ず広宣流布できる」と。
 この恩師の精神を、学会幹部は忘れてしまったのか。なんと哀れな敗北者の姿よ。
 ただ状況に押し流されてしまうのなら、一体、学会精神は、どこにあるのか!
5  そんな渦中の、四月十二日、私は、中国の周恩来総理の夫人であるとう鄧穎超女史と、迎賓館でお会いした。
 その別れ際に、私は、会長を辞める意向をお伝えした。
 「いけません!」
 ″人民の母″は笑みを消し、真剣な顔で言われた。
 「まだまだ若すぎます。何より、あなたには人民の支持があります。人民の支持のあるかぎり、やめてはいけません。一歩も引いてはいけません!」
 生死の境を越え、断崖絶壁を歩み抜いてこられた方の、毅然たる言葉であった。
6  やがて、暗き四月二十四日を迎えた。火曜日であった。
 全国の代表幹部が、元気に、新宿文化会館に集って来た。
 しかし、新たな″七つの鐘″を打ち鳴らす再出発となるべき、意義ある会合は、私の「会長勇退」と、新会長の誕生の発表の場となってしまったのである。
 大半の幹部にとって、まったく寝耳に水の衝撃であった。
 私は途中から会場に入った。
 「先生、辞めないでください!」「先生、また会長になってください!」
 「多くの同志が、先生をお待ちしております!」などの声があがった。
 皆、不安な顔であった。
 「あんなに暗く、希望のない会合はなかった」と、後に、当時の参加者は、皆、怒り狂っていた。
 私は、厳然として言った。
 「私は何も変わらない。恐れるな!
 私は戸田先生の直弟子である! 正義は必ず勝つ!」と。
7   あまりにも 悔しき この日を 忘れまじ
    夕闇せまりて 一人 歩むを
 これは、四月二十四日に記された日記帳の一首である。
 わが家に帰り、妻に、会長を辞めたことを伝えると、妻は、何も聞かずに「ああ、そうですか……。ご苦労様でした」と、いつもと変わらず、微笑みながら、迎えてくれた。

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