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日蓮大聖人・池田大作

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第36回「SGIの日」記念提言 「轟け! 創造的生命の凱歌」

2011.1.26 「SGIの日」記念提言(池田大作全集未収録分)

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1  広がる「無縁社会」
 さて昨年は、高齢社会を迎えている現代の日本を象徴するようなショッキングな“事件”が、世の中を震撼させました。いわゆる「消えた高齢者」=注1=といわれるもので、東京・足立区の111歳の男性の事例を皮切りに、調査を進めていくと、本来祝福されるはずの数多くの100歳以上の人々が、行方不明になっている事実が次々に判明。
 公的記録上は生存しているにもかかわらず、生死や所在地が分からないといった状況は、それらの人々の年金を遺族が長年にわたって不正受給していた事例もあり、長寿社会・日本の思わぬ落とし穴として、人々に衝撃を与えました。
 人間関係の砂漠化というか液状化というか、「無縁社会」などと評されるように、ともかく凍り付くような、寒々とした心象風景であります。仏教の“縁起論”が教えているように、なべて人間同士のあるいは人間と環境とのいわば“結縁”から成り立っている我々の日常生活の仕組みの脆弱さを痛感させる、文字通りの“事件”でした。家族や地域とのつながりが薄くなり、社会での孤立感が深まる中で、先行きを悲観視する若い世代や中高年も決して少なくありません。
 「無縁」とは「コミュニケーション不全」ということでもあります。「無縁社会」とは、コミュニケーションの最強、最良の武器であった言葉が、十全にはたらかず、機能不全に陥った社会にほかなりません。その背景には、厳しい経済状況や核家族化など多くの問題が潜んでいますが、そこに、情報化社会の急速な進展があることは否定できない。いわゆる情報化の負の側面──情報量の増大とは裏腹の言葉の空洞化、本来の重みや深みを失い浮遊する符丁のような軽量化、そこから必然的にもたらされる、人間を人間たらしむる対話力の衰退であります。
 哲学者のアルベール・ジャカールは、情報科学の意義を過不足なく評価した上で、情報科学がもたらすのは「急速冷凍したコミュニケーションでしかありません。沈黙と言葉からなる真の対話においては、創造性のある驚きが自然に生まれます。しかし、情報科学によってそれを引き起こすことは不可能」(吉沢弘之訳『世界を知るためのささやかな哲学』徳間書店)と。「急速冷凍」とは、言い得て妙であります。
 もちろん、情報科学の発達が一面で、人間同士の新しいつながりの輪を広げる可能性を持っていることは事実です。
 しかし、その情報科学を介したつながりが“匿名性”“非人称性”を特徴とするものと化せば、そこには“顔”がなくなってしまう。無機質かつニュートラルで、顔と顔、魂と魂との触発作業からのみ生まれる新鮮な驚き、肉感を伴う手応えや充足感とは縁遠い世界であります。
2  こうした時流にあって、特筆しておきたいことは、私どもSGIが世界的に展開している仏法対話、特に座談会運動の有する精神史における意義付けです。
 私どもが日々、何千カ所、何万カ所、否、何十万カ所で行っている“顔”を突き合わせての、双方向の語らい──それは、まさしく「沈黙と言葉からなる真の対話」であります。
 言葉が相手の心に届いた時の喜び、充足感。届かなかった時の戸惑い、もどかしさ、そして沈黙。沈黙の中で、懸命に新たな言葉を探す忍耐と苦闘。探し当てた言葉がようやく相手に届いた時のさらなる充足感──こうした倦むことなき対話の織りなすグラデーション(徐々に変化すること)こそ、心を鍛え魂を磨きあげていく「溶鉱炉」なのであります。「急速冷凍」とは対極に位置する醸成、錬成の場なのであります。
 そうした「言葉の海」「対話の海」の中でのみ、人間は人間に成ることができる。逆に言えば、ソクラテスが「言論嫌い」(ミソロゴス)は「人間嫌い」(ミサントローポス)に通ずるとしたように、そこを避けていては、真の人間へと成熟していくことはできない。だからこそジョン・デューイ協会のラリー・ヒックマン元会長は、私とのてい談で、人々が集い語るSGIの拠点を「地域社会の絆を深める施設」であり、成熟した市民でデューイが言うところの「公衆」を生みだす母体と位置付けておられるのであります(「人間教育への新しき潮流」、『灯台』2010年11月号所収)。
 地道で目立たなくても、否それ故に、私どもの対話運動は、そうした空洞化した言葉を蘇らせる文明史的意義を孕んでいることを誇りとしていきたい。
 言葉の軽量化をどう乗り越えるか
 言葉の空洞化、軽量化といえば、昨年“ハーバード白熱教室”なるものが、話題を呼びました。
 いうまでもなく、ハーバード大学といえば、アメリカ最高峰の学府の一つですが、そこでマイケル・サンデル教授の政治哲学の講義が人気を集め、史上最多の聴講者を記録し続けているという。講義といっても一方的なものではなく、身近な話題を取り上げ、教授が音頭をとって学生たちの意見を募りながら、つまり双方向の言葉のやりとりを通して、問題の正否を吟味していく──。まさにソクラテス的対話を彷彿させるもので、日本でも評判になり、テレビや紙誌が何回となく取り上げ、サンデル教授も来日して、日本版「白熱教室」なども試みられた。また著書(『これからの「正義」の話をしよう』)は、この種の本としては、異例のベストセラーを続けているという。
 こうした話題に接するにつけ、私は感慨を新たにします。
 というのも昨年の提言でも、ユゴーの『レ・ミゼラブル』の冒頭、ミリエル司教と老ジャコビニスト(過激な革命主義者)が、正反対の立場から「正義」を巡って火の出るような論争をしているシーンに触れました。それを通して私は、古来“正義とは何か”ということが難問中の難問であることを訴えました。
 すなわち、こうした難問は安易に、軽々に取り扱ってはならず、もしその点をなおざりにすると、正義と正義がぶつかり合い、至る所でハレーションを起こして正義という言葉の空洞化、軽量化、インフレ現象を招き寄せてしまう。20世紀が戦争と革命による殺戮の時代であった大きな要因は、この正義のインフレ現象にあったのではないか。「白熱教室」のような試みがブームを呼ぶ背景には、そうしたことへの自省、自戒が、強くはたらいているといえないでしょうか。
3  何のため生きるか
 ここで、若き日に愛読したアンリ・ベルクソンの哲学を援用しながら、我々の標榜している人間主義というものの輪郭を、もう一歩明らかにしてみたい。
 けだしベルクソンほど言葉のインフレ現象、軽さ、換言すれば言語の虚構性を鋭く抉り、哲学者のウラジミール・ジャンケレヴィッチが名著『アンリ・ベルクソン』(阿部一智・桑田禮彰訳、新評論)で「頭で歩いていた哲学を本来の姿にもどした」と的確に評したように、ロゴス(言葉や論理)中心主義を主流にしてきた西洋哲学の偏向に、先駆的かつ包括的な警鐘を鳴らしていた人も稀でしょう。そして、そのスタンスをもたらしたのは、ベルクソン哲学では「人間のための哲学」という軸足が決してぶれることはなかったためであると、私は信じております。
 ベルクソンといえば、悩み多き19歳の夏、友人から恩師(戸田城聖第2代会長)との運命的な出会いとなる会合に誘われた際、生命の哲学に関するものだと聞き、とっさに「ベルクソンですか」と問うたのも、懐かしい思い出です。
 ベルクソンは、まず哲学する上で手放してはならない言葉として、生物学の「生きることが第一」(河野与一訳『思想と動くもの』岩波書店)をあげ、自らの哲学のモチベーション(動機づけ)をこう語っています。「私たち人間はどこからやってきたのでしょうか。私たち人間とは何なのでしょうか。私たち人間はどこへゆくのでしょうか。これらの問題こそまさに根本的な問題であります。もし、私たちがもろもろの哲学体系にたよらないで哲学をするならば、たちどころにこれらの問題に直面するはずであります」(池辺義教訳「意識と生命」、『ベルクソン』中央公論社所収)と。
 このモチベーションは、人間が善く生きようとする限り、誰もが、いつかは、どこかで直面せざるを得ない万人が共有する原初の問いかけであります。ところが「もろもろの哲学体系」は、枝葉末節にこだわるあまり、ややもすると根幹であるこの原初の問いかけを忘失しがちである。まさに仏教で説く“毒矢の譬え”=注2=の戒めと瓜二つであります。つまり、ベルクソンにあっては、“何のための哲学か”という人間主義のスタンスは、決してぶれることはなかった。このことは、科学や宗教の場合も同断であります。
