Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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本部幹部会とともに 勝利のリズムつくる″回転軸″

1998.8.26 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
2  三月度の本部幹部会は、翌月の三日に、東京・豊島公会堂で行われることになった。
 しかし、先生は四月二日に亡くなられ、その幹部会は、戸田先生の逝去の発表の場となってしまった。急きょ、内容も変更された。
 登壇した私は、自己の深い悲しみと戦いながら、悲嘆に暮れる同志に、力の限り訴えた。
 「先生のお命は、わが創価学会、われわれ弟子とともに、永遠に生きていらっしゃると信ずるものです」
 同志に希望の光を送るのだ。そのための本部幹部会ではないか――私は、こう自分に言い聞かせながら、懸命に、未来への出発を呼びかけたのであった。
 本部幹部会は、略して、あるいは親しみを込めて、「本幹」と呼ばれてきた。
 この「本幹」に、「第○回」と、通算の回数を冠するようになったのは、私が第三代会長に就任してからのことである。
 戸田先生が、魂魄をとどめた「本幹」の伝統精神を受け継ぎ、一回一回を、皆の前進のエネルギー源にしようとの決意からであった。
 毎回が真剣勝負であった。それは、本部の全職員の決意にもなっていった。
 「本幹」の当日は、皆、役員等で多忙である。そのため、七一年(昭和四十六年)二月から、何年もの間、本部の食堂のメニューは、カレーと決まっていた。
 作る方も、食べる方も、素早くすませ、さっそうと出かけた姿が懐かしい。
3  八七年(昭和六十二年)十二月で、「本幹」は三百三十九回を数え、翌年一月から、今再びの決意で、第一回とすることにした。
 そして、九六年(平成八年)五月度で百回となったことから、七月度の「本幹」から、また、新たに第一回としたのである。
 以来、この八月度で第二十五回となる。
 その間、「本幹」の会場も次第に大きくなり、台東体育館や東京体育館から、日大講堂や日本武道館、また、創大の中央体育館などへと変わっていった。
 それでも、広布の大発展にともない、幹部が一堂に集うことは困難になった。
 そこで、一時は、会合の録音テープを配布し、各地の幹部会で聴いていただくという方式をとったこともあった。また、音声中継で、皆が指導を聴けるようにしたこともあった。
4  現在の衛星中継のシステムが導入されたのは、八九年(平成元年)八月の第一回東京総会からである。この八月で、ちょうど十年目に入ることになる。
 これによって、本幹の模様は、そのまま最前線の同志に伝わり、皆が呼吸を合わせ、毎月、新たな出発ができるようになった。
 その陰の担い手が、学会の衛星通信網「SHN」(SGI・ヒューマン・ネットワーク)のスタッフであり、全国のサテライト・グループ(衛星中継の受信担当者)の方々である。
 皆様の奮闘に、私は、心から感謝申し上げたい。
 数百万の同志が、全国津々浦々の会館に集い、広宣流布を誓い合う「本幹」の衛星中継は、六万恒河沙の地涌の菩薩が雲集した、あの荘厳なる虚空会の儀式にも通じようか。
 「御義口伝」に「霊山一会儼然未散」と仰せである。
 私は、「本幹」を、永遠に″勇気の源泉″に、″歓喜の光源″にしようと、毎回、全力投球で取り組んできた。
 皆様方、お一人お一人と、対話する思いで、全魂を傾けてスピーチしている。
 皆様が喜んでくださるならと、何回となく、学会歌の指揮もとらせていただいた。
 今月も、また、来月も、「本幹」を節に、ともどもに、楽しき使命の歩みを続けよう。
 二十一世紀の、広布の希望の山をめざして。

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