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日蓮大聖人・池田大作

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懐かしき通訳の方々 世界交流の″懸け橋″に大使命

1999.1.20 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
2  ブルガリア訪問(一九八一年)での通訳カーネフさんも、印象深い一人である。
 当時、三十前後の好青年で、専門は物理学。通訳は急な代役だったらしい。しかし、日本留学時の友人にSGIメンバーがいたことから、私のこともよくご存じだったようだ。
 連日、行事が目白押しであったが、いつも笑顔で、光輝ある通訳の音声が響いていた。
 幾度となく固い握手をし、私は、感謝の印に、私の万年筆を差し上げた。
 あとで彼は、はにかみながら述懐しておられたという。
 「(この万年筆は)私にとっては、重いものです。責任が重いですからね……」
 そこには、目に見えぬ、きらめく星の言葉があった。
3  また、一九八四年(昭和五十九年)二月、十八年ぶりのブラジル訪問の時、首都ブラジリアで、私は、フィゲイレド大統領と会見した。
 実は、その通訳をしていただく方が決まったのは、ブラジル上空の機中であった。この搭乗機の航空会社に勤務される日本の紳士で、私たちに同行しておられたのである。
 親しく語り合う間に、大統領との会見の通訳が決まっていない私は、彼に通訳を頼んだ。
 彼は、大任ですけれども、と言って、快く引き受けてくださった。
4  ともあれ、世界中を舞台としていかねばならぬ仏法流布の慈道じどうにあっては、当然、名通訳がたくさん輩出されねばならない。
 また、私の立場の対話は、どうしても、哲学的、思想的なものになってしまう。従って、仏法の知識がない通訳の人では、こちらの真意を伝え切っていけない場合が出てくる。
 キリスト教が、世界宗教になった陰には、どれほどの名通訳を教育したことか。
 私たちも、自然に、さまざまな智慧が必要になってきた。
 通訳を育てることだ。鍛えることだ。輩出することだ。私は、深く、強く、祈り始めた。
 そして、一人、また一人と、すばらしき人材を見つけながら、励まし、育てていくうちに、今日に至った。
 今では、世界各国語の名通訳が美事に揃った。
5  それは四半世紀前で、大歴史家のトインビー博士と対談した時のことである。
 未熟な通訳に対しては、一流の方々は、あまりにも厳しい。私は幾度となく汗をかいた。
 私と博士の、対話のスピードと高度な内容に、訳し切れない苦悩を、通訳にあたったメンバーは、今もって実感している。
 名通訳の存在は世界広布の前進に直結していく。
 そして、豊かな教養がある名通訳の人には、多数の人が賛同してくる。
6  私が、三度目に、ペルーを訪問した折のことも忘れられない(一九八四年二、三月)。
 滞在の最終日、当時のベラウンデ大統領との昼食会に招かれた際、通訳をしてくださったのが、ローサ・キシモトさん(現・ペルーSGI婦人部指導長)であった。
 ご主人の故ビクトル・キシモトさんと、ペルーSGIの基礎を築かれた大功労者である。
 通訳は直前に決まった。
 大統領ご夫妻、首相ご夫妻をはじめ、閣僚、文化人が出席しての公式行事である。
 さすがにキシモトさんも緊張した。私は、思わず、「心配しなくていいよ」と、声をかけたほどであった。
 しかし、昼食会が始まると、彼女は、毅然としていた。
 大統領の訪日や、日本とペルーの学術・文化交流などを巡って、多彩な話題が弾んだが、気品のある声で、堂々と大役を果たしてくださったのである。
 大統領の秘書官長も、彼女の見事な通訳に感嘆しておられたという。
 私が「よかったよ。ありがとう!」とねぎらうと、ホッとしたように、彼女の笑顔が光った。
7  キシモトさんはペルー生まれの日系二世で、戦争の影響もあって、小学校しか出ておられない。専門的な通訳の訓練を受けたわけでもない。
 しかし、長年、一流の国際雑誌の購読を続けるなかで、自然に幅広い、教養を身につけられたようだ。
 また、語学力もさることながら、ペルーの人びとの「心」を深く理解しておられた。どうすれば、日蓮仏法の精神を正しく伝えられるか、悩み、格闘され続けておられた。
 言葉だけでなく、心を伝え、心と心を結び通わせる――それこそ通訳の妙味であり、人間交流の精髄であろう。
8  文豪トルストイは、こう洞察した。
 「人々を結び合わせるすべてのものは善であり、美である」(『日記・書簡』中村融訳、『トルストイ全集』18、河出書房新社)
 平和と文化の光彩で全人類を結びゆく、我ら創価の使命が、いよいよ輝く時が来た。
 また、通訳の方々に心から感謝する昨今である。

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