4  若き日の即興詩
 私は、恩師との初の語らいの感動を、即興詩に託しました。
  旅びとよ
  いずこより来り
  いずこへ往かんとするか
  月は 沈みぬ
  日 いまだ昇らず
  夜明け前の混沌《カオス》に
  光 もとめて
  われ 進みゆく
  心の 暗雲をはらわんと
  嵐に動かぬ大樹求めて
  われ 地より湧き出でんとするか
 今思い返すと、不思議な符合であります。その時、私の念頭にベルクソンがあったわけではありませんが、ともかく、人間であることの条件ともいうべき原初の問いかけに、常にフィードバック(還元)し続ける、その意味では哲学らしからぬ哲学ともいえるベルクソンの哲学に想像以上に親近感を覚えていたのかもしれません。事実、その宗教観などにスポットを当ててみると、彼の意図を超えて(というのも、ここでは詳述しませんが、ベルクソンの仏教とくに大乗仏教への理解は、十全ではないからです)驚くほど仏法を基調にした人間主義と波長を一にしております。
 私どもが唱道する人間主義は、仏法を基調にする故に「法に依って人に依らざれ」(涅槃経)を規範にするが、化導、流通の面では、仏典に「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」とあるように、あくまで「人」に軸足を置きます。
 「法」といっても固定的なものではなく、「人」に体得、体現されて初めて、現実に生々脈動しゆくからです。
5  「人格的人間」への飛躍を促す思想
 それと軌を一にして、ベルクソンの時間観、生命観は、「人」に即した「動くもの」のダイナミズムそのものであります。主要著作に沿っていえば、ある時は“純粋持続”(『時間と自由』)であり、ある時は“緊張”(『物質と記憶』)であり、ある時は“生の躍動(エラン・ヴィタール)”(『創造的進化』)であり、最後の主著『道徳と宗教の二つの源泉』では、「動的宗教」における“愛の躍動(エラン・ダムール)”へと辿りつく。
 “エラン・ヴィタール”までは、いわば「生物的人間」の進化を追ったものだが、“エラン・ダムール”は、「人格的人間」への上昇、飛躍であり、ある種の神秘的体験によって触発されたその体現者にして初めて、閉じた世界から、人類社会、人類愛への飛躍も可能となる、とされます。
 いうところの神秘的体験とは、神懸かり的ないかがわしさとは全く無縁の、知力を尽くし抜いた果てに作動し、かつ「数ある障害をものともせずに知性を前方へ駆りやる力」としての情動であり、魂の「深部が震撼される」情動であります(森口美都男訳「道徳と宗教の二つの源泉」、前掲『ベルクソン』所収)。
 その体現者を宗教的創造者といっても道徳的英雄といってもいい、この精神界の巨人は、「その人の行動自体が充実しているだけではなく、他人の行動をも充実させることができるような人であり、その人の行動自体が高邁であるだけではなく、高邁という炉床に火をつけ燃えあがらせることができるような人」(前掲「意識と生命」)であり、「(彼にとって)真に大切な問題は、まず自ら模範を示して、人類を根本から造り変えることである。この目的は、理論上は根源に存在していたはずのもの、すなわち神的な人間性がついに存在するに至ってはじめて達せられうるであろう」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)と。
 このような魅力的な、磁力を秘めた(導く人の)魂が“招き”となって、(継ぎゆく人々の)魂の“憧れ”を引き寄せ、相呼応しながら、新たなる精神的地平が豁然と拓けゆく──例えばネルーが、ガンジーの出現が長年の植民地支配下で萎縮していたインドの人々の心から「どすぐろい恐怖の衣」をはぎ取り、「民衆の心の持ち方を一変させた」と評したように(辻直四郎・飯塚浩二・蠟山芳郎訳『インドの発見下』岩波書店、現代表記に改めた)、宗教であれ思想であれ、精神性の伝播、継承とはこのようにしか成し得ないであろう究極の姿をかたどっているのではないでしょうか。
 そして、私にとって、恩師・戸田第2代会長こそ、まさしくこのような精神的巨人であり、無二の師表でした。「仏とは生命なり」との比類なき獄中体験をベルクソンのいう「創造的躍動力」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)とし、仏法流布に生涯を捧げた稀有の師匠に出会い、仕え、その精神を継承し得たことは、何ものにも替え難い私の宝であり、誇りです。私が「師弟」の肝要なることを、折あるごとに訴え続ける所以もここにあります。また、その伝播、継承を確信する故に、ライフワークである小説『人間革命』のテーマを「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」としたのであります。
6  言語の固定化が招く精神の怠惰
 さて、言葉のインフレ現象、軽さについていえば、それを生み出す言葉への過信、軽信に対して、ベルクソンは警戒心を隠そうともしません。いわく、「私が真の哲学的方法に眼を開かれたのは、内的生活のなかに初めて経験の領域を見いだした後、言葉による解決を投げ棄てた日である」(前掲『思想と動くもの』)と。
 それは、期せずして竜樹が、縁起の法は「ことばの虚構を超越し、至福なるもの」(「中論」梶山雄一訳)と述べているような、仏教本来の「無記」の知見、言語観を想起させます。
 なぜ警戒心を露にするかといえば、ベルクソンにとって「経験の領域」つまり真のリアリティーである「実在とは動いているもの、いなむしろ動きそのもの」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)であり、創造的生命の間断なき変化、変化の連続しゆく流れはひとときも止まることはない。その動きを感知するには、ベルクソンにも通暁し、私も生前お会いしたことのある小林秀雄氏のいう「未知な事物に衝突していて、既知の言葉を警戒」しながら正しい言葉を選び取る「精神の弾性」(『現代日本文学全集42小林秀雄集』筑摩書房、現代表記に改めた)が欠かせない。ところが、言葉というものは、往々にしてそうした間断なき流れを断ち切り、言語によって固定化させ、「変化についてのスナップ・ショットでしかない」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)ものを、実在そのものと錯覚させてしまう。
 いわゆる「時間の空間化」であって、彼はその象徴的な事例として、“飛んでいる矢は止まっている”あるいは“アキレスは亀に追いつけぬ”といった、古代ギリシャの哲人ゼノンのパラドックス=注3=を執拗に論難してやまない。なぜなら、言語による固定化がもたらす過信、軽信は、つまるところ精神の弛緩状態──知的怠惰、固定観念や偏見、ドグマ(教条)の温床になってしまうからです。先に論じてきた正義のインフレ現象(イデオロギーであれ、宗教であれ、ナショナリズムであれ)などは、その典型的な症例といえるでしょう。それは、労せずして、手っ取り早く結論を得ようとする安易さ、弱さや怠け心へと、人間を誘い込んでしまうのであります。
 私は、かつてその危険性を指摘し、「世間の主義主張には、どうしても“型にはめる”という働きがともなう。仏法にもとづくわれわれの主張は、この定型化ということには重きをおかない。時代と状況の実質把握のほうに重点をおき、そこからどうあるべきかを観察していく」と述べましたが、「定型化」とは「固定化」「空間化」ということと、ほぼ同義語であります。
7  安逸や停滞を排す
 つまり、仏法的発想と踵を接するかの如く、ベルクソンの哲学というか気質ほど、人間の弱さや怠け心と氷炭相容れぬものはないのであります。だからこそ、彼は「緊張、集中、これこそ私が、新しい問題一つひとつに対してまったく新しい努力を精神から要求する方法の特徴を述べる言葉である」「私は安易さを排斥する。私は困難を惹き起こすような一種の考え方を推奨する。私はなによりも努力を尊重する」(前掲『思想と動くもの』)等々と、安逸や停滞と決別し、ひたすら前を見据え、善く生きよう、強く生きようとする人間の能動的な意欲を鼓舞してやまないのであります。
 緊張、集中、努力──これら心の“張り”は、「動くもの」を感じ取り、思考の硬直化を排しながら、時々刻々と変転してやまない「時代と状況の実質把握」を可能ならしむるための、いってみれば精神的な“動体視力”を養い鍛える上で欠かすことができない要因であります。
