Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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富士見ゆる信濃町 平和と文化と幸福の発信地

1998.11.11 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  真っ赤な夕焼けであった。
 空は紅に燃え、雲は金色の波となり、街も、人も、琥珀の光に包まれていた。
 そして、林立するビルの彼方に、紫に染まった富士が、悠然とそびえ立っていた。
 私は、その美しさに、思わず息を飲んだ。これほどの夕焼けと富士を目にするのは、初めてであった。
 十一月七日の夕刻、創価文化会館から見た光景である。
 さらに、車で、信濃町の本部周辺を回ると、夕焼けは、ますます広がっていった。
 それは、まさしく一幅の名画であった。間近に迫った、学会の創立記念日を、祝福しているかのようにも思えた。
2  ある時、戸田先生は「富士を見よう」と言われた。私は、富士がよく見えるといわれた橋に、先生をお連れした。
 しかし、その日は、あいにく空が霞んで、富士の雄姿を仰ぐことはできなかった。
 「見えないじゃないか!」と、残念そうにつぶやかれたお顔が、心に残っている。
 先生は、富士がお好きであられた。自ら作詞された「同志の歌」でも、「富士の高嶺を 知らざるか 競うて来たれ 速やかに」とうたわれている。
 非難と中傷の嵐にも微動だにせず、屹立する大信念の勇姿。広大な裾野のごとく、万人を包み込む慈愛の腕――先生の人格は、まさに、秀麗にして、堂々たる富士であった。
 富士は「不二」とも書く。私も、己心に、この気高き大山たいざんをいだき、師弟の不二の道を、誇らかに進んだ。
3  今では、車もビルも増え、信濃町から、富士の眺望を楽しめる機会は少ないが、昔はよく見えたようである。
 一九〇三年(明治三十六年)に発刊された、『新撰東京名所図会』の「信濃町停車場」の図の説明には、次のようにある。
 「此地このち高燥こうそうなるを以て 風景殊になり」「遙かに富士、箱根の諸山を望み四時共に愛玩すべし」
 この辺りは、都内でも屈指の風光明媚の地であり、閑静な住宅街であったようだ。
 文人では、古くは、『南総里見八犬伝』の滝沢馬琴、また、アララギ派の歌人である斎藤茂吉、社会運動家では堺利彦、平塚らいてう、政治家では犬養毅などが住んでいた。
 現在も、信濃町の辺りには、神宮外苑、新宿御苑があり、緑に富み、四季折々の風情が楽しめる。
 さらに、国立競技場、神宮球場、神宮プール、東京体育館など、スポーツ施設も多く、特に若い人たちで賑わっている。
 また、東京二十三区のほぼ中央に位置し、副都心新宿にも近く、交通の便もよい。やがて、地下鉄十二号線が延び、千駄ケ谷の創価国際友好会館の付近に、駅もできると伺った。
4  学会本部が、西神田から、この信濃町に移ったのは、一九五三年(昭和二十八年)のことであった。
 当時の新本部は、ある国の大使の公邸を購入したもので、それまでの木造モルタルの洋館を改築して使っていた。
 戸田先生は、軍部政府の弾圧によって逮捕(同十八年七月)される五カ月ほど前、信濃町駅の近くまで、折伏に来られている。先生との、深い縁が感じられてならない。
 ともあれ、先生が、本部をここに定められた鋭い着眼には、感嘆するばかりである。
 信濃町に移転が決まった時、皆が「″信心の濃い町″とは、学会本部に最もふさわしい町ですね」と、嬉しそうに語っていたことが忘れられない。
5  信濃町駅を出ると、前が慶応病院であるが、ここには、空襲にまつわる有名な話がある。
 四五年(同二十年)五月二十四日の未明、この辺りは、焼夷弾による集中攻撃を受けた。
 一坪あたりに焼夷弾一発という、激しい爆撃であった。
 しかし、挺身隊として泊まり込んでいた学生をはじめ、看護婦、医局員が一体となって消火にあたる一方、入院患者を避難させたのである。
 救出にあたったのは、ほとんどが青年であり、当時の新聞には、「屋上の焼夷弾を手づかみで投げ捨てるもの」もいたと報じられている。
 青年たちの必死の奮闘は、百八十人の入院患者全員を、かすり傷一つ負わせることなく、救い出していった。
 さらに、別館や図書館、予防医学教室などが、猛火から救われたのである。
 この壮挙に対し、新聞は「勝利は若い者の力に 慶応病院の入院患者全部救出」の見出しを掲げ、活躍を絶賛している。
6  今、信濃町には、世界青年会館が建ち、人類の未来を守りゆかんとする、世界中の創価の青年たちが、喜々として集って来る。その笑顔がまぶしい。
 また、本部周辺には、民音文化センターや戸田記念国際会館など、平和と文化の殿堂が次々と誕生している。
 信濃町は、広布原点の地であり、平和と文化と幸福の発信地である。
 私は、この町の良き伝統を受け継ぎ、地域の皆様と力を合わせ、二十一世紀に輝く「世界の信濃町」を、「永遠の都」を築き上げようと、深く心に決めている。

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