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第43回「SGIの日」記念提言 「人権の世紀へ 民衆の大河」

2018.1.26 「SGIの日」記念提言(池田大作全集未収録分)

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1  市民社会の声が後押しした核兵器禁止条約の採択
 きょう26日の第43回「SGI(創価学会インタナショナル)の日」に寄せて、SGI会長である池田大作先生は「人権の世紀へ民衆の大河」と題する記念提言を発表した。
 提言ではまず、今年で世界人権宣言の採択70周年を迎えることを踏まえ、起草に尽力したハンフリー博士やアパルトヘイト(人種隔離)撤廃のために戦い抜いたマンデラ元大統領との交流を振り返りつつ、人権の礎は“同じ苦しみを味わわせない”との誓いにあると強調。排他主義を食い止めるための鍵として、仏法の生命論や牧口常三郎初代会長の思想に触れながら、青年に焦点を当てた人権教育を進めることを提唱している。
 また、アメリカ公民権運動の歴史に言及し、差異を超えた連帯で時代変革の挑戦を前に進め、その喜びを分かち合う生き方に、人権文化の紐帯はあると訴えている。
 続いて、昨年7月に122カ国の賛成を得て国連で採択された核兵器禁止条約の意義に触れ、唯一の戦争被爆国である日本が核依存国の先頭に立って、核兵器禁止条約への参加に向けた意思表明を行うよう呼び掛けている。
 また、年内の採択が目指されている、難民と移民に関するグローバル・コンパクトで、「子どもたちの教育機会の確保」を各国共通の誓約にすることを提案。高齢化の問題を踏まえて、「高齢者人権条約」の交渉開始と、第3回「高齢化世界会議」を日本で開催することを提唱している。
 最後に、国連のSDGs(持続可能な開発目標)の前進に向け、日本と中国が連携して「気候保全のための日中環境自治体ネットワーク」を形成することや、国連で「女性のエンパワーメントの国際10年」を制定することを訴えている。
 昨年は、平和と軍縮を巡るターニングポイント(転機)の年となりました。
 国連での交渉会議を経て、核兵器禁止条約がついに採択されたのです。
 7月の採択以来、50カ国以上が署名しており、条約が発効すれば、生物兵器や化学兵器に続く形で、大量破壊兵器を禁止する国際的な枠組みが整います。
2  そもそも、核兵器を含む大量破壊兵器の全廃は、国連創設の翌年(1946年1月)、国連総会の第1号決議で提起されたものでした。以来、光明が見えなかった難題に、今回の条約が突破口を開きました。しかも、被爆者をはじめとする市民社会の力強い後押しで実現をみたのです。
 その貢献を物語るように、条約制定を求める活動を続けてきたICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)にノーベル平和賞が贈られました。
 先月の授賞式で、ベアトリス・フィン事務局長に続いて演説したサーロー節子さんは、広島での被爆体験を通し、「人類と核兵器は共存できない」「核兵器は必要悪ではなく、絶対悪」と訴えました。フィン事務局長は今月、日本を訪問し、創価学会の総本部にも来訪されましたが、演説に込められた思いは、発足まもない頃からICANと行動を共にしてきたSGIの信念と重なるものです。
 ひとたび敵対関係が強まれば、相手の存在を根本的に否定し、圧倒的な破壊力で消し去ることも厭わない――。核兵器を正当化する思想の根底には、人権の根本的な否定ともいうべき冷酷さが横たわっています。
 私の師である創価学会の戸田城聖第2代会長が、核開発競争が激化した冷戦の最中(57年9月)に「原水爆禁止宣言」で剔抉したのは、まさにその点でした。
 抑止による平和の名の下に核の脅威が広がる中で、「その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」(『戸田城聖全集』第4巻)と、世界の民衆の生存の権利を根底から脅かす核兵器の非人道性を指弾したのです。
 その遺志を継いだ私は、半世紀前(68年5月)に行った講演で、当時、交渉が終盤を迎えていた核拡散防止条約(NPT)の妥結だけでなく、製造・実験・使用のすべてを禁止する合意の追求を呼び掛けました。
3  世界人権宣言の起草に込められた差別なき社会への思い
 また私は、40年前、国連の第1回軍縮特別総会に寄せて、核廃絶と核軍縮のための10項目提案を行い、第2回の軍縮特別総会が開催された1982年にも提言をしました。
 そして、翌83年から「SGIの日」記念提言の発表を開始し、これまで35年間にわたり、核兵器の禁止と廃絶への道を開くための提案を重ねてきたのです。
 なぜ私が、これほどまでに核問題の解決に力点を置いてきたのか。
 それは、戸田会長が洞察したように、核兵器がこの世に存在する限り、世界の平和も一人一人の人権も“砂上の楼閣”となりかねないからです。
 SGIが核廃絶の運動を続ける中、交流を深めてきた団体の一つにパグウォッシュ会議があります。その会長を昨年まで務めたジャヤンタ・ダナパラ氏も、核問題をはじめとする多くの地球的な課題に臨むには倫理的なコンパス(羅針盤)が欠かせないと強調していました。
 「倫理的な価値観という領域と、現実主義的な政治の世界は大きくかけ離れており、決して接することはないと広く考えられているが、それは正しくない。国連のこれまでの成果は、倫理と政策の融合は可能であることを示しており、平和と人類の向上に貢献してきたのは、この融合なのである」(IDN―InDepthNews 2017年1月23日配信)と。
 今年で採択70周年を迎える世界人権宣言は、その嚆矢だったといえましょう。
 そこで今回は、世界人権宣言の意義を踏まえつつ、地球的な課題に取り組む上で「倫理と政策の融合」を見いだすための鍵となる、一人一人の生命と尊厳に根差した「人権」の視座について論じたい。
4  ハンフリー博士の生い立ちと体験
 第一の柱は、人権の礎が“同じ苦しみを味わわせない”との誓いにあることです。
 国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、昨年、移民と難民を巡る問題を担当する特別代表のポストを新たに設けました。
 現在、移民の数は世界で2億5800万人に達し、難民の数も増加の一途をたどる中、こうした人々に対して、ともすれば負担や脅威といったイメージばかりが先行し、排他的な風潮が強まっています。
 特別代表に就任したルイーズ・アルブール氏は、「他のあらゆる人と同様、移民もその地位に関係なく、基本的人権の尊重と保護を受ける必要があるということは、はっきりさせておかねばなりません」(国連広報センターのウェブサイト)と訴えていますが、問題解決の土台に据えねばならない点だといえましょう。
 20世紀の歴史が物語るように、2度に及ぶ世界大戦において異なる集団への蔑視や敵意が扇動され、多くの惨劇が引き起こされてきたことを忘れてはならないからです。
 国連創設の3年後(1948年12月)に採択された世界人権宣言は、こうした教訓に基づいて結実したものに他なりませんでした。
 移民と難民の人々に対する差別をはじめ、現代のさまざまな人権問題を解決するためには、今一度、世界人権宣言の精神を想起し、確認し合うことが重要ではないでしょうか。
 国連の初代人権部長としてその制定に尽力したジョン・ハンフリー博士と、以前(93年6月)、お会いしたことがあります。
 世界人権宣言の意義などについて語り合う中、深く胸に残ったのは、博士自身が直面してきた差別や体験の話でした。
 カナダ出身の博士は幼い頃、両親を病気で亡くし、自らもひどい火傷を負って片腕を失う悲劇に見舞われます。兄や姉とも離れて生活し、入学した寄宿学校では、その生い立ちのために、いじめや心ない扱いを受け続けました。
 大学卒業後、結婚をした翌月に起きたのが世界恐慌で、博士自身は仕事を続けられたものの、いたる所で見かける失業者の姿に胸が痛んでならなかったといいます。また、1930年代後半にヨーロッパで研究生活を送った時には、ファシズムによる抑圧を目の当たりにし、一人一人の権利を国際法によって守る必要性を痛感したのでした。
 博士はある時、「世界人権宣言について誇りに思うことは、市民的、政治的権利とともに経済的、社会的、文化的権利を入れることができたことです」と述懐していました。
 こうした博士の生い立ちや体験が、世界人権宣言の草案をまとめる際に大きく影響したのではないかと思えてなりません。
 実のところ、博士の功績は、20年に及ぶ国連の人権部長の仕事を終えた後も、長らく知られないままの状態が続きました。
 博士が私に強調しておられたように、世界人権宣言はあくまで「多くの人の共同作業」で制定されたものであり、「“作者不明”であったところに、この宣言が、いくらかの威信と重要性をもてた理由があった」というのが、博士の考えだったからです。
 それでも私は、博士から草案の復刻版をいただいた時、手書きの文字の一つ一つに、誰もが尊厳をもって生きられる社会の実現を願う“種蒔く人の祈り”が込められているのを感じてなりませんでした。
 その心情を多くの人に伝えたいとの思いで、SGIでは「現代世界の人権」展などで、草案の復刻版を紹介してきたのです。
 海外初の開催となったカナダのモントリオールでの同展の開幕式(93年9月)で、博士との再会を果たし、世界人権宣言の精神を未来に語り継ぐことを誓った時の思い出は、今も忘れることはできません。
5  獄中で培った確信
 世界人権宣言が採択された48年は、一方で、南アフリカ共和国でアパルトヘイト(人種隔離)政策が始まった年でもありました。
 その撤廃を目指し、自らが受けた差別への怒りや悲しみを乗り越えながら前に進み続けたのがネルソン・マンデラ元大統領です。
 初めてお会いしたのは、マンデラ氏が獄中生活から釈放された8カ月後(90年10月)でした。
 青年時代に解放運動に立ち上がった思いを、マンデラ氏は自伝にこう綴っています(『自由への長い道(上)』東江一紀訳、NHK出版)。
 「何百もの侮蔑、何百もの屈辱、何百もの記憶に残らないできごとが絶え間なく積み重ねられて、怒りが、反抗心が、同胞を閉じ込めている制度と闘おうという情熱が、自分のなかに育ってきた」と。
 投獄によってさらに過酷な扱いを受けたものの、氏の心が憎しみに覆われることはありませんでした。
 どんなに辛い時でも、看守が時折のぞかせる「人間性のかけら」を思い起こし、心を持ちこたえさせてきたからです。
 すべての白人が黒人を心底憎んでいるわけではないと感じたマンデラ氏は、看守たちが話すアフリカーンス語を習得し、自ら話しかけることで相手の心を解きほぐしていきました。
 横暴で高圧的だった所長でさえ、転任で刑務所を離れる時には、マンデラ氏に初めて人間味のある言葉をかけました。
 その思いがけない経験を経て、所長が続けてきた冷酷な言動も、突き詰めていけば、アパルトヘイトという「非人間的な制度に押しつけられたもの」だったのではないかとの思いに行き着いたのです。
 27年半、実に1万日に及ぶ獄中生活を通し、「人の善良さという炎は、見えなくなることはあっても、消えることはない」(『自由への長い道(下)』)との揺るぎない確信を培ったマンデラ氏は、出獄後、大統領への就任を果たし、「黒人も白人も含めたすべての人々」の生命と尊厳を守るための行動を起こしていきました。
 大勢の黒人が白人のグループに殺害され、黒人の間で怒りが渦巻いた時にも、型通りの言葉だけで融和を図ろうとはしませんでした。
 ある演説の途中でマンデラ氏は、突然、後方にいた白人の女性を呼んで演台に迎え、笑みをたたえながら“刑務所で病気になった時に看病してくれた人です”と紹介しました。
 問題は人種の違いではなく人間の心にある――その信念を物語る場面を目にした聴衆の雰囲気は一変し、復讐を求める声も次第に収まっていったのです。