 この“張り”をベルクソンは「確乎として揺るがぬ知的健康」として、次のように精妙に述べております。「行動への熱意、環境に適応し、仕損じても挫けずに再興する力、嫋かさと結びついた堅忍、可能と不可能とを見分ける予言者の識別力、紛糾した事態を単純によって克服する精神など」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)と。
 そしてこれらが、昨年の提言で私が簡勁に指摘しておいた、仏典の「強る心」「丈夫の心」と深部で響き合っていること、申すまでもありません。
8  自他ともの喜びを創造しゆく菩薩道
 「強る心」「丈夫の心」に限界はありえない。仏教に基づく人間主義の真髄は、人間の精神的諸力のぎりぎりまでの行使、より正確にいえば無限の行使を要請し、人間であればそれが可能であると促している点にあります。それほどまでに徹して人間の可能性を信じ、そこに賭けている。
 これは、ファウストに象徴される、いわゆる欲望を肥大化させた近代人の傲慢とは似て非なるものであります。宇宙根源の法に帰依しているという確信から生まれる自覚であり、自負、矜持であります。
 なぜ自覚、矜持かといえば、仏教においては、宗教が人間の精神的バックボーンを成すのは当然のこととして、なおかつ「精神活動が宗教を包含するのであって、それが宗教の中に包含されるのではない」(ジュール・ミシュレ『人類の聖書』大野一道訳、藤原書店)という「人間のための宗教」という立ち位置を、厳しく自戒しているからです。
 ここにこそ「人間のための宗教」と「宗教のための人間」とを分かつ分水嶺があり、それをはき違えると、宗教は人間の弱さや醜さ、愚かさや怠け心を誘発する“お縋り信仰”へと堕落していってしまう。
 そうではなく、私どもの信仰は、人間の無限の可能性への挑戦を促し、鼓舞する真の「人間のための宗教」であります。したがって、精神的諸力の行使に終着点はありえない。「今」は、常に次なるステップへの出発点なのであります。「さあこれからだ!」という呼びかけは、人間主義の実践躬行を促す“起床ラッパ”なのであります。それは、現実社会の庶民群の中で“自他ともの喜び”を創造しゆく菩薩道へと展転していく。
 人間力の無限の行使の要請に応えんとするところ、そこに拓けるのは、無限の力、無限の希望、無限の勇気、無限の知恵等々、限りなき、洋々たる前途であり、どんなに紆余曲折、試行錯誤があろうと、前進また前進の勇者を待つのは、仏典に「歓喜の中の大歓喜」と記された創造的生命の凱歌であるというのが、仏法に基づく人間主義の希望の哲学であります。
 ベルクソン的オプティミズム、哲人が「経験の事実に即した最善観」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)とした達観も、その無限性と根を通じております。
9  万人に開かれた自己完成の王道
 「努力によって、人は自分の持っている以上のものを自分のなかから引きだし、自分自身を自分より以上に高めることができるのです」(以下、前掲「意識と生命」)といった、精神の力の可能性、蓋然性に対する驚くべき期待、評価は、精神世界の無限性への不抜の確信あってのものでしょう。その努力の行き着くところは「歓喜」であり「歓喜はいつも生命が成功したこと、生命が地歩を占めたこと、生命が勝利を得たことを告げています。そうして、大きな歓喜なるものには勝鬨のひびきがあります」「歓喜のあるところにはどこにも、創造があることがわかります。創造が豊かであればあるほど、歓喜は深いのであります」と。
 のみならず、こうした無限性への志向は、古来人間に自らの有限性を自覚させ、宗教の世界へと目を向けさせる“死”という最大のアポリア(難問)にも、大胆かつ慎重に挑んでゆきます。なぜ大胆かといえば、「意識にとって来世があるならば、それを探求する手段が私たちに発見できない理由はありません」というスタンスは、死後の世界は神の宰領するものとするキリスト教的伝統とは異質のものであり、ジャンケレヴィッチが「人間の神格化」(前掲『アンリ・ベルクソン』)と名付けた、精神の力の無限性の証しともいえましょう。
 ベルクソンは、そうした精神の無限性への追求を、特殊な能力の人特有のものとするのではなく、精神的巨人の先導により、万人に開かれた自己完成への王道としております。
 彼は「ありとあらゆる人間がどんなときにでも追求しうる創造にこそ、人間の生命の存在理由がある」として、こう述べています。「その創造とは自己による自己の創造であり、少しのものからたくさんのものを引きだし、無から何ものかを引きだして、世界のなかにある豊かさにたえず何ものかを付け加える努力によって、人格を成長させること」(前掲「意識と生命」)と。
 言葉こそ違え、「一切衆生・皆成仏道」と説く、仏教の平等大慧の自己完成への道と見事に符合しているとはいえないでしょうか。
10  教条《ドグマ》が生む罠を徹して打ち破る
 これは「文証・理証・現証」という経験世界の「証拠」を重視する仏教の法理とも重なっており、私は、卓越した数学者でもあった恩師が、生前よく語っていた「科学が進歩すればするほど、仏法の法理の正しさが証明される」との言葉を想起しました。ともあれ生命の永遠性を垣間見ながらも、ベルクソンはあらゆるドグマから無縁の人でありました。
 「今世」と「来世」、「現世」と「生及びその前・死及びその後」とを分かつことのできない生命の無限の連続と捉えるこうしたアプローチを、周知のように仏法では「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」(天台智「摩訶止観」)と説いております。
 起=生・出現といい、滅=死・消滅といっても、法性という生命の本体が、縁に触れて生滅流転しているのだ、と。私は、かつてハーバード大学で講演した際(1993年9月、「21世紀文明と大乗仏教」)、この法理にのっとって「生も歓喜、死も歓喜」「生も遊楽、死も遊楽」という仏法の生死観を訴え、多くの賛同と共感の声をいただきました。
 その観点からも、ベルクソンのオプティミズム、生命観には、強い親近感を抱いており、なおかつ宗教がドグマの“罠”に陥らぬためには、こうした経験主義的アプローチとの対話を絶対に欠かしてはならない。これは、アーノルド・J・トインビー博士との対談でも痛感した点であります。
11  開かれた宗教を志向した精神性
 精神の力の無限性を信じ、追求しゆくベルクソン的オプティミズムは、必然的に人類愛へと至る開かれた魂、開かれた社会、開かれた道徳、開かれた宗教(動的宗教)を志向してゆきます。誰の目にも明らかなことは、現代の精神世界が、ベルクソン的世界とは正反対の閉ざされた精神空間に覆い尽くされているという事実ではないでしょうか。ペシミスティック(悲観主義的)で閉塞的な空間に逼塞させられた人間の魂は、「自分自身を自分より以上に高める」どころか、暗雲が立ち込めるなか、限りなき矮小化を余儀なくされているといってよい。耳をそばだててみれば、そこから生じる苦悶の呻き声は、至る所から聞き取ることができます。
 それだけに、現代の風潮とは対蹠的なベルクソン的な志向が、ことのほか尊いものに思えてならない。ベルクソン的オプティミズムは、行き詰まり、海図なき航海を続けている近代文明を、大きく軌道修正させてゆく“方向舵”たりうるのではないでしょうか。それはまた、人間主義を標榜する我々が、等しく共有する志向性なのであります。
 それを実現させうるか否かは、ほかでもない人間の自覚と責任にかかっております。ベルクソンは『道徳と宗教の二つの源泉』(前掲書)を、こう締めくくっております。
 「人類は今、自らのなしとげた進歩の重圧に半ば打ちひしがれて呻いている。しかも、人類の将来が一にかかって人類自身にあることが、充分に自覚されていない。まず、今後とも生き続ける意志があるのかどうか、それを確かめる責任は人類にある。次にまた、人類はただ生きているというだけでよいのか、それともそのうえさらに、神々を産み出す機関と言うべき宇宙本来の職分が──言うことを聴かぬこの地球上においても──成就されるために必要な努力を惜しまぬ意志があるのかどうか、それを問うのもほかならぬ人類の責任なのである」と。
 「神々を産み出す機関と言うべき宇宙本来の職分」の成就とは、いささか謎めいた形容ですが、端的にいって、生命の進化の過程で人間にのみ許された創造的生命の十全な開花──すなわち、「神秘的」体験によって魂を震撼させられた精神的巨人によって触発、先導され、「根本から造り変え」られた人間群による人類愛という地平への“愛の躍動”(エラン・ダムール)といってよいでしょう。
12  SGIの運動が目指す歴史的地平
