Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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地涌の使命・第2東京 平和と文化の連帯 人華に光あれ

1999.4.17 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  「嵐を魂としている人間だって、この世に存在しているものなのだ」(榊原晃三訳、潮出版社)
 これは、ビクトル・ユゴーの有名な小説『九十三年』のなかの一節である。
2  わが師、戸田先生の薫陶は、激しくして厳しかった。
 「広宣流布」という不滅の平和を、世界に創出していくために、真実の門下に対しては、死に物狂いの訓育をしてこられた。
 「宗教革命」がなされなければ、生命の安穏はない。
 その「宗教革命」を土台にして、初めて「政治革命」、そして「経済革命」が必要となる。
 「政治革命」がなければ、社会の向上と繁栄はない。
 「経済革命」をしなければ、生活の向上と、生きゆく糧がなくなってしまう。
 ともあれ、永遠にわたりゆく世界の「平和」と「幸福」のためには、その根本となる「宗教革命」を断行するしかない。
 これが、蓮祖の御遺命であるとともに、広宣流布という方程式であるからだ。
 人類流転の万年への志向は、大仏法を基調として、「平和」「文化」「教育」へ、現代的に開いていかねばならないことは、日蓮仏法の世界的路線である。
 その実践を勇断された、わが師の決意と行動を、私たち弟子は、絶対に虚妄にしてはならない。ここに、創価学会の崇高なる使命と特権があり、悠遠なる栄誉と資格が実在していると、いってよい。
3  声と声、笑いと笑いの賑やかな第二東京――。
 武蔵野は、私の幼き日からの憧れであった。
 この天地に、妙法の種子が芽生えたのは、戦前にさかのぼる。
 牧口先生も、弾圧の迫り来るなか、武蔵野台地の保谷に、たびたび足を運ばれ、尊い転教の足跡を残してくださっている。
 また、奥多摩の氷川は、人生の師である戸田先生が、真の門下生たる、わが青年部を、こよなく愛し、厳しく訓練してくださった歴史的舞台でもある。
 そして、私も、若き日には、福生の地まで駆けゆき、わが同志とともに敢然と戦い、正法弘通の思い出の闘争を刻んだ。一九五三年(昭和二十八年)の福生は、地方の静かな田舎町を歩いているような清閑さが感じられた。
 同志の数も、十世帯余りであった。現在は、福生、秋川一帯で、その幾百倍の陣容となり、本当に嬉しく思っている。
 私は、確信していた。
 ――三多摩方面は、今は、少数の同志の見えざる戦いであるが、必ず大発展する時が来る。華やかな二十三区に匹敵する、そして、その東京区部よりも重要な、妙法流布の新たなる中心拠点になるにちがいない、と。
4  一九七八年(昭和五十三年)の一月、私は完成して間もない立川文化会館で、新たな広布決戦の指揮をとり始めた。
 本部幹部会も、全国の県長会も、各方面の代表との協議も、幾度も、また幾度も、ここ立川文化会館を拠点に開催した。
 ちょうど、″第二章″の支部制がスタートした時でもあり、東京の支部長会も、毎月のように立川で行った。
 皆様方は、遠き立川まで、嫌な顔もせず、使命感に燃えて、集ってくださった。その信心に、私は、最大の尊敬の念を抱いた。
 戸田先生は、厳として言われた。
 「私がいる所が本部だ!」
 立川文化会館は、まさに本部であった。
 三類の強敵との攻防戦の本陣であり、名指揮の牙城であった。
5  この年は、「熱原の法難」から七百年にあたっていた。
 第一回の、第二東京の支部長会(昭和五十三年一月)で、私は語った。
 「仏法は、永遠に『仏』と『魔』との戦いである。『魔』と戦闘しなければ、『仏』になれない。これが日蓮仏法である」と。
 御書には、「天魔力及ばずして・王臣を始として良観等の愚癡の法師原に取り付いて日蓮をあだむなり」と仰せである。
 現在の迫害の姿も、まったく同じである。″天魔の取り付いた″頑昧な坊主が、嫉妬に狂い、権力を使い、マスコミを利用して、学会を苦しめてきた。
 学会を乗っ取ろうとした宗門の画策も、また然りである。
 これこそ、わが学会が大聖人に直結した、真実の「和合僧」なるがゆえの法難であった。
 ともあれ、邪悪な輩から、仏意仏勅の学会を、わが尊き同志を、断じて守らねばならない! 清浄な学会に、指一本、触れさせてなるものか!
 私は暴風雨の真っただ中に、一人立った。来る日も、来る日も、私は、愛する同志の中へ、民衆の中へ飛び込んでいった。
 八王子、小平、国分寺、多摩、狛江、調布、田無。あるいは″村山″、青梅、府中、国立……できることなら、すべての地域に行きたいと願いながら、ある時は、会館に居合わせた方々と語らい、またある時は、同志のお宅にお邪魔した。
 あの愚劣と陰険な迫害のなかで、私は、わが学会を守る防波堤となり、屋根となって戦い抜いたつもりだ。これも、私の誉れの歴史と輝いている。
6  私が名誉会長になって、二年半が過ぎた、一九八一年(昭和五十六年)の十一月二日のことである。
 その日は、激しい雨が降っていた。しかし、立川と西多摩の合同総会に集った友は、八王子の創価大学の体育館を埋めて、熱く燃えていた。
 この日、私は「仏法は勝負である。断じて、我らは勝たねばならぬ」と、全生命で訴えた。
 「我々には、なすべき行軍、交えるべき戦い、挑むべき苦難がある。強固な一念が、我々に勝利をもたらすであろう」とは、ある大英雄の叫びである。
 そして私は、最後に、「新しい希望の歌を歌おう! 一緒に歌おう!」と、指揮をとった。
 その曲は、「嗚呼 黎明は近づけり」(大阪高等学校全寮歌、沼間昌教作詞)であった。
  ♪嗚呼 黎明は近づけり
   君が愁いに 我は泣き
   我が喜びに 君は舞う
   若き我等が 頬に湧く
   その紅の 血の響き
 まったく、本格的な地方指導に行かぬ私のことを、多くの同志が心配していた。宗門の権威が、私を動かせぬようにしてきたことを、皆、知っていた。その卑劣さに、怒りに燃えていた。その鉄鎖を切った私が、獅子のごとく、関西から四国へと飛び込んでいったのは、この一週間後のことであった。
7  「勇猛さは、足と腕がしっかりしているということにはなく、心と魂の堅固さにある」(『世界の名著』19〈荒木昭太郎責任編集〉所収、中央公論社)
 これは、若き日によく読んだ、フランスの哲学者・モンテーニュの『エセー(随想録)』の一節である。
 今や、わが第二東京は、まばゆい武蔵野の緑のごとく、目覚ましい「勇猛精進」の大発展を続けている。
 第二東京には、牧口先生の魂がある。東京牧口記念会館がそびえ立っている。内外を問わず、全世界の友が、何千、何万人と、喜々として語り合いながら、集って来る。
 世界各国から、多くの留学生も集い来る、英知の象徴たる創価大学も輝いている。
 秀才の誉れ高き学問の府、創価学園も、二十一世紀をめざして、若き人材を、無数に育成している。
 第二東京! 新世紀を、栄光の本舞台として、仏法基調の「文化」と「平和」と「教育」の第二章へ、いよいよ動き始め給え! 堂々と!
 第二東京、万歳!

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