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日蓮大聖人・池田大作

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″日中提言″30周年 信義と友情で築いた「金の橋」

1998.9.2 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  「戦争」の世紀を、「平和」の世紀へ――それが、わが創価学会の願望であり、誓いである。
 それゆえに、戸田先生は、一九五七年(昭和三十二年)九月八日、「原水爆禁止宣言」を発表された。
 その十一年後(一九六八年)の同じ日、私もまた、第十一回学生部総会で、平和への道を開くために、日中国交正常化を提言した。以来、今年で三十星霜の節を刻んだ。
2  中国は隣国であり、仏教の伝来をはじめ、さまざまな文化の恩恵を受けてきた大恩ある国である。
 東洋の民衆の幸福を悲願とされていた戸田先生は、世界平和を構想されながら、よく、こう語っておられた。
 「中国が、これからの世界史に重要な役割を果たすだろう。日本と中国の友好が、最も大事になる」と。
 私は、先生亡きあと、その遺志を受け継ぎ、中国と日本の間に、友好の「金の橋」を架けねばならないと決意してきた。
 しかし、東西冷戦の時代であり、日本政府はアメリカとともに、中国への敵視政策をとってきた。
 また、中国は国連への加盟も認められず、国内には、文化大革命の嵐が吹き荒れていたこともあり、国際的にも孤立状態に追い込まれていた。
 当時、国交の正常化という、日中の進むべき当然の道を語れば、″左寄り″とされ、あらゆる非難や危険を覚悟しなければならなかった。
 一九六〇年(昭和三十五年)には、日中の友好関係の復元に努めた、社会党の委員長の浅沼稲次郎氏が凶刃に倒れている。
3  だが、そのなかでも、日中国交回復のために、挺身されている方はいた。その一人が、実業家で、かつて通産大臣を務められた、高碕達之助氏であった。
 氏は、一九六〇年代初め、中国で周恩来総理と会見された折、「小さな勢力かもしれないが、民衆に受け入れられている団体がある。それが創価学会です」と、紹介してくださったという。
 信濃町の近くに住んでおられた氏は、逝去の半年前、学会本部の落成(一九六三年九月)を祝い、富士の絵をお届けくださった。
 氏の言葉には、日中復交への熱願と、私への期待が痛いほど感じられた。後事を受け継ぐ思いで、交わした握手の温もりが忘れられない。
 イデオロギーによって、人間が分断されては、絶対にならない。
 平和は、人間の交流から始まる。相互不信、憎悪の壁を砕くために、誰かが叫ばなければならない。誰かが立ち上がらなければならない。
 私は、仏法者としての信念のうえから、あえて提言に踏み切る決意をした。
 命を賭しても、新しき世論を形成し、新しき時流をつくろうと。
 また、学生部の諸君が、私に続いて、友誼の大道を走りゆくことを信じて。
4  提言の波紋は大きかった。脅迫の電話や手紙もあった。
 街宣車による″攻撃″も絶え間なく続いた。
 「宗教団体の指導者が、なぜ″赤いネクタイ″をするのか」と揶揄もされた。
 ″池田会長の発言は、政府の外交の障害になる″と、批判されもした。
 それは、もとより覚悟のうえであった。審判を下すのは、後世の歴史である。
 私の提言に、日本の未来を憂える、心ある方々は、賛辞を惜しまなかった。
 日中関係の改善に心血を注がれた政治家の松村謙三氏は、八十七歳の高齢にもかかわらず、私を訪ねてくださり、こう言われた。
 「一緒に、中国に行ってくれませんか。私は、今度の訪中が年齢的にも、最後になるだろう。今後の日中国交回復を託す人として、周総理に紹介したい。日本のために……」
 残念ながら、ご一緒することはできなかったが、日中友好の懸け橋を築くために、私はあらゆる努力を払った。時代は動き始めた。
 一九七二年(昭和四十七年)には日中共同声明が発表され、国交を回復。七八年(同五十三年)に平和友好条約が結ばれるのである。
5  私の第一次訪中は、七四年(同四十九年)五月。第二次訪中の折には、療養中の周総理ともお会いした。
 これまでに、訪中は十回を超え、青年部をはじめ、多くの同志が、後に続いてくださった。
 今や、私どもが架けた、日中の友好の橋は、世々代々にわたる堅固なる「金の橋」となった。
 ――「勇気」をもて、「信義」に生きよ。そして、どこまでも「友情」の道を貫け。
 創価の人間主義運動とは、地域に、世界に、人間の心と心を結ぶ架橋作業なのだ。

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