 私がモスクワ大学のヴィクトル・A・サドーヴニチィ総長との対談集(第1集)を『新しき人類を 新しき世界を』と銘打ったのも、「新しき人類による新しき世界」を構想していたからです。
 その主役は、あくまで人間であります。それも社会機構や組織の中の一員に矮小化され、意気阻喪した人間ではなく、自己の無限の可能性を信じ、努力と挑戦のなか、自由意志の促すままに、ひたすら自己拡大を続けゆく創造的人間こそ、主役であるにふさわしい。そのほかの組織や制度、体制などの外的要因にのみ拘っていると、肝心の人間が端役の端役に追いやられてしまう。それがどんな悲劇を生んだかは、20世紀の苦い教訓であります。
 生き続ける意志はあるのか! 単に生き続けるだけでなく、善く生きんとする意志はあるのか!──哲人の人類への呼びかけは、「個々の人間の精神が真に更新されなくては社会にもまた更新はありえない」「個々の人間に、おのれの魂の救済にこそ世界の救済はあると気づかせるべきなのだ」(C・G・ユング『現在と未来』松代洋一編訳、平凡社)といった賢人の言葉と呼応しながら、「新しき人類」の誕生を待ち望んでいるように思えてなりません。
 こうした哲人、賢人の指し示す正道を歩み、事実の上で仏教史上に輝く世界的広がりを成し遂げてきたのが、まさしく我々の仏法を基調にした人間主義の運動なのであります。
 故に、今後とも着実に水嵩を増していくにちがいないSGI運動は、文明転換をもたらす“方向舵”として、時とともに輝きを放ち、スポットを浴びていくことは必定であろうと、私は確信しております。
13  時代を動かす“民衆の力強い連帯”で
 続いて、人間の無限の創造性に照らし、同じ地球に生きる私たちが“共通の未来”のために取り組むべき課題について論じたい。
 21世紀の最初の10年が終わり、いよいよ、第2の10年が始まりました。
 振り返れば、冷戦の終結以降、経済を軸にしたグローバル化が進むにつれて、環境破壊や貧困などの地球的問題群への関心が高まり、国際的な対応を望む声が強まりました。
 しかし21世紀に入り、アメリカでの同時多発テロ事件から近年の金融経済危機にいたるまで世界に何度も激震が走る中で、地球的問題群に取り組む動きは、停滞どころか後退すら懸念される事態が生じています。
 その象徴的な例が、国連の「ミレニアム開発目標」=注4=をめぐる状況でしょう。
 世界では、毎年800万人以上の人々が極度の貧困に苦しむ中で命を落とし、劣悪な生活環境の下で10億人もの人々がその生命と尊厳を日常的に脅かされています。「ミレニアム開発目標」は、こうした状況を改善すべく21世紀の開幕にあたって掲げられたものでしたが、現在、世界的な景気悪化の影響もあって支援のペースが鈍化し、極度の貧困層を半減させるとの項目を除いて、他の残りの目標を期限である2015年までに達成することが危ぶまれているのです。
 同じく、地球温暖化を防止する取り組みも壁にぶつかっています。メキシコで先月行われた気候変動枠組み条約の会議では、2013年以降の温室効果ガス削減の枠組みが決まらないまま、議論が持ち越されることになりました。
14  脅威に苦しむ人々の目線を取り戻す
 いずれも不可避の課題として警鐘が鳴らされてきたにもかかわらず、本格的な対応がなかなか進まない背景には何があるのか──。
 思うに、脅威が叫ばれたとしても自国にとって死活的なものと受け止められない限りは、率先して行動したり、他国と連帯して対策を進めようとする機運が容易に高まらないという側面が、政府レベルでの協議や交渉には往々にしてつきものだからではないか。
 しかし忘れてはならないのは、時に後回しにされる支援や対策は、本来、多くの人々にとっての命綱となるはずのものであり、これから生まれてくる世代を守る安全網となるはずのものであったという点です。
 ゆえに、地球的問題群への対策がともすれば国益のせめぎ合いに収斂してしまう中で、その重力に抗して、“脅威に苦しんでいる人々の目線”へと引き寄せる力を生み出し、強めていくことが求められます。
 今こそ人類は、「警鐘の時代」と決別し、「行動の時代」「連帯の時代」へと踏み出さなければなりません。そして、その時代変革のための結集軸となるべきは国連だと思います。
 折しも今年の国連総会では「グローバル・ガバナンス(地球社会の運営)における国連システムの中心的役割」をテーマにした討議が行われる予定となっていますが、かつて国連の機能を国家間の利害調整に終わらせず、眼前の危機に対して積極的にイニシアチブ(主導性)を発揮する存在となることを模索したのが、ダグ・ハマーショルド第2代事務総長でした。
 ハマーショルドは、ベルクソンの「創造的進化」の概念を踏まえつつ、国連は“生きている機関”として常にニーズに照らし、持続的に成長しなければならないと考えていた。そのビジョンは、今日においても価値を失っておりません。
 では、国連が“生きている機関”として現代世界の要請に応えていくために、いかなる「創造的進化」を遂げる必要があるのか。
 私は、一にも二にも、NGO(非政府組織)を中心とした市民社会との協働関係を盤石なものにすることに尽きると考えます。
 なぜなら、国連という機関の生命の息吹は、憲章の前文で主語をなしている“われら民衆”の文言──なかんずく、その民衆を構成する一人一人にこそ宿っているからです。
15  リーダーシップ観の抜本的な見直し
 この点に関し、今なお深く胸に残る問題提起があります。国連の創設50周年に際してグローバル・ガバナンス委員会が発表した報告書の一節で、そこには、従来のリーダーシップ観を根本的に改めさせる頂門の一針ともいうべき提唱がされていました。
 「私たちがリーダーシップという場合、国内および国際舞台で最高のレベルにある人物だけを指しているのではない。その意味するところは、活動の場を問わず、人々の啓発に努力を傾けていることである」
 ゆえに、NGOや小規模な地域社会のグループをはじめ、民間部門や企業、科学者や専門家、教育界やメディア、そして宗教界にいたるまで、あらゆるレベルでさまざまな人々や団体が「勇気ある長期的なリーダーシップ」を発揮することが求められる──と(京都フォーラム監訳・編集『地球リーダーシップ』日本放送出版協会)。
 国際政治のリーダーシップが欠けているならば、市民社会が世界を動かすエネルギーの供給源となっていけばよい。私も、“民衆一人一人がそれぞれの場所で自分にしかできない役割を担うこと自体が、リーダーシップの本旨である”との発想の転換こそ、閉塞状況を打破し、やがては地球をも動かしていく「アルキメデスの支点」=注5=となると確信します。
 私たちは、戦争と暴力が跋扈した20世紀の教訓を踏まえ、一人一人がかけがえのない役割を果たし、その連帯を幾重にも広げゆく中で、21世紀を「生命尊厳の世紀」へと築き上げていこうではありませんか。
 この信念に基づいて、21世紀の第2の10年を通して重点的に取り組むべき課題として、「核兵器の禁止と廃絶」と「人権文化の建設」に焦点を当て、国連を軸にした“目覚めた民衆の行動と連帯”で、その実現を図るための方策を探りたいと思います。
16  “われら民衆”の名で3つの挑戦
 まず、核兵器の問題を論じるにあたって、昨年5月に行われた核拡散防止条約(NPT)再検討会議の成果に触れておきたい。
 激しい意見対立が解消されず決裂に終わった前回(2005年)の轍を踏んではならないとの空気が広がる中、昨年の会議では10年ぶりに最終文書が採択されました。なかでも私が注目したのは次の3点です。
 ①核兵器の脅威に対する唯一の保証は、その廃絶以外にないと再確認した。
 ②核兵器の使用がもたらす壊滅的結果を踏まえ、国際人道法の遵守を求めた。
 ③「核兵器のない世界」を実現し維持するための枠組みを創設する特別な努力を払うことを求め、核兵器禁止条約に言及した。
 いずれも被爆者やNGOが長年訴え続けてきた主張にほかならず、核兵器に関して最も多くの国が加盟するNPTの公式文書で明確に謳われたことの意義は誠に大きい。ゆえに大切なのは、今回の合意を「核兵器のない世界」に向けての“協働作業の足場”としていくことでありましょう。
 そこで私は、国連憲章にならって、“われら民衆”の名において、以下の三つの挑戦を進めることを呼びかけたい。
 1、われら民衆は、核兵器の脅威に対する唯一の保証は廃絶以外にないとの認識に基づき、すべての保有国が全面廃棄を前提とした軍縮を速やかに進める体制を確保する。
 1、われら民衆は、どの国の行動であろうと「核兵器のない世界」という目的に反する行為を許さず、一切の核兵器開発を禁止し防止する制度を確立する。
