Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「創価の世紀」の開幕 この一年 太陽の如く富士の如く

1999.1.6 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1   元初の太陽は輝き
  久遠の月光は
  満天に冴えわたる。
  真白き鎧を着飾った
  富士を見つめつつ
  快晴つづきの
  帝王の正月であった。
2  この元朝、私が、妻とともに、八王子の東京牧口記念会館に向かう車中、中央高速の三鷹の先から、悠然たる白雪の富士が近づいてきた。
 確かに、厳然としながら、喜びと、品格と信念の衣を着た、名山である。
 静かなる光に輝き、豊かにして厳然たる心をもてる、その勇姿は、人間どもの愚かな仕業を厳しく見つめているようであった。
 この崇高な大画の如き富士の王者の生命を、私たちは、この正月、久方ぶりに毎日、見ることができた。
 まるで「創価の世紀」の開幕を宣言しゆく万古不変の指揮を執る姿であった。
 この偉大なる一年も、私は尊き同志が、一人も孤独にならず、法戦の戦列から離れず、億劫の功徳と生命の力を刻みゆくことを祈りたい。
  歓呼して
    君と立ちゆく
      創価かな
 この正月の光の夜は、願いと望みを包みこんでくれる大月天子の美光に、熱い精神はいやされた。
 新年に寄せて、私は大切な尊き同志であり、友人たちに、和歌、俳句を数多く贈らせていただいた。
 いつしか百首を超えておったようである。
3  新年になると、戸田先生と共に正月を迎えたことが、あまりにも懐かしく思い出される。
 先生は、必ずご自身が作られた「新年の歌」を詠んでくださった。
 逝去の前年、青年部にいただいた「荒海の 鯱にも似たる 若人の 広布の集い 頼もしくぞある」(一九五七年=昭和三十二年)等の、懐かしきお歌を思うと、先生の叫びが、わが胸に轟き渡る。
 なかでも、一九五五年(昭和三十年)のお歌は忘れることができない。
  妙法の
    広布の旅は
      遠けれど
    共に励まし
      共々に征かなむ
4  この年頭、私たちは、大晦日の真夜中から、友情も深き、不二の同志でもある青年部の代表と共に、総本山に先発した。
 先生のご到着は、夕刻であった。その夜の会合で、男女青年部のリーダーたちを呼び集め、自作の「新年の歌」を朗詠するように求められた。
 その青年たちをご覧になりながら、先生は、自分自身と共に、絶対に不退転の心で、師弟不二の心で、広宣流布への長征をするか、否かを、厳格に見極めておられた。
 先生の弟子に対する叱咤は厳しかった。
 何人かの不逞の弟子は、先生の叱咤に感情的になり、反感をもって去っていった。
 今も、その法理は同じである。
 それは真実の信念の人間であるか、否かを、区別する重要な指導であり、この瞬間が永遠の明確な鍵になっていることを、弟子たちは知らないのである。
 嘲りと侮りを忍び、胸の嘆きを共にしゆく、無名にして不滅の偉大な弟子を、先生は心から欲しておられた。
 また、気高き師弟の道を歩みゆく弟子を、見つけていた。さらに、不可能を可能にしゆく信念の弟子を、訓練していかれた。
 そしてまた、百万の強敵が襲いかかろうとも絶対に崩れぬ弟子を、先生は薫陶し、見抜いていっておられた。
 その会合が終わると、先生の瞳には、熱き涙が伝わっていた。
5  当時、学会の世帯数は約十七万。この決然と立った、仏法による民衆運動の台頭に対し、経文の仰せ通りに「三類の強敵」の毒々しき姿が顕れ始めていた。
 先生は、その前途の多事多難を鋭く見据えて、鉄の信念の弟子を、盤石な団結の同志のスクラムを決意されていた。
 御義口伝には、「共の一字は日蓮に共する時は宝処に至る可し」と、仰せである。
 仏意仏勅の学会と「共に」、偉大なる同志と「共々に」――これこそ、忘れ得ぬ、いな、永遠に忘れてはならぬ学会精神である。
6  ところで、私自身が、毎年のように、「新年の歌」を全同志に贈らせていただくようになったのは、「第七の鐘」を鳴らし終え、名誉会長に就任した翌年の一九八〇年(昭和五十五年)からである。
 この創立五十周年の新春は、戸田先生が見抜いた通りの反逆の弟子、さらには、先生亡き後の学会を、今こそ乗っ取ろうとする狡猾な坊主どもが蠢動し始めてきた。
 さらに、彼らが俗悪なマスコミと結託して、私を倒さんとする謀略と迫害の嵐の渦中で迎えた新年であった。
 しかし、私は、せめて一言でも、全同志を励ましたいと、筆をとった。
  幾山河
    ふたたび越えなむ
      ともどもに
    広宣の旗
      厳といだきて
 戸田先生が「妙法の広布の旅は遠けれど……」と詠まれて、二十五年後であった。
7  また、先生の「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」(一九五六年=昭和三十一年)とのお歌も、私の胸奥から離れたことはない。
 その時、私は、この歌を、先生の遺言として生命に刻んだ。そして、「東洋広布」に、「世界広布」に、わが生涯をかけたのである。以来、四十三星霜――。
 一つ、また一つ、金の道をつくり、銀の道を築き、新しき世紀の、堂々たる世界広布の完成への土台をつくり上げた。
 時来りて、多くの世界の著名人たちも、この偉業を讃嘆している。また全世界の同志の苦難は、今や、崩れざる幸福境涯の生命をつくり上げている。
 その「場」こそ、本有寂光土の源泉であると、仏法は説いている。
 ここには、時を超え、空間を超え、広布の讃歌が、こだまし始めてきている。
 そして、平和の虹のうえに、大空高く、祝福の勝鬨が響き始めてきた。
 荒れ狂う怒濤も越えてきた。険難の山河も乗り越えてきた。我らは、あまたの嵐にも勝ちに勝った。
 ついに我らの「勝利」と「栄光」の陣列は、煌々と昇りゆく太陽と共に、また厳然と、愉快に前進するにちがいない。  
  瞳輝く崇高なる使命をもつ  わが同志を思いつつ 合掌

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