 この振る舞いは、自身を縛り続けてきた“非人間性の鎖”の重さが身に染みていたからこそ表れたものではないでしょうか。
6  法華経に描かれた不軽菩薩の実践
 私どもが信奉する仏法にも、マンデラ氏が抱いた「人の善良さという炎は、見えなくなることはあっても、消えることはない」との確信と響き合う行動を、どこまでも貫いた菩薩の姿が説かれています。
 釈尊の教えの精髄である法華経に描かれている不軽菩薩の行動です。
 不軽菩薩は周囲から軽んじられても、“自分は絶対に誰も軽んじない”との誓いのままに、出会った人々に最大の敬意を示す礼拝を続けました。
 悪口を言われ、石を投げつけられても、“あなたは必ず仏になることができます”と声をかけることをやめなかった。
 マンデラ氏が獄中でひどい仕打ちを受けても、人間性に対する信頼を最後まで曇らせなかったように、不軽菩薩はどれほど周囲から非難されても、相手に尊極の生命が内在していることを信じ抜いたのです。
 “万人の尊厳”を説いた法華経に基づき、13世紀の日本で仏法を弘めた日蓮大聖人は、その行動に法華経の精神は凝縮しているとし、「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書1174ページ)と述べました。
 「仏」である釈尊の出世の本懐が、「人間」としての振る舞いにあったとは、逆説的に聞こえるかもしれません。
 しかし、釈尊が人々の心に希望を灯したのは、超越的な力によるものではなく、目の前の人が苦しんでいる状態を何とかしたいという人間性の発露に他なりませんでした。
 重い病気で寝たきりになった人に対し、周りが手をこまねいている時に、見過ごすことはできないと体を洗って励ましたのが釈尊であり、視力を失った人が衣服のほころびを直したいと思い、“誰か針に糸を通してもらえないだろうか”とつぶやいた時、真っ先に声をかけて、手を差し伸べたのも釈尊でした。
 その一方で、頼みにしていた2人の弟子を亡くし、胸を痛めながらも自らを鼓舞して前に進むことをやめなかったのが釈尊であり、80歳を過ぎて体の無理がきかなくなったことを受け止めつつも、人々のために最後まで法を説き続けたのが釈尊だったのです。
 失意の闇に沈む人がいれば寄り添い、辛い出来事があっても心に太陽を昇らせて、人々を励まし勇気づける――。この人間・釈尊の振る舞いという源流があればこそ、法華経の“万人の尊厳”の思想は、生き生きとした脈動を現代まで保ち続けることができたのではないかと思えてなりません。
 大乗仏教において、仏を「尊極の衆生」と名付けていたように、仏といっても、人間と隔絶した存在では決してない。不軽菩薩のように、自己の尊厳に目覚め、その重みをかみしめながら、周りの人々を大切にする人間の振る舞いが、そのまま、仏界という尊極の生命の輝きを放ち始めるというのが、法華経の核心にある教えなのです。
 大聖人は、この生命のダイナミズムを、「我等は妙覚の父母なり仏は我等が所生の子なり」(御書413ページ)と説きました。
 仏法には、苦難を抱えながらも、人々のために行動する一人一人の存在こそ、尊厳の光で社会を照らし出す当体に他ならないとの思想が脈打っているのです。
 人権も同じく、法律や条約があるから与えられるものではないはずです。人間は本来、誰しもかけがえのない存在だからこそ、自由と尊厳が守られなければならないのです。
 人権を守る法制度づくりに息吹を吹き込んできたのも、ハンフリー博士やマンデラ元大統領のように、差別や人権侵害に見舞われながらも、“この辛い思いを誰にも味わわせてはならない!”と、社会の厳しい現実の壁を一つまた一つと打ち破ってきた人たちの存在だったのではないでしょうか。
7  厳しい弾圧の中で貫き通した信念
 私どもSGIの平和運動の源流は、第2次世界大戦中に日本の軍部政府と戦い抜いた、創価学会の牧口常三郎初代会長と戸田城聖第2代会長の信念の闘争にあります。
 牧口会長は20世紀初頭に著した『人生地理学』で、植民地支配の広がりによって世界の多くの民衆が苦しんでいる状況に胸を痛め、「競いて人の国を奪わんとし、之がためには横暴残虐敢て憚る所にあらず」(『牧口常三郎全集』第1巻、第三文明社、現代表記に改めた)と警鐘を鳴らしました。
 また、日本が軍国主義への傾斜を強め、その影響が教育にも色濃く及ぶ中で、1930年に『創価教育学体系』を世に問い、子どもたちの幸福と社会全体の幸福のために価値創造の力を養うことに教育の目的があると訴え、自ら実践の先頭に立ち続けました。
 その信念は、国家総動員法=注1=が敷かれ、「滅私奉公」のスローガンの下、政治や経済から文化や宗教にいたるまで統制が進んだ時も変わることはなく、「自己を空にせよということは噓である。自分もみんなも共に幸福になろうというのが本当である」(同第10巻、現代表記に改めた)と、軍部政府の方針に痛烈な批判を加えたのです。
 思想弾圧によって機関紙が廃刊を余儀なくされ、会合に特高刑事の監視がつくようになっても、一歩も退かずに声を上げ続けた結果、牧口会長は43年7月、治安維持法違反と不敬罪の容疑で弟子の戸田理事長(当時)らと共に逮捕されました。
 「表現の自由」「集会の自由」「信教の自由」のすべてが奪われ、投獄までされながらも、牧口会長は最後まで信念を曲げることなく、獄中で73年の生涯を終えたのです。
 マンデラ元大統領の忘れ得ぬ言葉に、新しい世界を勝ち取る人間とは腕組みをした傍観者などではなく、「暗澹たるときでも真実を見限ることなく、あきらめることなく何度も試み、愚弄されても、屈辱を受けても、敗北を喫してもくじけない人」であるとあります(『ネルソン・マンデラ私自身との対話』長田雅子訳、明石書店)。
 獄中で生涯を閉じたという事実だけを見れば、牧口会長の信念は結実をみなかったように映るかもしれません。しかし、その信念は、獄中闘争を共に貫いた戸田第2代会長に厳然と受け継がれ、途絶えはしなかったのです。
 冷戦が深まる中で朝鮮戦争が起きた時、戸田会長の心を占めていたのは、「戦争の勝敗、政策、思想の是非」といった国際政治の次元で語られる関心事ではありませんでした。
 「この戦争によって、夫を失い、妻をなくし、子を求め、親をさがす民衆が多くおりはしないか」と憂慮し、「人民がいくところがない。楽土にたいする希望がないほど悲しきことはない」(『戸田城聖全集』第3巻)と述べたように、その思いは牧口会長と同じく、何よりも民衆の窮状に向けられていたのです。
 56年にハンガリー動乱が起きた時にも、その眼差しは変わりませんでした。政治的な経緯もさることながら、「国民が悲痛な境遇にあることだけは察せられる」とし、「ただ、一日も早く、地上からかかる悲惨事のないような世界をつくりたい」と、時代変革の波を民衆の行動で起こすことを固く誓ったのです。
 こうした信念に基づき、どの国の民衆も踏み台にされることのない世界を築く「地球民族主義」を提唱した戸田会長が、絶対に見過ごすことのできない一凶と捉えていたのが、民衆の生存の権利を根底から脅かす核兵器の問題に他なりませんでした。
 であればこそ戸田会長は逝去の7カ月前に「原水爆禁止宣言」を発表し、核兵器の禁止と廃絶への道を切り開くことを、当時、青年だった私たちに託したのであります。
8  一人一人の生命と尊厳を守り抜く
 このように、二人の先師にとって世界平和の追求は、国家間の緊張解消や戦争の防止にとどまらず、民衆一人一人の生命と尊厳を守り抜くことに主眼がありました。
 SGIが核兵器禁止条約の制定を目指す中で、「生命の権利」を守る人権アプローチを重視してきたのは、牧口会長と戸田会長の精神を受け継いだものだったのです。
 その意味でも、禁止条約が軍縮に関するものでありながら、国際人権法の精神を宿していることに深い意義を感じてなりません。
 条約の最大の特色は、核兵器を禁止する理由として「すべての人類の安全」への危険性を挙げ、被害を受ける“人間”の観点を条約の基礎に据えていることにあります。また、条約に関わる主体として、国家だけでなく、市民社会の役割の重要性を明確に位置付けていることです。
 歴史を振り返れば、国際社会における個人の存在を、同情の対象ではなく権利の主体として位置付けるきっかけとなったのは、「われら人民」の言葉で始まる国連憲章であり、「すべての人」という主語を掲げる条文などで構成された世界人権宣言でした。
 核兵器禁止条約でも、自らの被爆体験を通して核兵器の非人道性を訴え続けてきた行動の重みをとどめるべく、「被爆者」の文字が前文に刻まれています。
 禁止条約の交渉会議で、市民社会の代表が座っていた席は議場の後方でした。
 しかし、ある国の代表が、市民社会は“尊敬の最前列”にあったと語ったように、禁止条約を成立させる原動力となったのは、広島と長崎の被爆者や核被害を受けた世界のヒバクシャをはじめ、心を同じくして行動を続けてきた市民社会の声だったのです。
 SGIもその連帯に連なり、ICANとの共同制作による展示を通した核兵器の非人道性に関する意識啓発や、国連への作業文書の提出などを通して、核兵器禁止条約の制定プロセスに深く関わってこられたことは、大きな喜びとするところであります。
 平和や人権といっても、一足飛びに実現できるものは何一つありません。
 “自らが体験した悲惨な出来事を誰の身にも起こさせない”との誓いが平和と人権を守る精神的な法源となり、市民社会の間で行動の輪が大きく広がる中でこそ、一人一人の生命と尊厳を守る法律や制度の基盤は固められていくのではないでしょうか。
9  国と国をつなぐインフラの構築
 次に第二の柱として挙げたいのは、分断を乗り越える人権教育の重要性です。
 近年、移民と難民の急増に伴う入国管理の強化や資源の領有に関する係争など、国境を巡る問題がさまざまクローズアップされるようになってきています。
 一方で、それとは正反対の動きが勢いを増していることが注目されます。
 多くの国を直通で結ぶ鉄道をはじめ、国をまたいだ電力供給網やインターネットの海底ケーブルの敷設など、共通インフラの整備が広がっていることです。
 最新の研究によると、これまで敷設された海底ケーブルは約75万キロ、鉄道は約120万キロといったように、その長さは、世界の国境線の総計である25万キロをはるかに上回る規模になっています。
 また、こうしたインフラの構築に投入される費用は年間で3兆ドルに達し、世界全体の防衛費の年額(1兆7500億ドル)よりも多く、その差は広がる傾向にあるというのです。
 この状況を踏まえて、地政学の見直しを提唱するシンガポール国立大学のパラグ・カンナ上級研究員は、次のように指摘しています(『「接続性」の地政学(上)』尼丁千津子・木村高子訳、原書房)。
 「構築されたインフラの全体図が地図に記されていないために、国境線は、人が創造した地理を映し出すどんな手段より勝っているような印象を受ける。だが、今日では真実はその逆である。国境線が重要な役割を果たすのはあくまでその場のみで、他の線のほうが重要な場合がはるかに多いのだ」と。
 共通インフラの構築は、EU(欧州連合)のような地域にとどまらず、緊張を抱える地域でも見られ、その利用を通じて互いに受ける恩恵が「自然の地理と政治的地理がそれぞれ抱えている問題点」を克服する契機にもなりうると強調しているのです。
 国境線という「政治的な地理」の現実を踏まえつつも、共通インフラの果たす役割に着目し、「機能的な地理」の姿を浮かび上がらせようとしたカンナ氏の試みに、私は、先に言及した牧口初代会長の『人生地理学』を貫く眼差しと相通じるものを感じます。
 地理への認識が人間や国家の行動に及ぼす影響を重視した牧口会長は、行動の基軸を「人道的競争」に置くこと、すなわち、「その目的を利己主義にのみ置かずして、自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとする」方法を意識的に選び取ることを呼び掛けていたからです(前掲『牧口常三郎全集』第2巻、現代表記に改めた)。
