Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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思い出の日大講堂 世界平和へ旅立ちの大鉄傘

1998.1.12 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  山本伸一の第三代会長の就任は、一九六〇年(昭和三十五年)五月三日のことである。
 その舞台は、東京・両国の日大講堂――。
 日本晴れの空。ドームの大鉄傘にこだまする学会歌の響き。懐かしきわが師・戸田先生の遺影を仰ぎながら入場した、決意の光景が、昨日のことのように思い出される。
 この日大講堂の前身は、大相撲の国技館であることは、よく知られている。
 しかし、太平洋戦争の際に、軍部に接収され、風船爆弾の製造工場として使われていたことは、あまり知られていない。
 風船爆弾は、気球による特殊兵器。直径約十メートルの和紙で作った気球に、小型爆弾や焼夷弾を吊して、時限装置で落下させる仕組みであった。
 偏西風に乗せて、アメリカ本土まで飛ばし、爆撃しようというのである。
 戦争末期に、約九千個の風船爆弾が放たれたが、アメリカ近辺に到着したのは約一割。期待した効果はなく、放球は中止となった。
 風船爆弾と原爆の戦い。これこそ、戦争という愚行の歴史に咲いた、徒花あだばなといえようか。
2  戦後は、進駐軍に接収。「メモリアル・ホール」と名づけられ、娯楽施設として使われた。五二年(昭和二十七年)に接収解除となる。
 だが、すり鉢形をした、かつての円形競技場は、コンクリートで埋められ、相撲の興行には、不向きな場所となった。
 そのため、五八年(昭和三十三年)に日本大学が購入し、講堂とするまで、「国際スタジアム」と改称し、貸しホールとして使用された。
 創価学会が初めて、この会場を使わせていただいたのは、五四年(昭和二十九年)の五月三日。第十回総会である。
 正午の入場式から退場式まで、四時間の大総会である。
 席上、戸田先生は叫ばれた。
 「大聖人の時代に帰れ!」
 人びとの幸福のために立て、との大宣言である。
 この日、伸一は運営の責任者。黙々と清掃に励んでくれた青年たちへの感謝の思いを日記に記す。
 「生涯、陰で苦労せる人々の心情を、絶対忘れぬことを心に誓う」と。
3  以来、本部総会、各部の総会、本部幹部会など、日大講堂での学会の会合は、七七年(昭和五十二年)に一般の使用が中止されるまでに、実に約二百八十回に上った。
 戸田先生亡き後、伸一が「七つの鐘」の構想を示したのも、″平和のフォートレス″創価大学の設立構想を発表したのも、この日大講堂であった。
 さらに、歴史的な日中国交の正常化を訴えた、第十一回学生部総会もまた、この会場であった。あの提言から、今年で三十年を迎える。
 ここから、広布の使命を自覚した、いかに多くの青年たちが、世界へ羽ばたいていったことか。
 風船爆弾製造工場は、平和と幸福の発進基地となっていったのである。これ、「三変土田」の原理の証明なるか。
4  今、日大講堂は取り壊され、跡地にはオフィスや住宅用のビルが建つ。
 この建物の解体が決まった時、地元の同志が、会場で使用されていた演台を、苦労して探し出し、譲り受けて、寄贈してくださった。会長就任の日の、あの伸一の決意を、わが精神とし、永遠に伝えゆく魂の結晶にしたいと言われていたようだ。嬉しい限りである。
 精神の源流が流れ通うところ、そこには、使命の花が咲き、永遠の栄えも必ずある。
 あの日、わが師の遺影の下で、伸一は誓った。
 「戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布をめざし、一歩前進への指揮をとらさせていただきます!」
 その通り、私は決意のままに、広宣流布の証明をしてきたつもりである。
 何も恐れず、何ものにも屈せず、学会の魂を胸に燃やしながら。

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