Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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真心の輝き 仏法は「親切心」を育む哲学

1998.9.16 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  それは、戦時中、蒲田の新潟鉄工所で働いていた、十六、七歳のころのことである。
 当時、私は胸を病んでいた。しかし、兄たちは兵隊にとられ、私が家計を支えねばならず、ゆっくり療養することもできなかった。
 また、休ませてもらおうとしても、工場の医師から、頭ごなしに「ずる休みは駄目だ」と言われるような時代であった。
 無理に無理を重ね、三九度の高熱を押して、仕事に出たこともあった。
 炎天下での軍事教練中に、倒れてしまったこともあった。
 そんなある日、高熱に加え、血痰を吐き、医務室にお世話になった。
2  憔悴しきった私の姿を見ると、医務室付きの婦人が、心配そうに言った。
 「まあ、大変! ここには満足な薬もないから、一緒に病院に行きましょう」
 私は遠慮したが、婦人は、てきぱきと、私の早退の許可を取ってくれた。
 四十代半ばの、小柄な方だったが、ふらつく私を支えて、わざわざ病院まで付き添ってくださった。
 「大丈夫? 若いんだから、頑張るのよ」
 戦争で、社会も、人の心も、殺伐とした時代である。彼女の親切が、何にも増してありがたく、嬉しかった。
 私は、何度も頭を下げ、丁重にお礼を言った。
 「いいのよ。あたりまえのことをしているだけなんだから」
 お名前を思い出せないのが残念だが、その言葉は、今も私の心に刻まれている。
3  約百年前、欧米人に日本を紹介した、ラフカディオ・ハーン(日本名・小泉八雲)は、『日本瞥見記べつけんき』のなかで、日本人を評して、こう語っている。
 「かれらの素朴な慇懃ぶりは、あれは技巧ではない。あの善良さは、あれはまったく、善良さを自分で意識しない善良さだ。このふたつのもの――親切と礼儀の厚さは、ふたつながら、いずれもまごころからまっすぐに迸(ほとばし)り出たものだ」(『小泉八雲全集』中野好夫編、『明治文学全集』48、筑摩書房)
 確かに、以前の日本人は情に厚く、親切をあたりまえのこととする考え方が、定着していたように思う。
 ところが、現代の社会にあっては、困っている人を見ても、見ぬふりをし、自分のことしか考えない、利己主義に陥った人があまりにも多くはないだろうか。
 しかも、この風潮は、大人から子供にまで至っている。子供の世界の″いじめ″の蔓延も、そうした精神風土がもたらした産物といえよう。
4  では、親切心が希薄になってしまった要因は、どこにあるのだろうか。
 たとえば、かつては、よく「情けは人の為ならず」という諺を耳にした。
 ″人に情けをかければ、それは巡り巡って、自分の身に返り、結局は自分のためになる″との意味である。
 そこには、仏教の因果応報という考えがあり、それが親切や助け合いという、意識を育んでいたといえる。
 しかし、今では、この諺の意味を、″情けをかけて、人を助けたりすることは、むしろ、その人のためにならない″と誤解している人も多い。
5  また、「袖振り合うも多生たしょうの縁」という諺も、よく使われた。″道行く人と袖が触れ合うことさえ、偶然ではなく、多生、すなわち、過去世からの深い宿縁である″との意味だ。
 これも、仏教の「縁」という考えに基づいている。それは、人と人との関係に深い意義を与え、関わりを大切にする生き方を育む哲学となってきた。
 だが、若い世代のなかには、「多生の縁」を「多少の縁」、つまり、ほんの少しの縁と思い込んでいる人も少なくない。
 しかも、こうした諺自体が忘れられようとしている。それは、精神の土壌の崩壊を物語っていよう。
 ここに、人への思いやりを欠いた世相を、生み出した要因があるとはいえないだろうか。
6  日蓮大聖人は、一切衆生の苦悩を、ことごとくわが苦とされ、大慈大悲をもって、迫害を覚悟で、救済に立ち上がられた。
 そして、万人が本来、仏であり、幸福になる権利をもつとともに、苦悩する人びとを救いゆく使命を担った、「地涌の菩薩」であると教えられている。
 人びとの救済のために自分があるとする、この哲理こそ、強き親切心を育む、最も根源的な力といえよう。
 今、世界各地で、SGIの同志の社会貢献が、高く評価されている。これも、自他ともの幸福の実現を使命とする仏法者の、生き方の必然の帰結にほかならない。
 「親切」は、世界中どこへ行っても、心と心を通わせる″世界共通語″となる。
 その精神の土壌を耕していくのが、私たちの広宣流布の広がりである。 

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