 国境線がどの国にとっても譲れないものだとしても、越境して結ばれる共通インフラの線が増えれば、それだけ国と国との関係は豊かなものに変わっていく――。こうした動きは、牧口会長が提唱した「人道的競争」への萌芽ともいえるものではないでしょうか。
 牧口会長の思想の根幹には“価値は関係性から生じる”という哲学がありましたが、異なる存在を結ぶつながりを広げることは、人権を巡る課題を前に進める上でも欠かせない要素であると私は考えます。マンデラ氏が、白人の看守や看護師といった人々との個人的な結びつきを広げ、出獄後の政治活動の礎ともなった人間性に対する確信を深めていったように、さまざまな差異があっても、互いの関係性をプラスの価値を生み出す方向へと転じることはできるからです。
10  世界各地で広がる排他主義の動き
 “万人の尊厳”を説いた釈尊が常に留意を促していたのも、言葉による固定化がもたらす危険性に他なりませんでした。
 「生れによって〈バラモン〉となるのではない。生れによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為によって〈バラモン〉なのである。行為によって〈バラモンならざる者〉なのである」(『ブッダのことば』中村元訳、岩波書店)と、人間の尊さは属性を示す言葉で左右されるものではないと訴えたのです。
 仏法に、「厭離断九」という言葉があります。
 仏と人間とを全く別の存在として立て分けてしまい、最極の生命状態(仏界)を得るためには、それ以外の生命状態(九界)をすべて厭い、そこから離れて、断ち切る以外にないと考えることを指し、それを戒めた言葉です。
 日蓮大聖人はこの点を踏まえて、「二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげ(歎)くべきにあらざりけり我等も同じなげきにてありけりと心うるなり」(御書522ページ)と述べ、特定の人々の存在を根本から否定するのは、他者の尊厳を傷つけるだけでなく、自分の尊厳の土台を突き崩すことになると訴えました。
 これは仏法の生命論的な視座ですが、人間の尊厳に対して障壁を設けることの危険性は、現代の人権問題を考える上でも看過してはならない点だと思えてなりません。
 特定の人々を蔑み、遠ざけようとし、関係を持つことを嫌う排他主義が、世界各地で深刻な問題を引き起こしているからです。
 昨年の国連人権理事会でも、排他主義に関する二つの決議が採択されました。
 宗教などの違いに基づく不寛容と闘うことを求めた決議と、外国人嫌悪の行為などを防止するために人種差別撤廃条約の追加議定書の草案づくりを開始する決議です。
 2年前に国連で採択されたニューヨーク宣言=注2=でも、「難民または移民を悪魔呼ばわりすることは、私たちが深く関わってきた全人類に対する尊厳と平等の価値を心の底から損ねている」(国連広報センターのウェブサイト)と警鐘が鳴らされていました。
 もとより、自分が属する集団に愛着を感じるのは、自然な感情といえるものです。また、自分が住む地域に他国から来た人々を迎え入れることに不安や戸惑いを感じるのも、やむを得ない面があるかもしれません。
 しかしそれが排他主義へと傾き、ヘイトスピーチのように憎悪や敵意をむき出しに差別をすることは人権侵害になります。
11  フィルターバブルが引き起こす問題
 特に近年、情報社会化が進み、他者とつながる可能性は拡大しているにもかかわらず、ネット空間を通じて増幅するのは、同じような考えを持つ人々との一体感ばかりという現象がみられることが懸念されます。
 「フィルターバブル」と呼ばれるもので、インターネットで情報を探す際に、利用者の傾向を反映した情報が優先的に表示され、他の情報が目に入りにくくなるため、知らず知らずのうちに特定のフィルターで選別された情報に囲まれて、バブルの球体の膜に包まれてしまったような状態になることを指します。
 深刻なのは、社会問題を巡る認識でも、その傾向が顕著になりつつあることです。
 気になる社会問題があっても、目にするのは、自分の考えに近い主張や解説が載ったウェブサイトやSNS(インターネット交流サイト)の内容になってしまいがちで、異なる意見は最初から遠ざけられ、吟味の対象となることは稀だからです。
 この問題に詳しいイーライ・パリサー氏は、「情報の共有が体験の共有を生む時代において、フィルターバブルは我々を引き裂く遠心力となる」と注意を喚起しています。
 物事を適切に判断するためには文脈を把握し、さまざまな方位に目を配ることが必要となるはずなのに、「フィルターバブルでは360度どころか、下手をすると1度しか認識できない可能性がある」と、視野の狭さがもたらす悪影響に警鐘を鳴らしているのです(『フィルターバブル』井口耕二訳、早川書房を引用・参照)。
 多様性の尊重に関する研究でも、社会で主流をなす集団の人々が、差別的な扱いを自分たちは受けずに済んでいる現実をさほど意識しないままでいることが、それ以外の人々に「生きづらさ」を感じさせる状況を助長してきたと指摘されています。
 かつて、“公民権運動の母”と呼ばれるローザ・パークスさんとお会いした時(1993年1月)、語っておられた言葉が忘れられません。
 「私は悲しい出来事をいくつもいくつも体験してきました。人種差別が、法律のもとで堂々とまかり通り、自分も含めて多くの人々が苦しむのを、何度も目の当たりにしています」
 心の痛みをどれだけ強く感じようが、目に見える形で表さなければ、誰も気にとめようとはしない――。
 あの歴史的なバス・ボイコット運動は、パークスさんの“不正義に対する明確な拒否”の姿勢が、多くの人々の胸に突き刺さったからこそ、大きな波動を巻き起こしたのではないでしょうか。
12  歴史の教訓を青年に語り継ぐ
 日本でも、中国や韓国など近隣諸国の人々への差別意識が根強くみられることは、極めて遺憾と言わざるを得ません。
 近隣諸国との相互理解と信頼の構築を目指し、私が長年にわたって交流を深める中で友誼を結んできた一人に、韓国の李寿成元首相がいます。
 李元首相の父君は、日本が植民地支配をしていた時代に判事の仕事に就きましたが、韓服を着て出勤し、日本語を話すことを強要されても、決して受け入れませんでした。そして、固有の名前を日本式に改める「創氏改名」を拒否したために判事の職を追われ、弁護士の仕事を始めようとしても開業を許されなかったといいます。
 この李元首相から伺った話を含め、戦前と戦時中に非道な扱いを受けた近隣諸国の人々の心の痛みを日本の青年たちに語り継がねばならないとの思いで、私はことあるごとに歴史の教訓を訴えてきました。
 昨年10月、創価大学で講演した李元首相は、「どんなに優れた人であっても、他者に対して傲慢であってはならない。また、ある民族が他の民族に対して、傲慢であってはならない」と呼び掛けましたが、日本で今なお続く差別をなくすためにも、若い世代が胸に刻んでほしいと願わずにはいられません。
 ともすれば差別は、多くの人にとって無関係のものと受け止められがちです。しかし、社会的なマイノリティー(少数者)の立場に置かれてきた人々にとって、それは日常的に身に降りかかる現実なのです。
 人権教育は、こうした差別を助長する“無意識の壁”の存在に目を向けさせ、日々の行動を見つめ直す契機となるものです。
 私どもSGIが、人権教育の推進を通して力を入れてきたのも、エンパワーメント(内発的な力の開花)による一人一人の尊厳の回復と、「多元的で誰も排除されない社会」を共に築くための意識啓発です。
 これまでSGIは、1995年にスタートした「人権教育のための国連10年」を支援するとともに、そうした国際的な枠組みの継続を呼び掛け、2005年から国連が新たに開始した「人権教育のための世界プログラム」を推進する活動を行ってきました。
 その上で、多くの団体と協力しながら、「人権教育および研修に関する国連宣言」の採択を市民社会の側から後押しし、2011年の採択以降は、人権教育に関わる市民社会のネットワークづくりに取り組んできました。
 また、人権教育映画「尊厳への道」を制作して上映会を開催してきたほか、昨年3月にジュネーブの国連欧州本部で行った新展示「変革の一歩――人権教育の力」の開催を各地で進めています。
 映画や展示で紹介している事例の一つに、オーストラリアのビクトリア州警察での人権研修から広がった社会の変化があります。
 ある捜査でLGBTと呼ばれる人々への不当な扱いが問題となったことを契機に、全職員を対象とする人権プロジェクトを導入した州警察では、移民の人々に対する厳しい態度も改められるようになりました。
 警察官は「人」と「行為」を混同してはならない。あくまでも「人」は保護し、違法な「行為」があれば、その「行為」に対処する。これが、人権を基盤にした警察の責務である――との認識が徹底されていったのです。
 以来、移民の人々の間でも変化が生じました。ある青年は語っています。
 ――悪いことをしていなくても、警察官が近づくだけで不安を感じていたが、ある時、「青年のためのリーダーシップ育成のプログラムに参加しないか」と声をかけられた。
 プログラムに参加して、警察に対する印象も変わり、“この国の警察官は、制服を着ていても同じ市民であり、普通の人間と変わらない”と思うようになった――と。
 こうして人権研修の導入をきっかけに、警察官の意識が変わり、移民の人々の不安も次第に解消される中で、警察に対する市民全体の信頼が高まっていったのです。
13  「因陀羅網」の譬え
 この事例が象徴するように、人権教育や人権研修の意義は、知識やスキルを身に付けるだけで完結するものではありません。
 異なる集団の人々に対し、同じ人間として向き合う心を取り戻し、社会で共に生きていく関係を紡ぐことに眼目があるのです。
 これまで「人権教育のための世界プログラム」では、5年ごとに重点対象を設け、①初等・中等教育、②高等教育と教育者や公務員等、③メディアとジャーナリスト、の三つの段階で進められてきました。
 続く第4段階は2020年から始まりますが、私は、その重点対象を「青年」にすることを提唱したいと思います。
 青年は、フィルターバブルの影響を受けやすい面がある一方で、人権教育で学んだ経験を周囲に語り、発信することで偏見や差別を克服する輪を広げていける存在です。
 核兵器の禁止を求めるICANの活動の中核を担ったのも、20代や30代の青年たちでした。
 人権の面からも、そうした世代が形づくられていけば、世界の潮流を分断から共生へと大きく転換できるに違いありません。
 フィルターバブルや“無意識の壁”に囲まれていると、他者の人間性の輝きは目に映らず、自分に本来具わる人間性の輝きも曇らされて周囲に届かなくなってしまいます。
 人権教育には、属性や立場の違いがつくり出す自他を隔てる壁を取り払い、自分にとっても、他の人々にとっても“人間性の光”を豊かに輝かせる場を広げる力があります。
 大乗仏教に「因陀羅網」(帝釈天の宮殿を飾る網)の譬えがあります。
 壮大な網の結び目の一つ一つに付けられた宝玉が、互いの姿を映し合う中で、それぞれの輝きを増し、網全体も荘厳されていくイメージに、私は、人権教育が切り開く社会のビジョンをみる思いがします。
 人権教育に関する国連宣言が呼び掛ける「多元的で誰も排除されない社会」は、その“人間性の光”を豊かに受け合うつながりを幾重にも織り成す中で、力強く支えられていくのではないでしょうか。
14  国連の取り組みが目指す社会の姿
 第三の柱で論じたいのは、人権文化の紐帯は“喜びの共有”にあるという点です。
 先月、世界人権宣言が採択された日(12月10日)に合わせ、宣言誕生の場となったパリのシャイヨ宮で「世界人権宣言70周年」のキャンペーンが立ち上げられました。
 国連のゼイド・フセイン人権高等弁務官は、声明でこう呼び掛けました。
 「私たちは、妥協することなく決然たる立場をとらなければなりません。なぜなら、他者の人権を断固支持することは、自分たちの人権や将来世代の人権を守ることでもあるからです」
