Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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民衆の勝利の詩 君も私も 歓喜と栄光の大合唱

1999.3.22 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  新たに来る日、来る日を、我が家族と、我が同志と、前進して生き抜くことは、なんとすばらしいことか!
 今日も、ともどもに勝利の杯をあげたい。この世を遊戯しゆく活発な魂を、我が胸中に抱ける者は、自由の帝王である。
2  一九七九年(昭和五十四年)の二月のことである。
 私は、二十年前のこの時、鹿児島空港から、インドの広宣流布の旅立ちをしたのであった。
 「仏法西還」の予言の実現のために、私は真剣であった。
 ともあれ、その意義深き旅立ちは、九州から開始したのである。
3  それから二カ月余り後、私は名誉会長になった。
 次の九州訪問も、アジアとの交流――五度目の訪中の帰りであった(一九八〇年=昭和五十五年四月)。
 当時、九州も、あちらこちらで、理不尽な策謀の嵐が吹き荒れていた。私自身も、会合で自由に指導することもできない状態であった。
 陰険なる坊主たちと結託した、何人かの裏切り者の狂気じみた芝居があった。人間として失格者たるを証明している輩である。
 「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退く
 すべてが、御聖訓の通りである。
 私は一人、断固として、指導を開始した。戦闘を開始した。
 長崎から福岡に入った私は、我が友に叫んだ。
 「嵐があろうが、怒濤があろうが、広宣流布を忘るるな!
 折伏の旗をおろすな!
 信心の炎を消すな!」
 我が九州の代表の人たちも、敢然と、勇気と正義のその声に応えて、熱烈たる指導を、火を吐くごとく叫び合った。
4  一九八一年(昭和五十六年)の十二月八日、ついに、私は、敬愛する友の待つ大分に入った。十三年ぶりのことである。
 ここ大分の友たちも、言語に絶する辛酸をなめてきた。
 反逆者の極悪坊主たちの陰険な策略と、攻撃である。
 彼らは結託して、学会の支配と破壊を狙って、陰謀また陰謀の、残忍の牙を向けてきた、ここ大分の天地にも。
 しかし、偉大なる大分の同志たちは、我が尊き学会を守れ、断じて守れと、広宣流布の大道を勇みに勇んで行進していった。
 何人かの、哀れな臆病者も出た。
 しかし、我が同志は勝った。なかんずく、青年部の正義の活躍は目覚ましかった。
 あらゆる迫害、あらゆる攻撃にも、正義の旗を振り続けて、見事に戦い抜いた。
 青年だ、青年だ。大事なのはこの後継ぎの青年たちだ。
 この年は、青年部の結成から、また、恩師の「青年訓」の発表から、三十周年の佳節にあたっていた。
 瞬間、私は思った。
 ――今こそ青年に新しい指針を贈りたい、と。
5  大分指導の、三日目のことである。忘れもしない十二月十日の夜、大分青年部の幹部会が予定されていた。
 その直前の、大分平和会館の管理者室。
 我が胸には、既に、万感の戦う魂が光っていた。
 我が愛する青年たちが待っている。彼らの代表者たちが、新しき「正義の詩」をつくりたい、その詩とともに、二十一世紀へ、厳然たる前進を開始したいと、言うのであった。
 私もそれに応えた。
 「よし、やろう!」
 狭い六畳の部屋は、たちまち詩人の戦場と化した。
 「『なぜ山に登るのか』『そこに山があるからだ』と……」
 約四十分間、あとから、あとから、言葉は奔流となり、炎の噴出となって、ほとばしった。
 私の口述を、五人の男女青年が、ペンも折れよと、無我夢中で、メモをとってくれた。
 このあと、青年たちが清書した原稿に、さらに何カ所も朱を入れていったが、その清書がまだ完成しないうちに、会合の開始時間が来てしまった。
 添削で真っ赤になった原稿のまま、発表となったのである。
 「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」の誕生の瞬間である。
6  私は、祈る思いで謳った。
 「今 君達が存在するその場所で/断じて勝たねばならない!」「信心の二字だけは/決して敗れてはならない!」と。
 仏法は「勝負」である。仏と魔の戦いであり、正義と邪悪との攻防戦である。
 ゆえに青年には、明快に、魔を魔と見破り、邪悪を打ち砕きながら、民衆をリードし、安心させゆく、強い強い使命があることを訴えたい。
 そして、万感の期待をこめて、こう呼びかけたのである。
 「二〇〇一年五月三日――/この日が/私どもの そして君達の/大いなる/目標登攀の日であると決めたい!/広布の第二幕の勝負は/この時で決せられることを/断固として忘れないでほしい」
 この最大に意義ある年も、間近となった。
 その道を、若き弟子たちは、今日も新しい友どちと、新しい兄弟と、新しいスクラムを組みながら、生き生きとした魂で、最高に価値ある一日、また一日を進んでいるにちがいない。
 当時、私は世界芸術文化アカデミーから「桂冠詩人」の称号を受けることが決定していた。「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」は、決定後、最初の長編詩となったのである。
7  大分の南西部の、有名な竹田の岡城址で、寒風が飛び来るなか、私は若き瞳輝く、血潮流るる、我が青年たちと名曲「荒城の月」を大合唱した。烈風に耐えて勝った、庶民の英雄たちと声高らかに歌った。
 親しげな眼ざしで直立した、厳かな青年たちは、永遠なる、荘重な心で、深い何かを誓い合っていた。
 この曙の如くわき立つ心は、罵り騒ぐ蛮人たちを遥かに見下し、至上のラッパの響きとともに進軍の波動となって、全九州を走らせた。
 この歓喜の勝鬨の波は、大分より、熊本へ、福岡へ、全九州へ、いな、日本へ世界へと轟いていったのである。
 偉大なる佐賀も勝った! 宮崎も、さらに長崎も、鹿児島も、見事に、すべてに勝ってきた。わが九州は、難攻不落の正義の城を、清々しい民衆の栄光の宮殿を、堂々と築いた。
 この大九州城をば、私は、仰ぎ見つめている。
8  あの日、あの時、我らが登攀の目標と定めた、二十一世紀の夜明けは始まった。
 「二〇〇一年五月三日」の、山嶺は目前にある。そこに君も! 私も! ともに勝利と栄光と幸福の、創価の三色旗を打ち立てよう!
 十万人の青年が「第九」を合唱する、「アジア青年平和文化祭」の開催も決まった。
 我らは、幸福な太陽の光に包まれながら、固い握手と握手を交わしながら、あの九州勝利山から、再びの行進を開始するのだ! 天使のごとくに!

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