Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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新時代の潮・北陸 船出せよ! 世界の希望の海へ

1999.4.2 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

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1  真実を語る勇気!
 その勇気ある人こそ、勝利者であり、立派な人である。
 虚偽の輩は、悔いのみ永遠に残る。自らを破壊し、他者の人生をも混乱させゆく、魔物の存在といってよいだろう。
 仏法では、「はかなきを畜」という。つまり、人びとが不幸になりゆく姿を喜ぶ、虚しく哀れな生命のことである。自己中心、自己の名聞名利のみに固執し、正しき心が倒された連中のことを指す。
 一方、「賢きを人」と説いてある。それを知るゆえに、我らは真実の人間らしく生き抜く。真実の中の真実の大仏法に、生き抜いていくことは、最高の賢き人である。
2  本年(一九九九年)二月、第二代会長・戸田城聖の誕生日(十一日)の直前のことであった。
 北陸・石川県の最有力紙「北國新聞」(富山県では「富山新聞」)が、郷土出身の著名人を紹介する「ほくりく20世紀列伝」という連載で、三回にわたって、戸田先生の半生を描いてくださった。
 戸田先生は、二歳で北海道に渡っておられるが、石川県の塩屋(今の加賀市内)で誕生された。つまり、生粋の″北陸人″であった。
 「信心は一人前でいい。仕事は三人前やりなさい」とは、戸田先生の有名な指導である。
 この新聞の連載は、その言葉を引いて、次のように結ばれていた。
 「三人前の信心を求めなかったところに現実重視の戸田の真骨頂があろう。戸田は神秘的カリスマに頼る教祖ではなく、卓越した説得力を持つ在家の指導者であった」
 仏法は道理であり、社会の真実の法則を説いたものである。
 ゆえに、現実社会から離れた仏法はない。それは、真の信仰でなくして、観念論者の嘘つきの宗教となる。これを、大聖人は、邪教として厳しく戒められた。
 だからこそ戸田城聖は、現実社会に焦点を当てて、「仕事は三人前、信心は一人前」と指導したのである。その言葉は、特に、戦後の、誰もが苦しい時代であったがゆえに、どれほど多くの庶民の励みになったか計り知れない。
3  恩師の生地・塩屋は、大聖寺だいしょうじ川が日本海に注ぐ、河口の右岸にある。かつては″北前船″の港として栄えた。
 先生は、生前に一度だけ、ご自身の生まれた家に立ち寄られたようだ。
 その場所にお住まいであった婦人の話である。
 ある寒い日、コートの襟を立てた長身の男性が訪ねて来た。
 「私は、この家で生まれたと聞いている」
 男性は、懐かしそうに玄関の柱を撫でていたが、眼鏡の奥に光るものがあった。
 そして、「この家を大事にしてください。いつまでも、お元気でね」と言われたそうだ。
 この男性が、戸田先生であった。軍部の弾圧で投獄される前年(一九四二年=昭和十七年)の晩秋のことである。先生は、迫り来る大難を前に、生まれ故郷を眼底に刻もうとされたのだろうか……。
4  私が北陸を初訪問したのは、恩師が逝去される半年前(一九五七年=昭和三十二年十月)であった。
 ″加賀百万石″の前田氏の歴史を思いながら、金沢、高岡、富山へと、北陸路を回った。
 ここに、私の偉大な師匠が生を享けたことを思うと、あの川も、あの山も、あの緑や色づき始めた樹々も、心に染みた。
 あの道も、この道も、みな懐かしく思えてならなかった。
 二度目に訪れた時(一九六〇年=昭和三十五年二月)には、ある北陸の幹部から、ぜひ、金沢の卯辰山うたつやまに登るように勧められた。
 そこから見た、金沢の景観は今も忘れることはできない。
5  一九八二年(昭和五十七年)の九月八日、私は石川の小松空港に降り立った。
 六年ぶりの北陸であった。また、私の初訪問から二十五年の節目にもあたっていた。
 私は、空港から、小松会館に少時間寄って、金沢の石川文化会館に向かった。