 この呼び掛けを貫く“力を合わせて人権を共に守る”との問題意識は、国連の他のキャンペーンにも共通するものです。
 難民や移民の人々が直面する状況の改善を目指す「TOGETHER」(トゥゲザー)や、ジェンダー平等を推進する「HeForShe」(ヒー・フォー・シー)の取り組みでも、タイトルが象徴するように、差異を超えて行動の連帯を広げることが鍵となっています。
 それは、他者の置かれた境遇への理解を必ずしも伴わない消極的な寛容とは本質的に異なる、人権文化の建設を志向したものといえましょう。
 消極的な寛容の場合、共生といっても、同じ地域で暮らすことを受け入れるとか、法律やルールがあるからそれに従うといった、表層的なものだけに終わる恐れがあります。
 そうした消極的な寛容では、同じ人間として向き合う姿勢には結びつかないために、社会で緊張が高まった時には排他主義を食い止めることは難しいのではないでしょうか。
 だからこそ、一人一人の意識変革を通し、「誰もが尊厳をもって生きられる社会」という新しい現実を一緒につくりあげようとする人権文化の取り組みが、今、国連を中心に進められようとしているのです。
 仏法に「喜とは自他共に喜ぶ事なり」(御書761ページ)という言葉がありますが、共生の社会を築く源泉となるのは、一人一人が尊厳を輝かせていく姿を互いに喜び合う生き方にあるのではないかと、私は考えます。
 法華経では、“万人の尊厳”を説く釈尊の教えに心を打たれた弟子たちが、一人また一人と誓いを立てていく場面があります。
 その姿を前に周囲に広がるのは、「心大歓喜」や「歓喜踊躍」といった言葉が随所に出てくるように、喜びの輪であり、その喜びを分かち合う中で人々が“万人の尊厳”への思いを深めていく姿が描かれているのです。
 SGIの民衆運動を突き動かしているのも、そうした“喜びの共有”に他なりません。
 国や人種の隔てなく、互いが直面する課題に対し、共に前に進んでいけるよう支え合っていく。そして、困難に立ち向かう中で尊厳の光を輝かせる友の姿を胸に焼き付け、その友の前進を我が事のように一緒に喜び合っていく思いが源泉となってきたのです。
15  自由と平等求めた公民権運動の精神
 この“喜びの共有”に関連して頭に浮かぶのは、以前、歴史学者のビンセント・ハーディング博士から伺ったアメリカ公民権運動の思い出です(『希望の教育 平和の行進』第三文明社)。
 博士が運動に身を投じたのは、大学院生だった頃、マーティン・ルーサー・キング博士の自宅を訪れたことがきっかけでした。
 当時、アメリカでは、バス・ボイコット運動を機に差別撤廃を求める動きが広がる一方で、黒人の大学生が登校停止になったり、黒人の生徒が高校の入学を拒否され続けるなど、南部の州を中心に緊張が高まっていました。
 シカゴにいたハーディング博士は、黒人と白人のキリスト教徒が協力し合う活動に参加していましたが、そのうち、仲間の間で次のような自問が広がるようになったといいます。
 「もし我々が、黒人と白人が兄弟姉妹として一緒に暮らすことが違法で危険な南部に住んでいたなら、我々はどう行動するだろうか。重大なトラブルに巻き込まれても信念を貫き、互いの関係を守ることができるだろうか」
 そこで博士たちは「それなら、南部へ行ってみよう」と決断し、2人の黒人と3人の白人の5人組で車に乗り込みました。
 最初に立ち寄ったアーカンソー州で目にしたのは、入学拒否にあった生徒を支援する中心者の家に向けられていた非道な脅迫の実態だったといいます。
 差別に反対する人々への暴力が続いていたミシシッピ州を通り抜け、アラバマ州に着いた時、キング博士はナイフで刺される事件に遭ってまもない頃で、モンゴメリーの自宅で安静を余儀なくされていた状態でした。
 それでもコレッタ夫人は来訪を大変に喜び、キング博士との面会が実現しました。
 その時の出会いを回想して、ハーディング博士は語っていました。
 「モンゴメリーで初めて出会ったとき、私たち二人の黒人と三人の白人の五人組が『兄弟』として、南部での旅を試みていることに、キングはとくに感銘を受けていました」
 「というのも、彼の主要な目標の一つは、単に黒人のために法的な権利を確立することではなく、それを超えて、彼が『愛に満ちた共同体』と呼んでいた“同じ人間としての根本的なつながり”を再発見できる場を創ることにあったからです」と。
 もちろん、キング博士にとって、新たな法律の制定を後押しし、平等と社会的公正を実現する道を開くことは、何としても勝ち取らなければならないものでした。公民権法のような法律の整備は、差別や抑圧の蔓延を阻止するための社会の礎として、絶対に欠かせないものだからです。
 その上でキング博士の眼差しは、根強い偏見や感情的なしこりを取り除く努力、そしてさらに、ハーディング博士の表現を借りれば、「黒人や白人、そしてあらゆる人々が一緒になって、“共通の善”のための“共通の基盤”を見いだすことのできる『アメリカ』を創ること」に向けられていたのです。
 公民権運動が大きなうねりとなり、二人の出会いから5年後(1963年8月)にワシントン大行進=注3=が実現した時には、人種の違いを超えて多くの人々が参加しました。
 キング博士は、その大勢の人々の思いを代弁するかのように、こう述べています。
 「その日首都に旅してきたおよそ二十五万人の人々の中には多くの高官や名士たちがいた。しかし真に人々の心を揺り動かす感動は、一意専心自分たちの時代に民主主義の理念に到達しようと決意して、堂々と立ち尽くしていた普通の一般大衆からやってきた」(クレイボーン・カーソン編『マーティン・ルーサー・キング自伝』梶原寿訳、日本基督教団出版局)
 そこに集った人々の胸に脈打っていたのは、自由と平等への思いを共にする中で社会に巻き起こしてきた一つ一つの変化に対する“分かちがたい喜び”ではなかったでしょうか。キング博士の言葉に「旅」とありますが、私は、その当日だけでなく、そこに至るまでの日々というプロセスの中でさまざまな労苦を重ねてきたからこそ、多くの人々の胸に迫る万感の思いがあったと感じるのです。
 であればこそ、多くの白人が参加しただけでなく、キング博士が当時の記者の見解として特筆していた、「平和時におけるこの国のどんな問題よりも、米国の三大宗教信仰を近づけた」という歴史的な連帯が築かれたのだと思えてなりません。
16  8回にわたって共同声明を発表
 テーマは異なりますが、SGIが核兵器の禁止を目指す中、さまざまな信仰を背景とする団体と協力し、宗教コミュニティーとしての共同声明を発表してきたのも、民衆の連帯によって時代変革の波を起こしていかねばならないとの一意専心の思いからでした。
 くしくも、その連帯を築く出発点となったのは、アメリカのワシントンで2014年4月に開催した宗教間シンポジウムです。
 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教を信仰する人々が集まり、核兵器の問題について語り合った末に、14団体の宗教者の署名による共同声明を発表したのです。
 以来、同年12月にウィーンで行われた核兵器の人道的影響に関する国際会議をはじめ、2015年のNPT再検討会議や、2016年の核軍縮に関する国連公開作業部会、そして昨年の核兵器禁止条約の交渉会議など、重要な節目ごとに宗教コミュニティーとしてその場に臨み、8回にわたって共同声明を積み重ねてきました。
 私たちは宗教の垣根を越えた使命感を共有していますが、連帯の紐帯はそれだけではありません。力を合わせて挑戦を前に進めること自体に、何よりの喜びを感じてきたのです。
 SGIは、昨年11月にバチカン市国で行われた、核兵器のない世界への展望を巡る国際会議にも参加しました。
 フランシスコ教皇は、核兵器の使用だけでなく核兵器の保有そのものについても明確に非難し、核兵器は誤った安全保障観をつくり出すだけで、「連帯の倫理」こそが平和的な共存の基盤になると訴えました。
 また、核兵器禁止条約の交渉会議で多くの国々が核兵器の非人道性を踏まえて示したような「健全なリアリズム」の重要性を強調しましたが、私も深く同意するものです。
17  人類の歴史開く民衆の連帯を!
 振り返れば、私が核兵器禁止の合意形成を強く呼び掛けたのは、今から50年前、キング博士が亡くなった翌月のことでした。
 それだけに、キング博士が最後に行った講演の一節は、ひときわ胸に残っています。
 博士は講演で、“もし人間の全歴史を眺めることができるとしたら、どの時代に生きたいか”と自問する中で、ルネサンスの時代や、リンカーンが奴隷解放宣言の署名を決断した時など、多くの出来事を見たいが、そこで立ち止まらずに、あくまで自分が生きている時代に立ち会いたいとし、こう述べました。
 「さてこれは奇妙な発言だと思われることでしょう。なぜなら今世界はめちゃくちゃになっているからです。国は病んでおり、地には悩みがあり、どこにも混乱があります。たしかにこれは奇妙な発言です。しかしどういうものか、私は真っ暗な時にこそ、星はよく見えることを知っています」
 「そして私がこの時期に生きることを幸せと思うもう一つの理由は、われわれは人々が歴史を通じて取り組もうとしてきた地点に、どうしても来ざるをえないようにさせられているからです」(前掲『マーティン・ルーサー・キング自伝』)と。
 翻って現在、人権文化の建設に国連と市民社会が協働して取り組む流れが形づくられようとする一方で、世界の民衆の「生命の権利」を守る核兵器禁止条約の発効に向けて正念場を迎えるこの時、キング博士の言葉を今一度かみしめるべきではないでしょうか。
 私たちの眼前には、人類史を画する挑戦の舞台が大きく広がっています。
 すべての人々が尊厳をもって生きられる平和と共生の地球社会という「新しい現実」を創造することは決して不可能ではなく、その挑戦を成し遂げる原動力は民衆の連帯にあると、私は確信してやまないのです。
18  冷戦時代の教訓が物語る恐怖による抑止の危険性
 続いて、これまで論じてきた“一人一人の生命と尊厳”の観点に基づき、地球的な課題を解決するための提案を行いたい。
 第一のテーマは、核兵器の問題です。
 昨年7月、核兵器禁止条約が122カ国の賛成を得て国連で採択されました。
 核兵器の開発をはじめ、製造や保有、そして核兵器の使用とその威嚇にいたるまで、全面的に禁止する条約です。
 かつて国際司法裁判所は、核兵器の威嚇や使用は国際法に一般的に違反するとしながらも、国家の存亡に関わるような極端な状況の場合には、合法か違法かをはっきりと結論することはできないとの勧告的意見を示しました。
 この核兵器禁止条約は、そのような場合も含めて、いかなる例外も認めず、一律に禁止するものに他なりません。
 先月もICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のノーベル平和賞の授賞式にあわせるような形で、禁止条約の2回目の署名式が国連で行われたように、条約の発効に向けた努力が積み重ねられています。
 その一方で、核保有国や核依存国の間では“核兵器禁止条約は現実的ではない”といった声が根強くあります。
 しかし過去の歴史において、核兵器を一時は保有しながらも、非核の選択に踏み切った国の事例がないわけではありません。
 例えば、南アフリカ共和国はデクラーク大統領が議会演説でアパルトヘイト(人種隔離)の廃止を約束した翌年(1990年)から、核兵器の解体に着手しました。
 その後、核拡散防止条約(NPT)に加盟し、96年には他の国々と共にアフリカ非核兵器地帯条約への署名を果たしたのです。
 非核兵器地帯の設立の先駆けとなった中南米のトラテロルコ条約も、前文で「核戦争の惨害を一掃する」との文言に続いて、「全ての人の権利の平等」に基づく恒久的平和が掲げられていたように、“非核の選択”と“人権の理念”が分かちがたく結びつく形で誕生したものでした。
