Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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御書発刊 「正法正義」の信心の誉れ

1998.4.22 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  大聖人直結の創価学会は、どこまでも御書が根本である。
 恩師戸田先生は、第二代会長に就任すると、直ちに『日蓮大聖人御書全集』の発刊を決断。翌年四月二十八日に迫った立宗七百年の、記念事業として発表された。
 一九五一年(昭和二十六年)の六月のことである。完成までの期間は、わずか十カ月であった。編纂、校正は連日、深夜にわたっていた。
 先生は、戦時中の弾圧で幹部が退転したのは教学がなかったからだと、常に、厳しく言われていた。
 広宣流布を進めるには、一人ひとりが、御書を心肝に染め、揺るがざる信心を築く以外にないというのが、先生の結論であった。
2  そのころ、日蓮宗(身延派)では、既に新しい御書の発刊が進められていた。
 一方、日蓮正宗でも、立宗七百年の記念事業として聖典の刊行を予定していたが、その内容は、法華経の要文や御書十大部などを収録するにとどまっていた。
 それを聞かれた先生は「正宗は、また身延に後れをとってしまうぞ!」と嘆かれた。
 当時、正宗には、完璧な御書全集はなく、学会員も他派が出した御書で研鑽するしかなかった。
 しかし、それらの御書は、最重要の相伝書が未収録であるなど、大聖人の御真意を正確に伝えるものではなかった。
 だが、先生が御書の発刊を提案すると、宗門は一蹴した。
 学会による御書の出版は了承するが、援助はしないというのである。
 その時の心境を、先生は後に「難関は覚悟のうえであったが、宗門の援助が得られぬと決定した時には、胸にわき上がるものがあった……」と述べられている。
3  当時、宗門が力を注いでいたのは、大石寺の梵鐘の鋳造であった。
 宗門は、戦時中、弾圧を恐れて、御書全集の刊行を禁止するとともに、進んで戦争に協力し、軍部に梵鐘を供出してしまった。
 そこで坊主たちは、立宗七百年の記念事業として、信徒から供養を集め、再び梵鐘を作ろうとしたのだ。
 御書全集を作り、大聖人の御精神を人びとに誤りなく伝え、広宣流布をしていこうとする学会。それに対し、宗門は、寺の形式と権威を取り繕うことを最優先したのである。
 恩師は、聖教新聞の「寸鉄」で、宗門の信心の姿勢を痛烈に戒められた。
 「御山でゴシュ(御酒)は作っても、ゴショ(御書)を作れぬ坊主が居るってね」
4  御書の発刊は、結局、伊豆の畑毛に隠退していた、堀日亨上人に編纂の労をとっていただいたほかは、校正作業をはじめ、資金九百万円の調達など、すべて学会で行ったのである。
 当時、戸田先生の事業は、最悪の状況は脱したものの、いまだ思わしくなかった。先生は、発刊の資金のことを悩んでおられた。
 私は先生の事業のいっさいの責任を担い、御書発刊という師の聖業を、陰で黙々と支えた。その奮闘は、先生だけがご存じであった。
 遂に、立宗七百年の四月二十八日、御書は学会の手で完成。不可能を可能にした、大壮挙であった。
 初版の発行部数は六千部である。
 この四月、先生は、私に和歌をくださった。
  山を抜く
    力はみちたり
      若き身に
    励み闘え
      妙法の途に
5  御書の研鑽は、大いなる折伏の広がりを生み、それは更に、御書を求める幾万の声となった。
 翌年の1953年(昭和二十八年)十一月、戸田先生は、御書の再版を決定された。
 この時は私も、教学部の代表として、校正作業に携わった。仕事や会合を終えて印刷所に駆けつけ、深夜まで校正に精魂を傾けた。
 ″尊い、大事な仕事である。完璧な御書を後世に残そう。一字たりとも、誤字脱字を見逃すまい″というのが、私たちの決意であった。
6  戸田先生は、御書全集の「発刊の辞」で、こう述べられている。
 「この貴重なる大経典が全東洋へ、全世界へ、と流布して行く事をひたすら祈念して止まぬものである」
 私は、この身をなげうち、その先生の念願を、すべて実現してきた。
 御聖訓に「総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」と仰せだ。
 御書を根本に、大聖人に直結し、「日蓮が如く」広宣流布を推進してきた唯一の仏意仏勅の団体が、創価学会である。
 ここに、大聖人の信心の血脈があり、正法正義がある。
 そして、ここに、無量の功徳と一生成仏への誉れの直道がある。

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