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日蓮大聖人・池田大作

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大世学院の思い出 ″学生に命を捧げる″創立者の心

1998.10.14 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  東京牧口記念会館からは、創価大学のキャンパスがよく見える。
 真っ赤な夕焼けに包まれて、誰が歌うのか、学生歌の合唱が、風に乗って聞こえてくる。
 歌声に耳を澄ませると、ふと、学生時代の思い出が蘇る。
2  私が東洋商業の夜間部を卒業し、大世学院の政経科夜間部に入学したのは、ちょうど五十年前、一九四八年(昭和二十三年)の四月のことであった。
 大世学院は、今日の富士短期大学の前身である。
 当時の校舎は、西武線の中井駅の近くにあった。戦災を免れた建物を借りたもので、明かりは暗く、床はきしみ、破れた窓ガラスからは、雨風が吹き込む教室であった。
 しかし、創立者で院長の高田勇道ゆうみち先生が姿を現すと、教室は明るさに包まれた。
 「いよー、諸君!」
 やや甲高い声で、学生に語りかけ、講義が始まる。
 痩身で、蒼白な顔色である。だが、その目は、生き生きと輝き、声には、情熱があふれていた。
 高田先生からは、政治学などを教わったが、私は、先生の講義が大好きであった。いや、その人格にひかれていた。
3  先生は、政治学を、社会を治め、民衆の苦しみを救う「実践」としてとらえておられた。講義のなかで、よく、日本、世界の現状を憂え、人道による世界の平和の建設を力説された。
 また、「大事なのは人間性の開発です」と言われていたことが、特に耳朶から離れない。
 授業中、時として、苦しそうに咳をされた。
 先生は、胸を病んでおられたのである。
 しかし、咳が治まると、何事もなかったかのように、一段と熱を帯びた、名講義が続くのである。
 私も結核で苦しんでいただけに、病苦と闘いながらの気迫の授業に、強い感動を覚えた。
4  授業のあとも、高田先生は、学生たちに気さくに声をかけ、語り合ってくださった。
 ある時、私が、戸田先生の会社で、少年雑誌の編集を始めたことを語ると、目を細めて言われた。
 「君は、哲学や文学にも造詣があるようだから、一流の編集者になれるよ。
 今度、ゆっくり、教育問題や、社会と人間について話し合おうじゃないか」
 その一挙手一投足に、大事を成しゆく若人を育てんとの真情が、炎のように燃えていた。
 私は、戸田先生の事業が苦境に陥り、休学を余儀なくされたため、高田院長の謦咳けいがいに接したのは、わずか一年余りのことであった。
5  高田先生は、その後、富士短期大学の設立に命をかけられた。重病の体を押して、設立準備に奔走された。
 大学設置の認可が下りたのは、一九五一年(昭和二十六年)三月であり、四月末には、短期大学として初の入学式が行われた。
 しかし、病状は悪化し、五月十七日、入学式から半月余りにして永眠されたのである。享年四十二歳であった。
 亡くなる前夜には、「教育とは教師が学生に命を捧げることだ」と語っておられたという。これが創立者の心であった。
6  私が創価学園を開校する一年半ほど前に、富士短大から、卒業のためのリポートを提出してはどうかとの、強いお勧めがあった。
 高田先生の心を知る私は、それにお応えするつもりで、執筆に取り組んだ。
 「日本における産業資本の確立とその特質」(経済史)、「第二次世界大戦の終了後から朝鮮動乱の終了までの間における我が国産業の動向」(産業概説)など、十のリポートを書き、一九六七年(昭和四十二年)の二月初旬に提出した。
 そして、単位を取得し、経済科の卒業となった。
 私は、わが母校を愛する。わが母校に感謝する。わが母校を誇りに思う。
 そこに、魂を揺さぶる、偉大なる教師との出会いがあったからである。
7  一九七一年(昭和四十六年)、わが創価大学を創立した。私も″学生に命を捧げよう″との思いで。四十三歳の時である。
 以来、創立二十七周年が過ぎ、卒業生も二十四期を数える。
 小室金之助学長も、かつて、富士短大で教鞭をとっておられたという。不思議なご縁である。
 毎年、創価教育の″同窓の集い″には、世界各地から、卒業生が集って来てくださる。その母校愛が嬉しい。
 卒業生に脈打つ、人類に、世界の民衆に奉仕しゆく、人間としての誇りと喜び――その尊き姿こそ、創立者である私への、最大の贈り物である。
 高田先生も、きっと同じ思いで、私を見守っていてくださるにちがいない。

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