 国際人権法の理念は、国の違いを問わず、一人一人の生命と尊厳を守ることを求めるものであり、その追求の先には核軍拡を続ける余地など残されているはずがありません。
 翻って現在、北朝鮮の核開発を巡る情勢のように、核兵器の存在があからさまな“威嚇の手段”としての様相を再び強めている状況は、国際社会の深い懸念となっています。
 また近年、アメリカとロシアの間で中距離核戦力(INF)全廃条約=注4=の遵守を巡る対立がみられることも憂慮されます。
19  国際法の歴史が築いてきたもの
 核抑止政策の骨格は“核兵器による威嚇”にありますが、そこにひそむ問題を突き詰めて考える時、哲学者のハンナ・アーレントが提起した「他者を圧倒する自由意志」としての主権というテーマを思い起こします(『過去と未来の間』引田隆也・齋藤純一訳、みすず書房)。
 アーレントは、古代ギリシャにおいて自由は、他者との交わりの中で“至芸”ともいうべき輝きをもって表れる言葉や振る舞いに息づくものとして捉えられていたのに対し、それが近代以降、他者への眼差しを欠いた自己の意志に基づく「選択の自由」の意味へと変容してきたとして、こう指摘しています。
 「自由の理念が、行為から力としての意志へ移動し、行為のうちに具体的に明示される状態としての自由から選択の自由へと移動した結果、それは、前述の意味での至芸であることをやめ、他者から独立し、しかも最終的には他者を圧倒する自由意志の理想、すなわち主権となった」と。
 アーレントはこの考察を通し、自由と主権の関係を論じましたが、壊滅的な被害をもたらす核兵器によって安全保障を確保しようとする国家のあり方は、「他者を圧倒する自由意志」の最たるものとはいえないでしょうか。
 ある意味で国際法の歴史とは、国家に対して“越えてはならない一線”を明確化し、共通規範として打ち立てていく挑戦の積み重ねでもあったといえます。
 16世紀から17世紀にかけてヨーロッパで続いた戦乱に胸を痛める中で、近代国際法の礎を築いたグロティウスは、『戦争と平和の法』で、敵といえども人間であることに変わりはなく、信義は守られなければならないと訴えました。
 そしてその思想は19世紀以降、戦時における禁止事項を定めた国際人道法の形成につながり、20世紀の2度に及ぶ世界大戦を経て、国連憲章で「武力による威嚇または武力の行使」が一般的に禁止されたのです。
 これまで生物兵器や化学兵器をはじめ、対人地雷やクラスター爆弾が、条約によって“いかなる場合も使用が許されない兵器”として一線が引かれたことを機に、保有を望み続ける国が減少するようになりました。昨年は化学兵器禁止条約の発効20周年でしたが、締約国は192カ国に達し、化学兵器の9割が廃棄されてきたのです。
 国際規範はひとたび明確に打ち立てられれば、国家のあり方のみならず、世界のあり方を方向づけていく重みがあります。
 ICANのフィン事務局長も、ノーベル平和賞の授賞式で訴えていました。
 「今日、化学兵器を保有することを自慢する国はありません。神経剤サリンを使用することは極限的な状況下であれば許されると主張する国もありません。敵国に対してペストやポリオをばらまく権利を公言する国もありません。これらは、国際的な規範が作られて、人々の認識が変わったからです」(NHKのウェブサイト)
 そして今、条約の採択によって、核兵器が“いかなる場合も使用が許されない兵器”として明確化されるにいたりました。
 国連のグテーレス事務総長も、「グローバルな緊張が高まり、軍事力が誇示され、核兵器の使用を巡って危険な言葉が交わされている」との強い警告を発しています。核兵器を巡る混迷が深まっている今だからこそ、核抑止政策の是非を真摯に問い直すべきではないでしょうか。
20  フルシチョフのアメリカ訪問
 そこで私は、核兵器の使用を巡る危険な言葉の応酬がやまなかった冷戦時代の教訓を、振り返ってみたいと思います。
 以前、テレビのドキュメンタリー番組で、ソ連の首脳として初めて訪米を果たしたフルシチョフ首相の様子が紹介されていました(ARTEFRANCEほか制作『フルシチョフ アメリカを行く』、NHK BS1、2017年10月18日放映)。
 訪米は、ソ連が大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射に続いて、人工衛星スプートニクの打ち上げに成功した2年後(1959年9月)のことでした。
 “近いうちに核戦争をしかける人物”としてのイメージが浸透していたフルシチョフ首相は、行く先々で政治的な批判にさらされましたが、一方でアメリカ市民との触れ合いを何よりの楽しみとしていました。
 意見の対立を抱えつつ、アメリカと一定の信頼関係を築いて帰国したものの、翌年、アメリカの偵察機であるU2がソ連の領空内に入り、撃墜される事件が起きました。関係は再び悪化の一途をたどり、61年のベルリン危機に続いて、62年にはキューバ危機を招いてしまったのです。
 キューバ危機は、ケネディ大統領とフルシチョフ首相がぎりぎりの所で踏みとどまったことで最悪の事態を免れましたが、ドキュメンタリー番組の最後で、当時のフルシチョフ首相の心境を推察しながら、次のように問いかけていたことが胸に残りました。
 もちろん、理由はいくつかあったであろう。政治家として妥協せざるを得なかったかもしれない。それでも核戦争に踏み切らなかった理由の一つに、つかの間ではあってもアメリカ市民と触れ合った懐かしい記憶があったことを想像できないだろうか――と。
 これはあくまで番組の問いかけではありますが、核攻撃によって命を失うのは大勢の民衆に他ならないという現実は、私自身、フルシチョフ氏の後任のコスイギン首相と率直に語り合った点でもあります。
 コスイギン首相とお会いしたのは74年9月で、ソ連は当時、アメリカだけでなく中国とも深刻な対立関係にありました。
 私は、核戦争のような事態が起きることは絶対にあってはならないとの思いで、3カ月前の訪中で目にした、ソ連の攻撃に備えて中国の人々がつくった防空壕の様子を伝えました。
 北京では防空壕に加え、中学校でも生徒たちが校庭で地下室づくりをしている姿を見て、胸が痛んでならなかったからです。
 その思いを込めつつ、中国の人々が感じている懸念を伝え、「ソ連は中国を攻めるつもりがあるのですか」と話を切り出すと、コスイギン首相は意を決したようにこう述べました。
 「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」と。
 私はこの重要なメッセージを携え、再び中国を訪問しましたが、核保有国の指導者が核の脅威にさらされている大勢の民衆や子どもたちの存在に思いをはせる大切さを、強く感じずにはいられませんでした。
 一方、ソ連と対立していたアメリカでも、シミュレーションによる軍事演習で大統領が衝撃を受けていた様子が、証言で浮き彫りにされています。
 ――レーガン大統領が82年に参加した演習では、スクリーン上に映し出されたアメリカの地図に、ソ連からの核攻撃で壊滅した都市が赤い点で示されるようになっていた。
 一分また一分と時間がたつごとに、その数は増え、「大統領がコーヒーを一口飲む前に、地図は赤い海へと変わっていった」。
 レーガン大統領はその壊滅的な結末にショックを受け、マグカップをただ握りしめるしかなかった――と(デイヴィッド・E・ホフマン著『死神の報復(上)』平賀秀明訳、白水社を引用・参照)。
 その体験を胸にとどめ、レーガン大統領はソ連との対話を模索し続ける中で、ゴルバチョフ書記長との首脳対談を果たし、INF全廃条約が実現をみたのであります。
21  核廃絶の前進を求める新たな「民衆行動の10年」
 シミュレーションでの仮想の地図では「赤い点」の増加だけで済むかもしれませんが、実際に核攻撃の応酬が始まってしまえば、どれだけ多くの尊い命が失われ、人間生活の営みが破壊されることになるのか。
 SGIがICANと協力して制作した「核兵器なき世界への連帯」展で浮き彫りにしようとしたのは、まさにその点でした。
 展示の冒頭では、「あなたにとって大切なものとは?」と問いかけます。
 一人一人の胸に浮かぶものは違っても、核兵器はその「大切なもの」を根こそぎ奪うものに他ならないという現実と真正面から向き合うことが、核時代に終止符を打つための連帯の礎になると信じるからです。
 核抑止政策がキューバ危機での双方の挑発のエスカレートをぎりぎりまで止められなかったように、“恐怖の均衡”はいつ何時、誤解や思い込みで破綻するかわからない、薄氷を踏むものでしかないことを、核保有国と核依存国の指導者は肝に銘じるべきです。
 2002年にインドとパキスタンの緊張が高まった時も、両国が踏みとどまった背景にはアメリカの外交努力がありました。
 仲裁に入ったアメリカのコリン・パウエル国務長官は、パキスタンの首脳に電話し、「あなたも私も核など使えないことはわかっているはずだ」と自重を促しました。
 その上で、「1945年8月の後、初めてこんな兵器を使う国になるつもりなのか。もう一度、広島、長崎の写真を見てはどうか」と話すと、パキスタン側は説得に応じました。
 また、インド側に働きかけた時も同様の反応が得られ、危機を回避することができたというのです(「朝日新聞」2013年7月10日付の記事を引用・参照)。
 以上、歴史の教訓をいくつか振り返ってきましたが、核戦争を防止する上で重要な楔となってきたのは、“恐怖の均衡”による抑止というよりはむしろ、まったく別の要素であったとはいえないでしょうか。
 一つは、敵対する国に対して門戸を閉ざさず、あらゆる角度から対話の道を探るなどコミュニケーション(意思疎通)の回路を確保しようとする努力であり、もう一つは、広島や長崎の惨劇を踏まえて多くの民衆の犠牲が生じることに思いをはせることにあったのではないかと、感じられてならないのです。
22  立場を超えて建設的な議論を
 本年4月から5月にかけてNPT再検討会議の準備委員会が行われ、核軍縮に関する国連ハイレベル会合が5月に開催されます。
 核兵器禁止条約の採択後、核保有国や核依存国も交えての初の討議の場となるものであり、「核兵器のない世界」に向けた建設的な議論が行われるよう、強く呼び掛けたい。
 その場を通して、2020年のNPT再検討会議に向けて各国が果たすことのできる核軍縮努力について方針を述べるとともに、核兵器禁止条約の7項目にわたる禁止内容について、実施が今後検討できる項目を表明することが望ましいと考えます。
 例えば、「移譲の禁止」や「新たな核保有につながる援助の禁止」は、NPTとの関連で核保有国の間でも同意できるはずです。
 また核依存国にとっても、「核兵器の使用と威嚇の禁止」や、そうした行動につながる「援助・奨励・勧誘の禁止」が、自国の安全保障政策にどう関係してくるのかを検討することは可能だと思います。
 国際法は、条約のような“ハード・ロー”と、国連総会の決議や国際的な宣言などの“ソフト・ロー”が積み重ねられ、補完し合う中で実効性を高めてきました。軍縮の分野でも、包括的核実験禁止条約(CTBT)において、条約に批准していない場合に個別に取り決めを設けて、国際監視制度に協力する道が開かれてきた事例があります。
 核兵器禁止条約においても、署名や批准の拡大を図る努力に加えて、こうした“ハード・ロー”と“ソフト・ロー”の組み合わせのように、署名や批准が当面困難な場合であっても、宣言や声明という形を通じて各国が実施できる項目からコミットメント(約束)を積み上げていくべきではないでしょうか。
 何より核兵器禁止条約は、NPTと無縁なところから生まれたものではありません。条約採択の勢いを加速させた核兵器の非人道性に対する認識は、2010年のNPT再検討会議で核保有国や核依存国を含む締約国の総意として示されていたものに他ならず、核兵器禁止条約は、NPT第6条が定めた核軍縮義務を具体化し、その誠実な履行を図っていく意義も有しているからです。
23  広島と長崎の被爆者の思い