 1、われら民衆は、核兵器は人類に壊滅的な結果をもたらす非人道的兵器の最たるものであるとの認識に基づき、核兵器禁止条約を早期に成立させる。
 いずれも、国家に“態度変更を求める”といった願望的なレベルにとどまるものではなく、目覚めた民衆の熱意と行動によって“新たな潮流を生み出す”ことに眼目があります。
17  交渉に非保有国やNGOの声を反映
 第1の柱となる「全面廃棄を前提とした核軍縮の推進」については、全保有国の参加による国連での対話や交渉の枠組みを定着させる必要があると思います。
 昨年4月にアメリカとロシアが締結した新戦略兵器削減条約(新START)は、両国の議会を通過し、批准書の交換を待つのみとなりました。
 削減規模や規制の対象が限定的ではあるものの、世界の核兵器の9割以上を保有する米ロ両国はより重い責任を持つだけに、削減に向けての努力は評価すべきでしょう。
 加えて、アメリカのオバマ政権が今後も引き続き、射程の短い戦術核兵器についてロシアとの削減交渉に乗り出す方針を表明していることは、歓迎すべき動きといえます。
 その上で私が求めたいのは、新STARTの前文で謳われたように、米ロによる核削減プロセスを他の保有国を含めた「多国間のアプローチへと拡張する」ことです。と同時に、その多国間交渉の結果を軍備管理的なものに終わらせず、「核兵器ゼロ」への展望が明確に開けてくるような、抜本的な核軍縮の水準にまで押し上げることです。
 では、いかにして大胆な核軍縮へと踏み出す環境をつくりだせばよいのか。
 そのためには、核兵器の保有を維持する前提とされてきた、“恐怖の均衡”で安全保障を維持するという抑止論的思考を徹底的に見直すことが欠かせないでしょう。つまり、保有国が核抑止論の呪縛を断ち切るには、国家、ひいては国民にとって“本当に必要なのは「安全保障」であって「核兵器の保有」ではない”──すなわち、核保有と安全保障とを同一視するような認識を改めることが出発点になると思うのです。
 この点に関連して、国連の潘基文事務総長が昨年8月に広島を訪問した際に、政治的な勢いを加速させるための方策として、2年前に行われた「核不拡散・核軍縮に関する国連安保理サミット」を今年から定例化させることを呼びかけた提案が注目されます。
 私も提言などで、同サミットの定例化を通じて核廃絶に向けたレールを敷くことを主張してきただけに、全面的に支持したい。
 その上で、安保理サミットの定例化にあたり、「安保理の理事国メンバーに限らず、非核の道を選択してきた国々の代表が討議に参加できるようにすること」と、「核問題に関する専門家やNGOの代表が意見表明する場を確保すること」を求めたいと思います。
 国際司法裁判所が96年の勧告的意見で全員一致の見解として示したように、NPT第6条は保有国に対し核軍縮交渉に取り組むだけでなく、誠実に交渉を進める結果として全廃を達成する義務を課したものです。
 そして、勧告的意見の審理に携わったモハメド・ベジャウイ元裁判長が指摘する通り、どの加盟国にも義務の達成を保有国に要求する権利があり、義務が果たされない場合にはNPT第6条を援用する権利を持つことを踏まえる必要があります(浦田賢治編著『核不拡散から核廃絶へ』憲法学舎/日本評論社)。
 また審理に際し、約400万人の「公共の良心の宣言」が核兵器に対する一般市民からの非難の証拠とともに提出されたように、人類の運命にかかわる重大事を交渉するにあたっては市民社会の声を真摯に受け止めるプロセスが確保されなければなりません。
 私は、これらの要素を加味した安保理サミットを定例化する中で、2015年を一つのゴールとして「核兵器のない世界」への具体的な道筋を導き出すことを呼びかけたい。
 その上で、2015年のNPT再検討会議を広島と長崎で行い、各国の首脳や市民社会の代表が一堂に会して核時代に終止符を打つ「核廃絶サミット」の意義を込めて開催することを検討すべきであると訴えたいのです。
 昨年4月、各国の首脳経験者らによるOBサミットが広島で行われ、平和記念資料館の視察や被爆証言に耳を傾ける機会を経る中で“世界の指導者、特に核保有国の指導者は広島を訪れるべき”との提言を盛り込んだ声明が採択されました。これはまさに私が年来訴え続けてきた点であり、保有国をはじめとする現職のリーダーたちが被爆地を実際に目にする体験を共有することで、「核兵器のない世界」に向けた取り組みは揺るぎないものになるのではないでしょうか。
18  CTBTの発効へ相互協定の締結を
 第2の柱となる「すべての核兵器開発の禁止と防止」については、包括的核実験禁止条約(CTBT)の発効が焦点となります。
 CTBTは爆発を伴うすべての核実験を禁止する条約で、96年の採択以来、182カ国の署名と153カ国の批准を得てきました。しかし、条約の発効には核技術を有する44カ国のすべての批准という厳しい要件が課されており、未発効の状態が続いています。
 しかし私は、発効の暁には核実験の禁止に加え、次の三つの意義があることを指摘し、非保有国と市民社会が連帯して対象国に署名と批准を促す動きを強めることを呼びかけたい。
 ①核兵器に関してNPTに未加盟の国をもカバーする普遍性を確保できる。
 ②核実験を永久に禁止する義務が国際社会の意思として確立されることで、核兵
 器廃絶に向けた心理的な土台が強固となる。
 ③条約の遵守状況を監視する地球規模の検証システムや査察制度と、これらを運
 営する専門機関(CTBTO)の存在は、交渉開始が待たれる核兵器禁止条約の制度
 的モデルともなりうるもので同条約に現実味を帯びさせる意義をもつ。
 いずれにせよ、CTBTを発効に導くには、批准に前向きな姿勢を示すインドネシアを除く残り8カ国の対応がカギとなります。
 そこで私は打開策として、国連などの仲介を通して対象国が“双務性”を前提とした協定を結び、一定期間内に署名と批准を進める方式を提案したい。
 2年前に行われた発効促進会議では、今後取り組むべき措置として「地域内及び多国間のイニシアチブ」を奨励する宣言が、全会一致で採択されました。その具体的な展開として、署名が済んでいない「インド、パキスタン」の間では相互署名協定を、「エジプト、イラン、イスラエル」の間で相互批准協定を結ぶことを模索してはどうか。
 また北東アジアでも6カ国協議をベースとしつつ、「北朝鮮の署名・批准と核能力の放棄」を前提に、「米中両国によるCTBTの批准と域内での核兵器の不使用」を誓約する協定を検討してはどうか。
 昨年来、朝鮮半島の情勢は哨戒艦沈没や延坪島《ヨンピョンド》への砲撃で緊迫の度を増しており、あらゆる外交努力を通じて事態を沈静化させることが急務となっています。その上で、朝鮮半島を含む北東アジアの永続的な平和と安定を目指すためには、北朝鮮の核問題を解決することが欠かせません。
 同じく中東においても、地域の永続的な安定を確保するには、非核化は避けて通れない道です。しかし、NPT再検討会議で合意をみた明年の「中東非核・非大量破壊兵器地帯の設立に関する会議」は、成否以前に開催そのものが危ぶまれているだけに、何らかの形で対話の環境づくりを進めることが求められます。
 そこで、まずは会議の前段階として、「核兵器を含む大量破壊兵器に関する軍拡の停止」をテーマに非公式レベルでの対話を試みることも一案かと思います。大切なのは、同じテーブルについて対話を交わすことであり、自国の政策がどのような脅威を互いの国に与えているかをよく理解し合うことが、事態改善の糸口となるに違いない。
 いずれにしても、明年の中東会議の前途には多くの困難が予想されるだけに、国際社会の後押しが欠かせません。特に、被爆国で、CTBT発効の推進役を担ってきた日本には、北東アジアの非核化の道を開く努力とともに、中東の非核化へ向けての対話の環境づくりを率先してサポートしていくことを求めたい。
 SGIとしても、中東を含む世界各地で「核兵器廃絶への挑戦」展を引き続き行い、CTBTの早期発効と非核兵器地帯の拡大に向けた国際世論を喚起していきたいと思います。
 このCTBTの早期発効とあわせて、私が訴えたいのは、「新型核兵器の開発と質的改良の禁止」を規範化することです。
 残念ながらこの問題は、昨年のNPT再検討会議で論点として当初取り上げられていたにもかかわらず、保有国の反対で最終的に見送られた経緯があります。
 しかし、この問題を放置し続けることは、NPTとCTBTの制度的基盤を根元から蝕む恐れがあるのではないか。実際、アメリカが昨年9月に未臨界核実験を再開し、また核兵器や核関連施設を近代化する予算を増額する方針を示したことは、CTBTをめぐる状況を複雑にさせるだけでなく、「核兵器のない世界」の実現を遠ざける行為と言わざるを得ません。
