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日蓮大聖人・池田大作

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内田画伯のこと 実を結んだ若き日の「志」

1998.5.27 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  小説『新・人間革命』の連載も、千三百回を超えた。
 挿絵も好評である。
 挿絵を担当されている、内田健一郎画伯は五十歳。夫人の文子さんも洋画家である。
 この随筆の絵も、内田さんにお願いしているが、小説の挿絵と違った感じを出すために、随分、ご夫人に協力していただいているようである。
 内田さんの絵は、本来、どちらかといえば、抽象的な画風だが、小説の挿絵は、極めて写実的である。
 それは、次のような理由によると、お聞きした。
 ――『新・人間革命』のストーリーは、一九六〇年(昭和三十五年)から始まるが、この時代と現在とでは、町並みも、住居も、衣服も、様相は大きく変わっている。読者のなかには、当時は、まだ生まれていない人も多い。
 小説を深く理解してもらうには、その時代の様子を正確に伝えていくことが必要となる。
 そこで、誰にでもよくわかるように、写実的な手法で、街角の広告や、テーブルの上の小物にいたるまで、克明に、精緻に描き出すことにしたという。
 また、制作には、ペンではなく、鉛筆を使用。小説に展開される、ほのぼのとした学会の世界の温かさを表現するには、鉛筆のタッチの柔らかさがよいとの判断によるものである。
2  内田さんは、福岡県の小倉で育った。学会っ子である。
 中学校三年生で、最愛の母が他界。絵が大好きだった母の影響も強くあり、画家を志すようになった。
 聖教新聞に、小説『人間革命』の連載が開始されたのが、高校一年生の元日。
 その挿絵を見て、″自分もいつか、『人間革命』の挿絵を描くような立派な画家になりたい″と思ったという。
 この時、若い魂の大地に、「志」の種子は蒔かれていった。
 上京して、東京芸大をめざすが失敗。小倉で、サラリーマン生活に入る。
 しかし、画家への夢は捨てなかった。二十七歳で、再び東京に出て、独学で絵の勉強を始める。働きながら、絵を描き続け、国展などの美術展で入選を重ねていった。特に、第三文明展では、部門(洋画)トップの第三文明賞を二回受賞。
3  小説『新・人間革命』の連載が決まった時、挿絵を誰に依頼するのか、編集部でも、かなり難航したようである。候補は数十人。
 内田さんは、画家としては、ほとんど世に知られていなかったが、その絵には、″学会の心″があふれていた。
 最終的に内田さんに決定。私も未来に期待した。
 まさに「志ればついに成る」である。
4  挿絵の担当に決まって間もなく、「平和大航海時代の船出」と題する油彩画を寄贈してくださった。
 私が初のアメリカ訪問の折、サンフランシスコのテレグラフ・ヒルのコロンブス像前に立った光景を描いたものであった。
 黄金の学会の歴史を残したいとの一心で、描かれたという。その真心が嬉しかった。この絵は、学会の重宝にさせていただいた。
 私は、すぐに、写真集に句を認めてお贈りした。
  三世まで
    共に画伯と
      作者かな
 内田さんは、挿絵を描くのは初めてであった。
 最初は、納得する挿絵ができず、二十回近く、描き直すこともあったようだ。
 今でも、一枚の挿絵を仕上げるのに、平均七、八時間を費やしていると伺った。試行錯誤しながら、懸命に努力してくださっていることがありがたい。
 私は、日々、感謝の思いで挿絵を拝見しつつ、内田さんの健康と、ご一家の繁栄を、祈り念じている。
5  広布の「志」をいだき、わが創価の庭に集い来った方々は、皆が尊き使命の人である。しかし、精進なくしては、その使命を果たすことはできない。
 葛飾北斎は、老境に至るも意気盛んに、自らの精進の目標を、こう記している。
 「百ゆう十歳にしては一点一格にしていけるがごとくならん」(『富岳百景』の奥付)(百十歳では、どこから見ても、まるで生きているかのような絵を描けるようになるだろう)
 使命とは挑戦の心にある。
 私たちが描くのは、人間革命の名画であり、民衆の幸福と平和の大絵巻である。
 君よ! あなたよ! ともに広宣流布の「大画伯」として、人生の不朽の名画を描き続ける今日であれ、明日であれ、と私は祈り願うものである。

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