 私が創立した戸田記念国際平和研究所では、昨年11月、協調的安全保障をテーマにした国際会議をロンドンで開催しました。
 会議では、停滞が続く核軍縮を前に進めるための課題を検討するとともに、NPTと核兵器禁止条約の二つの枠組みが補完し合う点について討議しました。
 また来月には東京で国際会議を行い、日本や韓国、アメリカや中国から専門家が参加し、北朝鮮情勢や北東アジアの平和と安全保障を巡って打開策を探ることになっています。
 核軍縮の停滞に加え、核兵器の近代化が進み、拡散防止の面でも深刻な課題を抱える今、「NPTの基盤強化」と「核兵器禁止条約による規範の明確化」という二つのアプローチの相乗効果で、核兵器による惨劇を絶対に起こさせない軌道を敷くべきではないでしょうか。
 その意味で、唯一の戦争被爆国である日本が、次回のNPT再検討会議に向けて核軍縮の機運を高める旗振り役になるとともに、ハイレベル会合を機に核依存国の先頭に立つ形で、核兵器禁止条約への参加を検討する意思表明を行うことを強く望むものです。
 先のパウエル氏の言葉に敷衍して言えば、“1945年8月の後、核兵器が使用されるかもしれない事態が生じた時、それを容認する国に連なることができるのか”という道義的責任から目を背けることは、被爆国として決してできないはずだからです。
 禁止条約の基底には、どの国も核攻撃の対象にしてはならず、どの国も核攻撃に踏み切らせてはならないとの、広島と長崎の被爆者の切なる思いが脈打っています。被爆者のサーロー節子さんも、「思い出したくない過去を語り続ける努力は、間違いでも無駄でもなかった」(「中国新聞」2017年11月25日付)との感慨を述べていました。
 日本は昨年、次回のNPT再検討会議に向けた第1回準備委員会で、「非人道性への認識は、核兵器のない世界に向けての全てのアプローチを下支えするもの」と強調しましたが、日本の足場は“同じ苦しみを誰にも味わわせてはならない”との被爆者の思いに置かねばならないと訴えたいのです。
24  平和・軍縮教育を市民社会で推進
 核兵器禁止条約に関し、もう一つ呼び掛けたいのは、市民社会の連帯を原動力に条約の普遍性を高めていくことです。
 核兵器禁止条約の意義は、一切の例外なく核兵器を禁止したことにありますが、その上で特筆すべきは、条約の実施を支える主体として国家や国際機関だけでなく、市民社会の参画を制度的に組み込んでいる点です。
 条約では、2年ごとの締約国会合や6年ごとに行う検討会合に、条約に加わっていない国などと併せて、NGO(非政府組織)にもオブザーバー参加を招請するよう規定されています。
 これは、世界のヒバクシャをはじめ、条約の採択に果たした市民社会の役割の大きさを踏まえたものですが、同時に、核兵器の禁止と廃絶は、すべての国々と国際機関と市民社会の参画が欠かせない“全地球的な共同作業”であることを示した証左といえましょう。
 また条約の前文では、平和・軍縮教育の重要性が強調されています。
 この点は、私どもSGIが、国連での交渉会議に提出した作業文書や、交渉会議における市民社会の意見表明の中で繰り返し訴えてきたものでもありました。
 核兵器の使用が引き起こす壊滅的な人道上の結末に関する知識が、世代から世代へと継承され、維持されるためには、平和・軍縮教育が不可欠であり、それが禁止条約の積極的な履行を各国に促す土台ともなると考えるからです。
 そこでSGIとして、核兵器禁止条約の早期発効と普遍化の促進を目指し、「核兵器廃絶への民衆行動の10年」の第2期を本年から新たに開始することを、ここに表明したい。
 昨年までSGIは、「核兵器廃絶への民衆行動の10年」のキャンペーンを進めてきました。
 これは、私が2006年8月に発表した国連提言での呼び掛けを踏まえ、戸田第2代会長の「原水爆禁止宣言」発表50周年を機に、2007年9月に開始したものです。
 ICANと協力して「平和への願いをこめて――広島・長崎女性たちの被爆体験」と題するDVD(5言語版)を制作し、証言映像で核兵器と戦争の悲惨さを訴えてきたほか、先に紹介した「核兵器なき世界への連帯」展を19カ国81都市で開催してきました。
 また、2010年のNPT再検討会議に寄せて核兵器禁止条約の制定を求める227万人の署名を提出したのに続き、2014年には核兵器廃絶のキャンペーンに協力し、512万人を超える署名を集めました。
 そのほか、多くの団体と連携して「核兵器廃絶のための世界青年サミット」を2015年に広島で開催するとともに、核兵器の人道的影響に関する国際会議や、国連での核兵器を巡る一連の討議と交渉会議に参加し、市民社会の声を届けてきたのであります。
 このような活動を通し、核兵器の非人道性を議論の中軸に据える後押しをしながら、核兵器禁止条約の交渉を求め、「核兵器のない世界」を求める多くの民衆の思いに立脚した、いかなる例外も認めない全面禁止を定めた条約の制定を訴え続けてきました。
25  「非核」の民意を世界地図で表す
 これまでの「民衆行動の10年」の最大の焦点は、核兵器禁止条約の制定にありました。
 本年から開始する「民衆行動の10年」の第2期では、平和・軍縮教育の推進にさらに力を入れながら、核兵器禁止条約の普遍化を促し、禁止条約を基盤に世界のあり方を大きく変えていくこと――具体的には、禁止条約を支持するグローバルな民衆の声を結集し、核兵器廃絶のプロセスを前に進めることを目指したいと思います。
 平和首長会議への加盟が162カ国・地域の7500以上の都市に達しているように、「核兵器のない世界」を求める声は、核保有国や核依存国の間でも広がっています。
 またICANの活動に賛同するNGOも、世界で468団体に及んでいます。
 私は、核兵器禁止条約の普遍性を高めるには、各国の条約参加の拡大を市民社会が後押しするとともに、グローバルな規模での市民社会の支持の広がりを目に見える形で示し続けることが、大きな意義を持つと考えます。
 2002年の第2回「高齢化世界会議」で打ち出され、昨年の国連の公開作業部会でも強調されたように、高齢者の人権を守る取り組みは、すべての年齢の人々を大切にし、いかなる差別も許さない人権文化の土壌を育むことにつながるものです。
 そこで私は、公開作業部会でも議論された「高齢者人権条約」の制定に向けて交渉を早期に開始することを強く訴えたい。そして、世界で最も高齢化率が高い日本で、第3回「高齢化世界会議」を開催することを提唱したいと思います。
 第2回の世界会議で合意された政治宣言と行動計画では、高齢者の経験は思いやりのある社会を築くための財産であり、高齢者は地域での日常的な役割だけでなく、災害などの緊急事態からの復興と再建で積極的な貢献を果たせることが強調されていました。
 そのことは、東日本大震災からの復興に取り組む日本でも実感されてきた点であり、国連の会議で3年前に採択された「仙台防災枠組」では、社会の防災力を高めるために高齢者の参加が欠かせないことが明記されたところです。
 「高齢者人権条約」の制定にあたっては、国連原則に基づく権利保護を確立するとともに、「エイジング・イン・プレイス」と呼ばれる“高齢者が住み慣れた地域で、生きがいと尊厳をもって生き続けられるために何が必要か”との点に立脚した規定を盛り込むべきではないでしょうか。
26  「多宝」の名称に込められた思い
 私どもSGIでも、信仰に基づく活動の根幹として「体験談運動」を通し、さまざまな困難や課題を乗り越えた人生の物語を共有する場を積極的に設けてきました。
 体験の重みに裏付けられた、その人でなければ語ることのできない言葉によって、多くの高齢者が、後に続く世代の人たちの心に勇気と希望を灯し続けてきたのです。
 私が創価学会の高齢者のグループに「多宝会」という名前を贈ったのは、「高齢者のための国連原則」が採択される3年前(1988年)のことでした。
 「多宝」の名称は、釈尊が説いた“万人の尊厳”の思想が真実であることを証明する存在として、法華経に登場する多宝如来に由来するものです。法華経では、世界の宝を集めたような宝塔が出現する場面がありますが、その中から現れるのが多宝如来なのです。
 私は、そうした意義を込め、信仰と人生の年輪を重ねてきた大切な同志のグループに、「多宝会」の名前を贈りました。
 以来、多宝会のほかに宝寿会や錦宝会が結成され、ドイツでは「ゴールデナー・ヘルプスト」(錦秋会)、オーストラリアでは「ダイヤモンドグループ」などのグループがありますが、高齢者の同志は信仰の面でも社会的な面でも“宝”の存在となっているのです。
 人間が生きる上で避けて通れない「生老病死」の悩みを乗り越えてきた信仰の息吹を語ってきたのも、戦争体験や被爆証言などを通してSGIの「平和運動の精神の継承」でかけがえのない役割を担ってきたのも、地域の歴史や人々のつながりを深く知り、「災害からの復興」において励まし合いの輪を支えてきたのも、高齢者の同志でした。
 今後もSGIとして体験談運動をはじめ、戦争と災害の教訓を語り継ぐ活動に力を入れるとともに、他のFBO(信仰を基盤にした団体)と協力してシンポジウムなどを開催しながら、高齢者の人権と尊厳を守る社会の潮流を高めていきたいと思います。
27  多くの都市がパリ協定を支援
 最後に第三のテーマとして、国連のSDGs(持続可能な開発目標)の取り組みを加速させるための提案をしたい。
 SDGsでは、貧困や飢餓や教育をはじめ17分野にわたる目標が掲げられていますが、この中で近年、国際協力の枠組みづくりが進んできたのは、気候変動の分野です。
 昨年11月、地球温暖化を防止するためのパリ協定に、唯一の未参加国だったシリアが批准しました。
 脱退の意向を示しているアメリカの今後の動向が課題として残るものの、世界のすべての国が温室効果ガスの削減に共同して取り組む体制が整ったのです。
 近年、異常気象が各地で相次いでいますが、その脅威と無縁であり続けることができる場所は、地球上のどこにもありません。
 干ばつと洪水による被害や海面上昇の影響などで住み慣れた場所を追われる「気候変動難民」の数も増加しています。
 温暖化に歯止めがかからなければ、最悪の場合、2050年までに10億人が移住を強いられるとの予測もあります。
 パリ協定は、そうした深刻な脅威から多くの人々の生活と尊厳を守る命綱となるだけでなく、将来の世代のために持続可能な社会を築く土台となるものです。
 発効から4年以内(2020年11月まで)は、どの国も脱退できない仕組みとなっており、アメリカがこのままパリ協定の枠組みにとどまって、各国と共に目標の達成に向けて行動することが強く望まれます。
 温暖化の防止はもとより難題ですが、私が大きな希望を感じるのは、各国の自治体の間で意欲的な動きが広がっていることです。
 例えば、全米市長会議は「各都市の調達電力を2035年までに全て再生可能エネルギーにする」との決議を行っています。
 また、フランスのパリで2030年以降に市内を走行できる自動車を電気自動車に限定する計画があるほか、スウェーデンのストックホルムは2040年までの化石燃料の使用廃止を目指しています。
 昨年6月には、世界の140に及ぶ大都市の市長が集まった総会で、国際的な政治状況に左右されることなく、都市がパリ協定の実施に率先して取り組むことを約束するモントリオール宣言が発表されました。
 このように、共通のリスクでありながらも、国益がぶつかり合う課題において、多くの自治体が“パリ協定を後押しすることは、自分たちの住む地域を守ることにつながる”との意識を持って、積極的な行動に踏み出しているのです。
 自治体同士の経験を共有しようとする動きも始まっており、ヨーロッパでは、ドイツの主導で気候保全をテーマにした都市交流が進められることになりました。
 温室効果ガスの排出量が多い北東アジアでも、同様の連携を強めることが急務ではないでしょうか。そこで私は、合計で世界の排出量の約3割を占める日本と中国が連携し、「気候保全のための日中環境自治体ネットワーク」の形成を目指すことを提唱したい。