 ゆえに私は、安保理の常任理事国である五つの保有国が、2008年に共同声明で「核実験の停止継続」を誓約したのに続く形で、一切の留保を伴わない「核開発と近代化の停止声明」を行うことを求めたい。
19  核兵器は“絶対悪”との認識が不可欠
 最後に第3の柱として、核兵器禁止条約を“民衆の意思が生み出した世界法”として成立させる挑戦を提起したい。
 昨年のNPT再検討会議の最終文書で、「核兵器のいかなる使用も壊滅的な人道的結果をもたらすことに深い懸念を表明し、すべての加盟国がいかなる時も、国際人道法を含め、適用可能な国際法を遵守する必要性を再確認する」との文言が盛り込まれました。
 これは、96年の国際司法裁判所の勧告的意見の指摘をさらに前進させ、“あらゆる状況における核兵器の非合法性”を示唆した点で画期的な意義をもつものです。なぜなら、兵器の非人道性に鑑みて一切の例外を認めない原則を徹底化すれば、核兵器を“状況に応じて使用も可能な兵器”と考える余地は完全に失われることになるからです。
 そもそも核兵器は、国際司法裁判所が指摘したように、「その破壊力、筆舌に尽くしがたい人間の苦しみを引き起こす能力、そして将来の世代にまで被害を及ぼす力」において類例がなく、従来の兵器の範疇を超えたものとの認識に立つ必要があります。ゆえに、どの国が保有し、どんな理由を掲げようとも、国際人道法の理念とは本質的に相容れない存在であることを銘記せねばなりません。
 思い返せば、私の恩師の戸田第2代会長が半世紀以上前に「原水爆禁止宣言」で核兵器を“絶対悪”として位置付けたのも、核兵器の保有や使用を正当化しようとする論理に楔を打ち、根を断つためでした。
 戦争の最大の被害者は民衆であり、そこに自国や他国の境はないと訴え、日本の軍国主義と戦い抜いた恩師の熱願は、「世界にも、国家にも、個人にも、『悲惨』という文字が使われないようにありたい」(『戸田城聖全集3』)との一点に集約されていました。
 その意味で、核兵器による戦争は、世界にも、いかなる国にも、地球上のすべての人々にとっても、最も残酷で許し難い悲惨を強いるものでしかない。
 ゆえに恩師は、東西に分断された世界で相手の陣営の核保有ばかりを批判し合う風潮が強まる中、「生命の尊厳」を第一義とする仏法者として、イデオロギーにも体制にも偏することなく、世界の全民衆の生存権を守る立場から核兵器を弾劾したのです。
 時を経て、核時代を終焉させる歴史の分水嶺がようやく眼前に見え始めた好機を逃すことなく、核兵器の全面禁止に向けての挑戦を開始せねばなりません。
 注目すべきことにNPTの最終文書では、間接的な表現ながらも、核兵器禁止条約への言及が行われるにいたりました。
 そこで私は、今回の言及を突破口に、核兵器の廃絶と禁止を求める国々とNGOとが連携し、「核兵器禁止条約に関する準備会合」を早期に発足させることを呼びかけたい。
 たとえ、当初から多数の国が参加できなかったとしても、まず条約交渉の母体づくりに着手することを優先すべきだと思います。その上で「例外のない明確な禁止規範」と「期限を定めたスケジュール」の二つの要件を掲げながら、準備会合を重ねる中で、賛同する国とNGOをさらに募り、交渉開始への道筋をつけるべきだと思うのです。
 実際、マレーシアやコスタリカなどが国連総会に提出してきた核兵器禁止条約の交渉を求める決議は、中国、インド、パキスタン、北朝鮮を含む130カ国以上の賛成を得て昨年も採択されたように、コンセンサス(合意)の土壌は確実に存在しております。
 もちろん土壌があるからといって、それだけでは、核兵器禁止条約という成果を勝ち取り、「核兵器のない世界」を実現させることは夢物語のままで終わってしまう。しかし、市民社会が圧倒的な存在感をもって“国際世論による地殻変動”を起こしていけば、もはやどの政府もそれを無視できなくなるはずです。
 そのためにも、単に世論を喚起するだけでなく、明確なゴールを掲げて、それを支持する圧倒的な民衆の意思を、誰の目にも見える具体的な法へと“結晶化”させるプロセスを始動する必要があります。
 こうしたプロセスを経て実現した法は、民衆一人一人がその制定とともに、遵守の両側面にかかわるという意味で、国家間の関係を規律する伝統的な意味での国際法から“世界法”としての質的転換を志向したものとなるに違いない。
 これまで、核兵器の禁止や廃絶を求める声は主に、兵器そのものの非人道性と、核兵器の軍拡や拡散に伴う危険性の高まりという二つの点から提起されてきました。つまり、“非人道的だからなくさなければならない”との主張と、“危険だからなくす必要がある”との主張です。
 この二つの主張は、NPT再検討会議で全加盟国が確認した共通認識であり、「核兵器のない世界」へと人類が飛翔するための両翼としながら、核兵器禁止条約に賛同する裾野を広げていくべきだと訴えたい。
 また、より多くの人々が核兵器の存在を自分にかかわる問題と受け止め、時代変革の主体者としてリーダーシップを発揮する流れをつくりだすために、以下の“民衆による異議申し立て”を連帯の旗印に加えていってはどうか。
 1、いかなる国も、どの指導者も、多くの民衆の生命と未来を一瞬にして奪い去る核兵器を使用することは断じて許されない。
 1、核兵器は使用されなくても、開発や実験で深刻な健康被害や環境汚染を引き起こしてきた歴史があるだけでなく、その存在が絶えず軍拡と拡散を招く厄災となってきた兵器であり、安全保障の柱に据え続けることは許されない。
 1、核兵器の保有は、自国の安全と国益を守るためにはどんな方法も問わないという思考の究極の姿にほかならず、人類の平和的共存を根幹で脅かす思想は容認することはできない。
 これらの点は、他者の犠牲のもとに自己の幸福を求めない広義の人道性と、生命の尊厳を守り抜く人間の安全保障の観点から、核兵器がなぜ“絶対悪”であるかを浮き彫りにした「核兵器廃絶への挑戦」展を通し、私どもSGIが訴えてきた主張でもありました。
 ともすれば核兵器の脅威は目に見えず、日常的に感じられない面があるため、多くの人々にとって差し迫った不安というよりも過去に起こった悲劇として受け止められがちであることは残念ながら否めません。
 だからこそ、その壁を打ち破るためには、非人道性や脅威に対する認識にとどまらず、核兵器に覆われた世界で生き続けることが、いかに不条理かつ非人間的で、核兵器の存在が構造的暴力としてどれだけ世界をゆがめているかを見つめ直す必要があります。
20  誰人も核兵器の犠牲にさせない
 その意味で私は、かつてパグウォッシュ会議のジャヤンタ・ダナパラ会長が、「軍縮とは、人々の人権とその生存を守るための優れて人道的な努力である。われわれは核軍縮運動を、奴隷制に反対し、男女平等を求め、児童労働の廃絶をもとめる組織的な運動と類似したものと見なければならない」(前掲『核不拡散から核廃絶へ』)と主張した点に深い共感を覚えます。
 大切なのは、同じ地球に生きる人間としての良心に照らして、どの国の民衆であろうと核兵器の犠牲となる事態を起こしてはならないとの意識に目覚めることです。そして、一人一人がその信念に基づいて、「ゆえに私は、核兵器の脅威の下でこのまま生き続けるのではなく、『核兵器のない世界』を自らの手で建設することを選択する」との声をあげ、それを積み上げていく──その“民衆による選択の重み”を、核兵器禁止条約の依って立つ法源としていく運動を目指すべきではないでしょうか。
 SGIでは、戸田第2代会長の「原水爆禁止宣言」発表50周年にあたる2007年から「核兵器廃絶への民衆行動の10年」をスタートし、展示やセミナーを開催してきたほか、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)が進める「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」への協力や、国際通信社IPSと共同で核兵器に関する記事や論考を発信するプロジェクトに取り組んできました。
 そして昨年は、日本の青年部が核兵器禁止条約の制定を求める227万人もの署名を集め、国連事務総長とNPT再検討会議の議長に提出しました。うれしいことに署名の取り組みは、日本の学生部が7カ国の青年部と実施した「核兵器に関する意識調査」とあわせて、若い世代の意欲的な活動として国連や軍縮関係者から注目を集めました。
 もはや機は熟しており、市民社会をあげて行動すべき時を迎えています。
