Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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民衆の力 学会は″善の連帯″の大堤防

1998.10.22 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  今年は、各地で、豪雨による大きな被害が出た。
 被災者の方々に、心よりお見舞い申し上げたい。
 いかなる苦難も乗り越えていける力が信心である。
 被災地の皆様が、この試練を乗り越え、勝利の実証を示されることを、私は、日々、強く、深く、祈り続けている。
2  山梨市に、「万力まんりき公園」という、美しい緑が広がる公園がある。私も、山梨を訪問した折に、幾度となく立ち寄った。
 笛吹川の中流に位置するこの辺りは、昔から、洪水で苦しめられてきた。そこで、堤をつくり、その堤が、万人が力を合わせたような堅固なものであるようにとの祈りを込め、「万力」と名づけられたと伺った。
 山梨ゆかりの名将・武田信玄は、「人は城 人は石垣 人は堀……」と詠んだが、「万力」の名にも、人間が力を合わせることへの誇りが感じられる。
 皆が仲良く団結し、目覚ましい上昇を遂げゆく、山梨の同志の姿を象徴しているかのような、この地名が、私には微笑ましく映る。
3  その山梨県の北東部、秩父山地の笠取山を水源としているのが、私が少年時代に数々の思い出を刻んだ多摩川である。
 多摩川も、大正時代までは、氾濫を繰り返す″暴れ川″であった。
 下流は、首都・東京と神奈川県の境をなし、東京側の堤防は、明治時代には、かなり整えられていた。
 しかし、神奈川側は、堤防のない地域が多く、人びとは豪雨のたびに、洪水に苦しめられてきた。
 住民の代表が、堤防をつくるように、請願や陳情を重ねてきたが、なんの対応もなされなかった。
 軍事優先の政府は、治水工事に回す費用を、著しく制約していたからである。
 また、神奈川側の堤防が整備されると、大洪水の時、東京側への流水が懸念されることから、東京府が反対し、堤防の建設は、許可されなかったようである。
 帝都である東京中心の意識は、かくも恐ろしく、根強かったと感じてならない。
4  一九一四年(大正三年)にも、多摩川は氾濫し、神奈川側は、またしても大洪水となった。一向に進まない堤防の建設に、被害に泣いてきた住民は業を煮やし、遂に、大挙して神奈川県庁への直接請願に及んだ。
 野良着にワラジを履き、目印に、全員、編み笠を被って、県庁のある横浜に向かった。その数は、数百人とも、千五百人、二千人ともいわれている。なかには、女性もいた。
 出水による濁流を渡り、警戒にあたる警官と揉み合いながら県庁をめざした。しかし、警官に阻止され、代表が県知事と会見することになった。
 代表は、懸命に実情を訴えたが、知事には、全く誠意は見られなかった。
 憤った住民は、これを契機に、多摩川築堤期成同盟会を結成する。民衆の組織化である。団結は一段と強まり、運動は勢いを増した。
5  翌年、雨期が近づくと、住民は、私費で堤防をつくろうと、集会を企画したが、それも警察の力でつぶされてしまった。
 ″なぜ、自分たちが犠牲を強いられるのだ! なぜ、堤防の建設が許されないのだ!″
 住民は、あきらめなかった。理不尽な権力に、知恵をもって抗した。
 築堤が許可されないなら、川に沿って走る道路を嵩上げするという、道路の改修を名目に、築堤工事を進めようとの案が出された。
 必死の一念から生まれた知恵は、新知事を動かし、堤防建設は着工された。
 その後も、東京府側から反対が起こり、中止命令が出されるなど、事態は難航した。
 しかし、新知事も住民と心を同じくし、決して、退くことはなかった。
 紆余曲折はあったが、一九一六年(大正五年)の十月、念願の堤防が完成するのである。まさしく、民衆の執念と忍耐の勝利である。
6  古賢のいわく、「君は舟なり、庶人は水なり、水はすなわち舟を載せ、水はすなわち舟を覆す」と。
 本来、民衆こそ主人であり、その力こそが、歴史を変えゆく原動力となる。
 学会は「民衆の、民衆による、民衆のための組織」である。ゆえに、権力は、その台頭を何よりも恐れ、あらゆる策謀を企て、迫害の濁流となって襲いかかってきた。
 だが、いかなる力をもってしても、われらが築き上げてきた、民衆の″善の連帯″の大堤防を破ることは、絶対にできない。
 それは、二十世紀が生んだ、最も偉大なる、見えざる「民衆勝利」の大堤防であるからである。

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