 日本では、環境未来都市と環境モデル都市に指定された自治体を中心に、温暖化防止の対策が積極的に行われてきました。中国でも、太陽光発電の導入量が世界一になるなど、多くの地域で再生可能エネルギーの導入が進んでいます。
 ネットワークづくりにあたっては、まず手始めに、国連が3年前に立ち上げた気候中立のイニシアチブ=注5=に、温暖化防止に意欲的に取り組んできた日本と中国の自治体が登録していく方法もあると思います。
 すでに東京都と北京市、神戸市と天津市、北九州市と大連市といったように、環境分野での自治体提携の実績もあります。そうした自治体同士の経験の共有や技術協力などを日中両国で積み重ねる中で、自治体協力の輪を他の北東アジア諸国の間にも広げていってはどうでしょうか。
28  大学の提携や青年交流が拡大
 今や両国の人的往来は年間で約900万人に達し、自治体の姉妹提携の数も363にのぼります。
 私が日中国交正常化の提言をしたのは50年前(1968年9月)でしたが、当時は貿易の継続さえ危ぶまれたほどの険悪な状態で、日中友好を口にするだけでも厳しい批判にさらされただけに隔世の感があります。
 1万数千人の学生たちが集まった総会で、私は呼び掛けました。
 「国交正常化のためには、それに付随して解決されなければならない問題がたくさんある」「これらは、いずれも複雑で困難な問題であり、日中両国の相互理解と深い信頼、また、何よりも、平和への共通の願望なくしては解決できない問題である」
 「国家、民族は、国際社会のなかで、かつてのように利益のみを追求する集団であってはならない。広く国際的視野に立って、平和のため、繁栄のため、文化の発展・進歩のために、進んで貢献していってこそ、新しい世紀の価値ある民族といえるのである」と。
 この50年間で、日本にとって中国は最大の貿易国となり、中国にとっても日本はアメリカに次ぐ2番目の貿易国となりました。
 日本の大学の間で最大の提携先となっているのも、中国の大学です。
 私が創立した創価大学は、国交正常化後の1975年に、中国からの国費留学生を初めて受け入れた日本の大学となりましたが、現在では、両国の大学の交流協定は4400を超えるまで拡大しています。
 日中平和友好条約の締結の翌年(79年)からは青年親善交流事業が始まり、若い世代が友好を深める機会が設けられてきました。
 創価学会でも、79年に青年部の訪中団を派遣して以来、青年同士の往来が続いており、85年には中華全国青年連合会(全青連)と議定書を結んで交流を定期的に行う中、昨年も11月に青年部の交流団が訪中して友誼の絆を強め合ったところであります。
 このように両国の交流は大きく広がり、多くの分野で協力が進んできました。
 今年で日中平和友好条約の締結40周年を迎えます。
 その佳節を機に、これまで積み上げてきた“両国の関係を深めるための協力”を基盤としながら、「地球益」や「人類益」のための行動の連帯を図る挑戦を、大きく前に進めるべきではないでしょうか。
 温暖化防止と持続可能な都市づくりは、いずれもSDGsの重点課題であり、若い世代の情熱と創造力を最大の原動力としながら、北東アジアをはじめ、世界全体のモデルとなる事例を共に積み上げていくことを、強く呼び掛けたい。
29  ジェンダー平等が問題解決に不可欠
 結びに、SDGsの推進のために言及しておきたいのは、ジェンダー平等と女性のエンパワーメント(内発的な力の開花)に関する提案です。
 このテーマは、SDGsの目標の一つというだけでなく、他のすべての目標を大きく前進させる上で欠かせない“SDGsの基軸”となるものです。
 国連でこの課題に取り組むUNウィメンのムランボ=ヌクカ事務局長は、昨年10月、国連安全保障理事会での「女性と平和・安全保障」を巡る討論で、次のように強調していました。
 「『女性と平和・安全保障』という議題は、グローバルな政策決定においてその足跡を広げ続けており、今や、地球的な問題を語る上で不可欠な柱となっています」
 事実、核兵器禁止条約の前文でも、ジェンダー平等が持続可能な平和にとって不可欠の要素であるとし、核軍縮に女性が関与することの支援と強化が呼び掛けられました。
 2000年に国連の安保理で採択された「1325号決議」を機に、紛争解決と平和構築のプロセスへの女性の参加拡大が図られてきましたが、各国の安全保障政策の転換につながる軍縮の分野でも、その重要性が明記されたのです。
 こうした問題意識の広がりは、平和の分野だけにとどまりません。
 例えば、2015年に合意された「仙台防災枠組」では、女性のエンパワーメントに日頃から取り組むことが、災害に対する社会のレジリエンス(困難を乗り越える力)の強化につながると指摘されています。
 また、昨年11月にドイツで行われた気候変動枠組条約締約国会議で「ジェンダー行動計画」がまとめられたように、温暖化防止の面でも女性の役割が鍵を握ることが、国際社会の共通認識になっているのです。
 そこで私は、こうした時代変革の波動をあらゆる分野で広げていくために、「女性のエンパワーメントの国際10年」を国連で制定することを提唱したい。
 具体的には、安保理の「1325号決議」採択20周年を迎える2020年から国際10年をスタートし、SDGsの達成期限である2030年に向けて、女性のエンパワーメントの推進とともに、SDGsのすべての目標の底上げを期すべきではないでしょうか。
 女性のエンパワーメントは“可能であれば考慮する”といったオプション的なものであってはならず、課題に直面する人々が切実に必要としているものに他なりません。
 UNウィメンがヨルダンの難民キャンプで実施した支援で、衣類の仕立ての仕事を始めたシリア難民の女性はこう述べています。
 「無力感を感じることが少なくなりました。仕事をすることで、自分たちに価値を見出し、エンパワーされると感じます」(UNWomen日本事務所のウェブサイト)
 また、タンザニアの難民キャンプに逃れたブルンジの女性は、「何もすることがないキャンプでは、先の見えない将来への不安で頭がいっぱいになります」と沈んでいたものの、起業トレーニングへの参加をきっかけに気持ちが上向きになりました。いつかブルンジに戻り、得意のパン作りの技術で生計を立て、子どもたちを再び学校に送りたいとの夢を語るまでになったのです(UNHCR駐日事務所のウェブサイト)。
 このように女性のエンパワーメントは、どれだけ厳しい状況に置かれていても、「生きる希望」を取り戻しながら前に進むための原動力となるものです。
30  誰も置き去りにしない世界を!
 私どもSGIも、“万人の尊厳”を掲げる仏法の思想に基づき、女性のエンパワーメントの裾野を広げる活動を続けてきました。
 国連の「女性の地位委員会」の取り組みを市民社会の側から支援し、国連本部での会合に代表が参加するとともに、2011年からは、他団体と協力して会合の並行行事を継続的に開催しています。
 また、国連人権理事会の会期に合わせて、女性の権利を守るための信仰と文化の役割や、男女平等のためのノンフォーマル教育をテーマにした関連行事を行ってきました。
 昨年3月の「女性の地位委員会」では、ジェンダー平等と宗教に関する世界的なプラットフォームが立ち上げられました。
 その目的は、それぞれの信仰に基づく言説を展開する中で、女性の人権や貢献に対する社会の認識を改善する流れをつくり出し、地域をはじめ、国や国際レベルでのジェンダー平等に関する政策や法律の整備などの規範づくりに影響を与えていくことにあります。
 SGIとしても、このプラットフォームの活動に積極的に参加し、他のFBOと力を合わせながら、困難に直面する女性たちの生きる力の源となり、地球的な課題の解決を前に進めるためのアリアドネの糸=注6=を、共に紡ぎ出していきたい。
 そして、市民社会の声を結集し、「女性のエンパワーメントの国際10年」の制定に向けた機運を高めていきたいと思います。
 SDGsが掲げる「誰も置き去りにしない」とのビジョンは、世界の半分を占める女性たちの人権を守り、希望と尊厳をもって生きられる社会を築く挑戦の中で、力強く躍動していくに違いありません。
 この2030年に向けた挑戦を展望する時、かつてローザ・パークスさんが、心の支えにしてきたものとして紹介してくださった言葉が思い浮かんできます。
 「“人間は苦しみに甘んじなければならない”という法律はないんだよ」との、パークスさんの母君の言葉です。
 パークスさんの母君も差別と戦い続けた女性でしたが、この切実な思いこそ、ジェンダー平等を基軸にSDGsの取り組みを前進させるために、あらゆる差異を超えて皆で共有すべき精神ではないでしょうか。
 今後もSGIは、一人一人の生命と尊厳を守ることを基盤に、地球的な課題を乗り越えるための民衆の連帯を大河のように広げていきたいと思います。
31  女性のエンパワーメントで「持続可能な開発目標」を促進
 2002年の第2回「高齢化世界会議」で打ち出され、昨年の国連の公開作業部会でも強調されたように、高齢者の人権を守る取り組みは、すべての年齢の人々を大切にし、いかなる差別も許さない人権文化の土壌を育むことにつながるものです。
 そこで私は、公開作業部会でも議論された「高齢者人権条約」の制定に向けて交渉を早期に開始することを強く訴えたい。そして、世界で最も高齢化率が高い日本で、第3回「高齢化世界会議」を開催することを提唱したいと思います。
 第2回の世界会議で合意された政治宣言と行動計画では、高齢者の経験は思いやりのある社会を築くための財産であり、高齢者は地域での日常的な役割だけでなく、災害などの緊急事態からの復興と再建で積極的な貢献を果たせることが強調されていました。
 そのことは、東日本大震災からの復興に取り組む日本でも実感されてきた点であり、国連の会議で3年前に採択された「仙台防災枠組」では、社会の防災力を高めるために高齢者の参加が欠かせないことが明記されたところです。
 「高齢者人権条約」の制定にあたっては、国連原則に基づく権利保護を確立するとともに、「エイジング・イン・プレイス」と呼ばれる“高齢者が住み慣れた地域で、生きがいと尊厳をもって生き続けられるために何が必要か”との点に立脚した規定を盛り込むべきではないでしょうか。
32  「多宝」の名称に込められた思い
 私どもSGIでも、信仰に基づく活動の根幹として「体験談運動」を通し、さまざまな困難や課題を乗り越えた人生の物語を共有する場を積極的に設けてきました。
 体験の重みに裏付けられた、その人でなければ語ることのできない言葉によって、多くの高齢者が、後に続く世代の人たちの心に勇気と希望を灯し続けてきたのです。
 私が創価学会の高齢者のグループに「多宝会」という名前を贈ったのは、「高齢者のための国連原則」が採択される3年前(1988年)のことでした。
 「多宝」の名称は、釈尊が説いた“万人の尊厳”の思想が真実であることを証明する存在として、法華経に登場する多宝如来に由来するものです。法華経では、世界の宝を集めたような宝塔が出現する場面がありますが、その中から現れるのが多宝如来なのです。
 私は、そうした意義を込め、信仰と人生の年輪を重ねてきた大切な同志のグループに、「多宝会」の名前を贈りました。
 以来、多宝会のほかに宝寿会や錦宝会が結成され、ドイツでは「ゴールデナー・ヘルプスト」(錦秋会)、オーストラリアでは「ダイヤモンドグループ」などのグループがありますが、高齢者の同志は信仰の面でも社会的な面でも“宝”の存在となっているのです。
 人間が生きる上で避けて通れない「生老病死」の悩みを乗り越えてきた信仰の息吹を語ってきたのも、戦争体験や被爆証言などを通してSGIの「平和運動の精神の継承」でかけがえのない役割を担ってきたのも、地域の歴史や人々のつながりを深く知り、「災害からの復興」において励まし合いの輪を支えてきたのも、高齢者の同志でした。