 「とうとう来たよ!」
 私は、玄関で待っていてくれた、懐かしい笑顔の同志の方々に、そう挨拶した。皆は、拍手で、心からの喜びをもって迎えてくださった。
6  この北陸の天地にも、数年にわたり、あの未曾有の、陰険にしてずる賢い、悪坊主らの攻撃が続いていた。言語に絶する、これが人間かというくらいの悪口・雑言を、彼らは、権力の立場を利用して吐き捨てていた。″魔女狩り″という言葉も、彼らは公然と使い放っていた。
 私は、北陸の同志が、かわいそうで、かわいそうでならなかった。悔しくて、悔しくてならなかった。いくら攻撃されても、″衣゜の権威″には敵わない、何も言えないのが、当時の現実であったからだ。
7  その頃、私は、ある同志に、こう書き記して、一通の書簡を送った。
 「革命の上のほうには真実と正義とが、嵐の上にひろがる星空のように、きらめいているのである」(榊原晃三訳、潮出版社)
 ビクトル・ユゴーの小説『九十三年』の言葉である。
 また、ある友人には、フランスの作家サン・テグジュペリの作品から、危難を越えゆく勇気の言葉を贈った。
 「救いは一歩踏み出すことだ。さらにもう一歩。そして、たえずそのおなじ一歩を繰り返すことだ」(『サン・テグジュペリの言葉』山崎庸一郎訳編、彌生書房)
8  大聖人の「竜の口の法難」の日を前にした、北陸の滞在三日目の夕べ、私は、功労者の集いで日蓮門下の「法難の歴史」を論じた。
 無名の農民信徒が殉教した「熱原法難」や、また、江戸時代に、ここ金沢の地で日蓮仏法が広まり、七十年近くも弾圧された「金沢法難」等について語った。
 そして、戦時中の、わが創価の法難を、牧口先生、戸田先生の獄中の姿も思い出しながら語っていった。
 大難の嵐を越えて進む、我らこそ、真実の日蓮門下として、御本仏からご称賛があることは絶対に間違いない。
9  富山へは、バスで移動した。
 当時は、よくバスを利用したが、皆が″動く本部″″動く参謀室″と呼んでいた。頼もしくも、微笑ましい表現であった。
 富山に滞在中、台風が日本に上陸したが、わが同志は、強き祈りと決意で、その風雨さえも吹き飛ばす勢いであった。
 地元の友が、丹精してくださった会館の庭も、藤棚も、輝いていた。北陸の天地が、明るく輝いて見えた。
 この旅では、私は、数多くの揮毫を贈らせていただいた。
 色紙はもちろん、用意してくださった衝立など、そばに揮毫できるものがあれば、次々と認めた。
 石川では、ある時は「誓」と記し、またある時は「師 生誕ノ地」「石川広布」等々……。
 富山でも、私は筆をとった。「富山 黎明 凱歌の譜」「生々と 富山広布の 夜明けかな」「富山瑞彩」等々……。
 敬愛する同志のために、命を捧げた私である。常に、北陸に来てさしあげたいが、なかなか、それもできない。
 せめて、″私は、いつも見守っています″″愛する北陸の友よ、頑張れ!″との、わが心だけは残しておきたかった。
 私が帰ったあと、揮毫を見た北陸の友は、皆、喜んでくれたようで、そのお手紙は、今でも保存してある。
10  ともあれ、妙法は「限りなき向上の道」である。我らには、絶対に行き詰まりがない。古来、北陸は、日本海を内海とする大交流の舞台であった。
 今、新時代の北陸の大舞台は世界である。イギリス、ペルー、フランスなど、多くの海外の同志と姉妹交流も重ね、希望と友情の海は洋々と広がっている。
 「世界の北陸」は、創価の青年が、新世紀へ船出しゆく、平和の発信基地となってきた。
 いよいよ来る二〇〇〇年は、戸田先生の生誕百周年――。
 北陸の、大切なわが友よ!
 一人ひとりが、多くの仲間とともに、きらきらと心を輝かせながら、一日一日を生き抜いてくれ給え!
 最後の勝利と歓喜は、我らの胸の中にある!――と。
 我らには正確な道がある。
 宇宙と一体の信仰がある。
 そして、偉大な門があり、偉大にして大胆な、自己の建設がある。
 いかなる重々しき嵐があろうが、我らには、幸福へと、猛烈に震動しゆく絶対の力がある! 心がある! 団結がある!

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