 SGIとしても、核兵器禁止条約の制定を軌道に乗せる運動を「核兵器廃絶への民衆行動の10年」の中核に据え、全力で取り組みたい。そして、広島と長崎への原爆投下から70年となる2015年を一つの目標とし、青年を中心に、1年また1年と、「核兵器のない世界」への潮流の水嵩を大きく増していきたいと決意するものです。
21  ハーディング博士の重要な問題提起
 続いて、私たちが21世紀の第2の10年で重点的に取り組むべき二つ目の課題として、人権文化の建設について述べておきたい。
 人権文化は、「人権教育のための国連10年」(1995年~2004年)を機に広がった言葉で、一人一人が自発的な意志に基づいて、人権を尊重し、生命の尊厳を守り抜いていく生き方を、社会をあげて文化的な気風として根づかせることを目指すものです。
 そもそも、この国連の枠組みはNGOの強い後押しで実現したものでした。
 その根底には、人権の法制度的な保障をいかに確立し、侵害された場合にどう救済するかといった観点とともに、日頃から侵害を起こさせない土壌を育むことが欠かせないとの問題意識が脈打っていました。
 私は現在、マーチン・ルーサー・キング博士の盟友で人権運動に長年挺身されてきた歴史学者のビンセント・ハーディング博士と対談を進めています。その中で博士が提起した言葉は、人権文化の建設を展望する上で極めて重要な指針として胸に迫りました。
 ──「公民権運動」という言葉は、自分たちが携わってきた運動を表すものとしては不十分である。なぜなら、次の世代が“これだけ多くの法律が成立したのだから、もうこれで終了だ”と、運動を過去の歴史として受け止めてしまいかねないからである。そうではなく、「『民主主義を拡大するための運動』と言えば、次の世代は、自らが受け継いだもの以上に、民主主義を拡大させていく責務があると自覚できるでしょう。この責務は、ずっと継続していくのです」と(「希望の教育 平和の行進」、「第三文明」2010年8月号所収)。
 法律になったから人権が尊いのではない。法律を勝ち取る闘争そのものを精神的な法源とし、その精神を継いでさらに運動を拡大する担い手が陸続と続くからこそ人権は輝く──。この考えは、生命尊厳の思想を社会に根づかせる要諦として、仏法が「法自ら弘まらず」との視座を強調してきた点とも響き合うものです。
 釈尊の言葉に「生れを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる」(中村元訳『ブッダのことば』岩波書店)とあるように、仏法では、どんな人にも尊極な生命が内在するがゆえに人間は根源的に平等であると強調する一方で、生命を輝かせるカギはあくまで自らの行動にあると説きます。その上で、「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」(同)と説くように、自他ともの幸福と社会の安穏を目指す生き方を促す教えなのです。
 ゆえにSGIでは、人間の内なる変革を重視する仏法思想に基づき、国連NGOとしての活動の柱の一つに人権教育の推進を掲げ、取り組んできました。
 93年6月にウィーンで行われた世界人権会議に先立ち、同年4月に東京の国連大学で開幕した「現代世界の人権」展はその代表的な活動で、「人権教育のための国連10年」が終了する2004年までに世界40都市を巡回し、民衆レベルでの意識啓発を進めてきました。また私も、2001年8月にダーバンで行われた国連の反人種主義・差別撤廃世界会議に寄せたメッセージなどで、国連による人権教育の枠組みの継続を訴えてきました。
22  人権教育と研修に関する宣言採択へ
 それだけに、国連10年の枠組みを引き継いで2005年にスタートした「人権教育のための世界プログラム」の冒頭で人権文化の建設が謳われ、国連人権委員会に代わって2006年6月に活動を始めた人権理事会の主要任務の一つに「人権教育と学習の推進」が掲げられたことは、実に歓迎すべき出来事でした。
 以来、具体的な取り組みとして、スイスとモロッコの提案を受け、2007年9月に人権理事会で「人権教育および研修に関する国連宣言」の草案起草が決定し、今秋の国連総会での採択に向けて作業が進められています。
 私たちは人権教育の国際基準を初めて定める宣言の採択を機に、すべての国で人権文化がより自覚的で力強いものとなるよう、一致協力して前進すべきではないでしょうか。
 そこで私は、その基盤づくりのために三つの提案を行いたい。第1の提案は、人権教育を専門に推進する国連組織の整備です。
 現在、「人権教育および研修に関する国連宣言」の草案は人権理事会で起草作業が進められていますが、国連総会でより多くの国々の賛同を得て採択され、世界各地で実施されるようになるには、市民社会の一貫した後押しが欠かせません。また「人権教育のための世界プログラム」についても専門の国際機関がないため、枠組みを今後も継続し充実させる上で、NGOの積極的なサポートが必要となってきます。
 これまでこの分野では、国連NGO会議(CONGO)の下部組織としてジュネーブで活動を行ってきた「人権教育学習NGO作業部会」を中心に、国連の人権教育に関する政策に市民社会の声を反映させる挑戦が続けられてきました。
 なかでも2009年3月に作業部会が、国際的なネットワーク団体である人権教育アソシエイツと協力し、NGO365団体の連名で人権理事会に提出した共同提案への評価は高く、多くの理事会関係者の関心を集めました。
 また、作業部会の議長を務めるSGIでは、人権教育アソシエイツと共同で、人権教育における具体的な成功例を紹介し、その重要性を訴えるDVDの制作準備を進めており、年内の完成を目指しています。
 そこで私は、人権教育に取り組み、あるいは人権教育に関心のある既存のNGOネットワークや団体を中心に「人権教育のための国際評議会」を発足させ、人権理事会や人権高等弁務官事務所と連携しつつ、人権教育を推進する国際的な流れを広げ、強めていくことを呼びかけたい。
 そして、国連と市民社会が協働作業の実績を重ねていく中で、将来的な展望として「国連人権教育計画」(仮称)のような専門組織を設置することも検討していってはどうか。
 運営面や資金面でより充実した体制を確保するとともに、各国レベルで国連と政府とNGOが協議して世界プログラムや国連宣言の履行を着実に果たしていく仕組みを整えながら、人権文化が地球上のあらゆる場所で花開くよう目指すべきだと思うのです。
 第2の提案は、「青年に焦点を当てた人権教育」を推進するための地域的な連携の強化です。
 国連では、昨年8月から今年8月までを「国際ユース年」と定め、人類が直面する課題を克服する上で、世界のユース(青少年)たちが持つエネルギーと創造性と自発性を生かすことを呼びかけています。
 歴史を振り返っても、ガンジーやキング博士が20代で立ち上がったように、多くの人権闘争は青年の熱と力によって切り開かれてきたものでした。
 厳しい社会の現実を突き崩し、新しい時代を築く上で、どれほど青年が果たす役割が大きいか──。
 キング博士は晩年、青年に対する警鐘として、「個人がもはや社会にたいする真の参加者でなくなり、社会にたいする責任を感じなくなったとき、民主主義は空洞化します」(中島和子訳『良心のトランペット』みすず書房)との言葉を残しました。
 このことは人権文化の建設にも当てはまり、先にハーディング博士が力説していたように、人権の担い手が世代から世代へと受け継がれる流れを強固にすることが欠かせません。
 そこで私は、グローバル化が進む現代の情勢を踏まえ、国単位での人権教育に加えて、国家の枠を超えた地域的な連携を強化し、人的交流も含めた「青年に焦点を当てた人権教育」を拡充することを提案したい。
 現在、欧州評議会を中心に「民主的市民教育と人権教育」が推進されているヨーロッパでは、市民を「社会の中でともに生きる人」と位置付けた上で、特に行動する若い市民の育成が奨励されています。
 こうした人権教育のための連帯を、NGOなど市民社会の側が主体的にかかわっていく形で、世界の他の地域でも広げていくべきではないでしょうか。
 かつて私は1987年の提言で、「国連世界市民教育の10年」を実施し、環境・開発・平和・人権の四つのテーマを軸に、21世紀を担い立つグローバルな市民意識の涵養を進めることを呼びかけました。
 SGIではこれを具体化する一環として、95年から始まった国連による人権教育の枠組みと2000年に開始された「平和の文化」の活動を支援する一方で、他のNGOと協力し「持続可能な開発のための教育の10年」の制定を呼びかけ、2005年に同10年がスタートしてからは、その取り組みを支援する活動を活発に進めてきました。