 今後もSGIとして体験談運動をはじめ、戦争と災害の教訓を語り継ぐ活動に力を入れるとともに、他のFBO(信仰を基盤にした団体)と協力してシンポジウムなどを開催しながら、高齢者の人権と尊厳を守る社会の潮流を高めていきたいと思います。
33  多くの都市がパリ協定を支援
 最後に第三のテーマとして、国連のSDGs(持続可能な開発目標)の取り組みを加速させるための提案をしたい。
 SDGsでは、貧困や飢餓や教育をはじめ17分野にわたる目標が掲げられていますが、この中で近年、国際協力の枠組みづくりが進んできたのは、気候変動の分野です。
 昨年11月、地球温暖化を防止するためのパリ協定に、唯一の未参加国だったシリアが批准しました。
 脱退の意向を示しているアメリカの今後の動向が課題として残るものの、世界のすべての国が温室効果ガスの削減に共同して取り組む体制が整ったのです。
 近年、異常気象が各地で相次いでいますが、その脅威と無縁であり続けることができる場所は、地球上のどこにもありません。
 干ばつと洪水による被害や海面上昇の影響などで住み慣れた場所を追われる「気候変動難民」の数も増加しています。
 温暖化に歯止めがかからなければ、最悪の場合、2050年までに10億人が移住を強いられるとの予測もあります。
 パリ協定は、そうした深刻な脅威から多くの人々の生活と尊厳を守る命綱となるだけでなく、将来の世代のために持続可能な社会を築く土台となるものです。
 発効から4年以内(2020年11月まで)は、どの国も脱退できない仕組みとなっており、アメリカがこのままパリ協定の枠組みにとどまって、各国と共に目標の達成に向けて行動することが強く望まれます。
 温暖化の防止はもとより難題ですが、私が大きな希望を感じるのは、各国の自治体の間で意欲的な動きが広がっていることです。
 例えば、全米市長会議は「各都市の調達電力を2035年までに全て再生可能エネルギーにする」との決議を行っています。
 また、フランスのパリで2030年以降に市内を走行できる自動車を電気自動車に限定する計画があるほか、スウェーデンのストックホルムは2040年までの化石燃料の使用廃止を目指しています。
 昨年6月には、世界の140に及ぶ大都市の市長が集まった総会で、国際的な政治状況に左右されることなく、都市がパリ協定の実施に率先して取り組むことを約束するモントリオール宣言が発表されました。
 このように、共通のリスクでありながらも、国益がぶつかり合う課題において、多くの自治体が“パリ協定を後押しすることは、自分たちの住む地域を守ることにつながる”との意識を持って、積極的な行動に踏み出しているのです。
 自治体同士の経験を共有しようとする動きも始まっており、ヨーロッパでは、ドイツの主導で気候保全をテーマにした都市交流が進められることになりました。
 温室効果ガスの排出量が多い北東アジアでも、同様の連携を強めることが急務ではないでしょうか。そこで私は、合計で世界の排出量の約3割を占める日本と中国が連携し、「気候保全のための日中環境自治体ネットワーク」の形成を目指すことを提唱したい。
 日本では、環境未来都市と環境モデル都市に指定された自治体を中心に、温暖化防止の対策が積極的に行われてきました。中国でも、太陽光発電の導入量が世界一になるなど、多くの地域で再生可能エネルギーの導入が進んでいます。
 ネットワークづくりにあたっては、まず手始めに、国連が3年前に立ち上げた気候中立のイニシアチブ=注5=に、温暖化防止に意欲的に取り組んできた日本と中国の自治体が登録していく方法もあると思います。
 すでに東京都と北京市、神戸市と天津市、北九州市と大連市といったように、環境分野での自治体提携の実績もあります。そうした自治体同士の経験の共有や技術協力などを日中両国で積み重ねる中で、自治体協力の輪を他の北東アジア諸国の間にも広げていってはどうでしょうか。
34  大学の提携や青年交流が拡大
 今や両国の人的往来は年間で約900万人に達し、自治体の姉妹提携の数も363にのぼります。
 私が日中国交正常化の提言をしたのは50年前(1968年9月)でしたが、当時は貿易の継続さえ危ぶまれたほどの険悪な状態で、日中友好を口にするだけでも厳しい批判にさらされただけに隔世の感があります。
 1万数千人の学生たちが集まった総会で、私は呼び掛けました。
 「国交正常化のためには、それに付随して解決されなければならない問題がたくさんある」「これらは、いずれも複雑で困難な問題であり、日中両国の相互理解と深い信頼、また、何よりも、平和への共通の願望なくしては解決できない問題である」
 「国家、民族は、国際社会のなかで、かつてのように利益のみを追求する集団であってはならない。広く国際的視野に立って、平和のため、繁栄のため、文化の発展・進歩のために、進んで貢献していってこそ、新しい世紀の価値ある民族といえるのである」と。
 この50年間で、日本にとって中国は最大の貿易国となり、中国にとっても日本はアメリカに次ぐ2番目の貿易国となりました。
 日本の大学の間で最大の提携先となっているのも、中国の大学です。
 私が創立した創価大学は、国交正常化後の1975年に、中国からの国費留学生を初めて受け入れた日本の大学となりましたが、現在では、両国の大学の交流協定は4400を超えるまで拡大しています。
 日中平和友好条約の締結の翌年(79年)からは青年親善交流事業が始まり、若い世代が友好を深める機会が設けられてきました。
 創価学会でも、79年に青年部の訪中団を派遣して以来、青年同士の往来が続いており、85年には中華全国青年連合会(全青連)と議定書を結んで交流を定期的に行う中、昨年も11月に青年部の交流団が訪中して友誼の絆を強め合ったところであります。
 このように両国の交流は大きく広がり、多くの分野で協力が進んできました。
 今年で日中平和友好条約の締結40周年を迎えます。
 その佳節を機に、これまで積み上げてきた“両国の関係を深めるための協力”を基盤としながら、「地球益」や「人類益」のための行動の連帯を図る挑戦を、大きく前に進めるべきではないでしょうか。
 温暖化防止と持続可能な都市づくりは、いずれもSDGsの重点課題であり、若い世代の情熱と創造力を最大の原動力としながら、北東アジアをはじめ、世界全体のモデルとなる事例を共に積み上げていくことを、強く呼び掛けたい。
35  ジェンダー平等が問題解決に不可欠
 結びに、SDGsの推進のために言及しておきたいのは、ジェンダー平等と女性のエンパワーメント(内発的な力の開花)に関する提案です。
 このテーマは、SDGsの目標の一つというだけでなく、他のすべての目標を大きく前進させる上で欠かせない“SDGsの基軸”となるものです。
 国連でこの課題に取り組むUNウィメンのムランボ=ヌクカ事務局長は、昨年10月、国連安全保障理事会での「女性と平和・安全保障」を巡る討論で、次のように強調していました。
 「『女性と平和・安全保障』という議題は、グローバルな政策決定においてその足跡を広げ続けており、今や、地球的な問題を語る上で不可欠な柱となっています」
 事実、核兵器禁止条約の前文でも、ジェンダー平等が持続可能な平和にとって不可欠の要素であるとし、核軍縮に女性が関与することの支援と強化が呼び掛けられました。
 2000年に国連の安保理で採択された「1325号決議」を機に、紛争解決と平和構築のプロセスへの女性の参加拡大が図られてきましたが、各国の安全保障政策の転換につながる軍縮の分野でも、その重要性が明記されたのです。
 こうした問題意識の広がりは、平和の分野だけにとどまりません。
 例えば、2015年に合意された「仙台防災枠組」では、女性のエンパワーメントに日頃から取り組むことが、災害に対する社会のレジリエンス(困難を乗り越える力)の強化につながると指摘されています。
 また、昨年11月にドイツで行われた気候変動枠組条約締約国会議で「ジェンダー行動計画」がまとめられたように、温暖化防止の面でも女性の役割が鍵を握ることが、国際社会の共通認識になっているのです。
 そこで私は、こうした時代変革の波動をあらゆる分野で広げていくために、「女性のエンパワーメントの国際10年」を国連で制定することを提唱したい。
 具体的には、安保理の「1325号決議」採択20周年を迎える2020年から国際10年をスタートし、SDGsの達成期限である2030年に向けて、女性のエンパワーメントの推進とともに、SDGsのすべての目標の底上げを期すべきではないでしょうか。
 女性のエンパワーメントは“可能であれば考慮する”といったオプション的なものであってはならず、課題に直面する人々が切実に必要としているものに他なりません。
 UNウィメンがヨルダンの難民キャンプで実施した支援で、衣類の仕立ての仕事を始めたシリア難民の女性はこう述べています。
 「無力感を感じることが少なくなりました。仕事をすることで、自分たちに価値を見出し、エンパワーされると感じます」(UNWomen日本事務所のウェブサイト)
 また、タンザニアの難民キャンプに逃れたブルンジの女性は、「何もすることがないキャンプでは、先の見えない将来への不安で頭がいっぱいになります」と沈んでいたものの、起業トレーニングへの参加をきっかけに気持ちが上向きになりました。いつかブルンジに戻り、得意のパン作りの技術で生計を立て、子どもたちを再び学校に送りたいとの夢を語るまでになったのです(UNHCR駐日事務所のウェブサイト)。
 このように女性のエンパワーメントは、どれだけ厳しい状況に置かれていても、「生きる希望」を取り戻しながら前に進むための原動力となるものです。
36  誰も置き去りにしない世界を!
 私どもSGIも、“万人の尊厳”を掲げる仏法の思想に基づき、女性のエンパワーメントの裾野を広げる活動を続けてきました。
 国連の「女性の地位委員会」の取り組みを市民社会の側から支援し、国連本部での会合に代表が参加するとともに、2011年からは、他団体と協力して会合の並行行事を継続的に開催しています。
 また、国連人権理事会の会期に合わせて、女性の権利を守るための信仰と文化の役割や、男女平等のためのノンフォーマル教育をテーマにした関連行事を行ってきました。
 昨年3月の「女性の地位委員会」では、ジェンダー平等と宗教に関する世界的なプラットフォームが立ち上げられました。
 その目的は、それぞれの信仰に基づく言説を展開する中で、女性の人権や貢献に対する社会の認識を改善する流れをつくり出し、地域をはじめ、国や国際レベルでのジェンダー平等に関する政策や法律の整備などの規範づくりに影響を与えていくことにあります。
 SGIとしても、このプラットフォームの活動に積極的に参加し、他のFBOと力を合わせながら、困難に直面する女性たちの生きる力の源となり、地球的な課題の解決を前に進めるためのアリアドネの糸=注6=を、共に紡ぎ出していきたい。
 そして、市民社会の声を結集し、「女性のエンパワーメントの国際10年」の制定に向けた機運を高めていきたいと思います。
 SDGsが掲げる「誰も置き去りにしない」とのビジョンは、世界の半分を占める女性たちの人権を守り、希望と尊厳をもって生きられる社会を築く挑戦の中で、力強く躍動していくに違いありません。
 この2030年に向けた挑戦を展望する時、かつてローザ・パークスさんが、心の支えにしてきたものとして紹介してくださった言葉が思い浮かんできます。
 「“人間は苦しみに甘んじなければならない”という法律はないんだよ」との、パークスさんの母君の言葉です。
 パークスさんの母君も差別と戦い続けた女性でしたが、この切実な思いこそ、ジェンダー平等を基軸にSDGsの取り組みを前進させるために、あらゆる差異を超えて皆で共有すべき精神ではないでしょうか。
 今後もSGIは、一人一人の生命と尊厳を守ることを基盤に、地球的な課題を乗り越えるための民衆の連帯を大河のように広げていきたいと思います。
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