 今後も引き続き、「平和の文化」を全世界に根付かせ、持続可能な未来を築くための活動を力強く展開するとともに、人権文化については、国境を越えた人的交流などの実体験を重視しながら“互いの共通性を見出しそれぞれの多様性を生かしゆく心”を養う機会を設けるなど、人権の担い手となる青年が陸続と育つための環境づくりを多角的に進めたいと思います。
23  知識にとどめず誓いへと高める
 第3の提案は、「人権文化の建設に向けた宗教間対話」の推進です。
 人権は知識として学ぶだけで、人々の心に定着するものではありません。そのことは、国連人権高等弁務官事務所がまとめた小中高校向けのガイドブックでも明確に記されています。
 「最高の能力と細心の注意を持って教えたとしても、文書や歴史だけで、人権をクラスに根づかせることはできません」
 「(人権に関する)文書の重要性を単なる知識としないためには、実生活での経験という観点から人権にアプローチし、正義、自由、平等に対する生徒自身の理解を養うような形で取り組む必要があります」(『ABC 人権を教える』、国連広報センターのホームページから)
 例えば、子どもたちが身近な場所でいじめを前にした時、いじめに加勢しないだけでなく、止める側に回ることができるのか──そうした日々の現実との格闘なくして、人権感覚が錬磨されるはずのないことは、何も学校教育に限らず、すべての人々に当てはまるものといえましょう。
 私は、その礎となるのは「胸を痛める心」のような良心であり、どんな状況に直面しても自らに恥じない「最良の自己」であろうとする信念が重要な支えになると思います。そして宗教は本来、こうしたエートス(道徳的気風)を育む人間精神の大地であらねばならないと考えてきました。
 人権がどれだけ法律で保障されても、それが多くの人にとって外在的なルールや他律的な道徳として受け止められている限りは、人々を守る大きな力とはなりえません。
 ガンジーが自己の信念について「非暴力は、意のままに脱いだり着たりする衣服のようなものではない」(森本達雄訳『わたしの非暴力1』みすず書房)と叫んだように、“ひとたびそれを破れば、もはや自分ではなくなる”との誓いにまで昇華されてこそ、人権規範は社会を変革していくための無限の力の源泉になりうるのではないでしょうか。
 もちろん、宗教だけが倫理的な基盤を提供するものでは決してなく、医師による「ヒポクラテスの誓い」=注6=のように信念に基づいて自らに責務を課す生き方が、今後も重要になることは論をまちません。
 しかし一方で、宗教学者のパウル・ティリッヒが指摘したように、宗教は精神を揺り動かす根源的な問いかけである“人間は何のために生きるのか”といった意味への志向性に深部でかかわっているだけに、より大きな貢献を果たすことができるのではないか。
 つまり、宗教的信条に基づいた“より善き生”への意味づけを通して、ティリッヒの言う「自己自身を失うことなしに自己を越えて創造するところの力」(大木英夫訳『生きる勇気』平凡社)を発現させる道を、宗教は開くべきだと思うのです。
24  不軽菩薩の名に込められた精神
 前述したようにSGIの運動は、一人一人が内面の変革を通じて自他ともの“より善き生”の顕現を目指すものです。人権文化の文脈に照らしていえば、人権について学び、意識を磨くだけでなく、日々の生活の中で実践し、一人一人が“人権の体現者”として社会に波動を起こす存在となってこそ、人権教育の取り組みは初めて完結するとの信念の下、草の根の活動を続けてきたのです。
 仏法の真髄である法華経では、その範となる不軽菩薩の姿が描かれています。
 不軽菩薩は、人間は誰しも尊極な生命を具えているとの信念に基づき、出会うすべての人に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず」と唱えて礼拝する実践を貫きました。しかし、混迷を深める世相にあって、人々から悪口罵詈され、揶揄されるばかりか、時には杖で打たれたり、石を投げられたりもした。それでも、礼拝の実践を決して投げ出すことはなかった。
 やがて法華経が中国に伝わり、鳩摩羅什によって翻訳された時に、彼の名は「常に人を軽んじなかった菩薩」を意味する言葉で表現されたのです。
 この名に込められた精神はまた、私ども創価学会が創立以来80年にわたって実践してきた人権闘争の魂にほかなりません。
 草創期から“貧乏人と病人の集まり”と時に揶揄されながらも、むしろそれを最大の誉れとし、悩み苦しむ人のために尽くすことが仏法の根本精神であるとの宗教的信条を燃やす中で、地道な対話で徹して一人一人を励まし勇気づける行動を続けてきました。
 法華経ではほかにも、普賢菩薩、薬王菩薩、妙音菩薩、観世音菩薩など、さまざまな菩薩が自らの特性を生かして人々に尽くしていく姿が説かれています。
 私どもはその精神を現代社会に敷衍して、誰もが自分の特性を最大に生かしながら「人権」と「人道」の担い手になることができると訴え、ともに成長を期してきたのです。
 国連では本年、人権分野に関して、“差別をなくすために声をあげ、行動する新しい世代をいかに鼓舞するか”に焦点を当てています。まずは、このテーマを軸に、宗教界がどのような貢献をなしうるかについて討議を進めていってはどうでしょうか。
 かつて私はハーバード大学で行った講演(1993年9月、「21世紀文明と大乗仏教」)で、「はたして宗教をもつことが人間を強くするのか弱くするのか、善くするのか悪くするのか、賢くするのか愚かにするのか」が厳しく問われる時代に入っていると、自戒を込めての警鐘を鳴らしたことがあります。
 さまざまな宗教が人権文化の建設という共通の目標に立って対話を重ね、互いの原点と歴史を見つめながら、人権文化の建設のために行動する人々をいかに輩出していくかを良い意味で競い合う──牧口常三郎初代会長が提唱していた「人道的競争」に取り組むことを呼びかけたいのです。
25  時代を画する挑戦を成就させるカギ
 以上、「核兵器の禁止と廃絶」と「人権文化の建設」を中心に論じてきましたが、私たち民衆一人一人が自らの選択に基づいて起こす行動が、人類史を画する壮大な挑戦に直結しているとの誇りを忘れてはならないと思います。
 この点に関して思い起こされるのは、貧困の根絶のために行動を続けるコロンビア大学地球研究所のジェフリー・サックス所長が、過去2世紀の歴史を振り返って奴隷制と植民地主義とアパルトヘイト(人種隔離政策)を終焉させた挑戦が成功した要因を分析して述べた次の言葉でした。
 「過去にも人間の自由と幸福の拡大のために貢献した世代はあった。そんなチャレンジを可能にしたのは、努力、話しあい、忍耐、そして歴史の正道を歩んでいるという強い喜びである」(鈴木主税・野中邦子訳『貧困の終焉』早川書房)と。
 なかでも私が重要と思うのは、最後に挙げられた「歴史の正道を歩んでいるという強い喜び」です。
 自分たちの日々の行動や対話が世界を正しい方向へ向かわせているとの確信と喜びこそが、未曾有のパワーを民衆自身の中から生み出す源泉となるものにほかならないからです。
 私どもSGIは、「新しき時代創造の主役は民衆」との信念と「人間精神の変革が生み出す力は無限」との確信をいよいよ燃やし、「平和と共生の地球社会」の建設に向けて志を同じくする人々との連帯を幾重にも広げながら、前進していきたいと思います。
 2011.1.26  創価学会インターナショナル会長 池田大作
26  語句の解説
 注1 消えた高齢者
 東京・足立区で昨年7月、戸籍上では111歳で生存しているとされていた男性の遺体が発見されたが、その後の捜査で、男性がすでに30年以上前に死亡していたことが判明した。この事件を機に、全国の自治体が高齢者の安否確認を進めた結果、住民票や戸籍が残っていてもすでに死亡していたり、行方不明となっているケースが各地で多数あることが明らかとなり、大きな社会問題となった。
 注2 毒矢の譬え
 観念的な議論にふける弟子を戒めるために、釈尊が説いた譬え。“毒矢で射られて苦しんでいる人がいたが、だれが矢を射たのか、矢はどんな材質だったのかが判明しないうちは治療してはならないと本人がこだわったために、そのうちに亡くなってしまった”との譬えを通し、何よりもまず人々の苦しみを取り除く現実の行動に仏教の本義があることを諭した。
 注3 ゼノンのパラドックス
 弁証法の祖と呼ばれるゼノンは、飛んでいる矢も瞬間瞬間の姿を捉えれば、それぞれ空間の一定の位置を占め、静止しているとの逆説を説いた。また、俊足を誇るアキレスと競走するにあたって、前方でスタートを切ることを望んだ亀は、アキレスが亀が最初にいた出発点に着く頃にはさらに先に進み、またそこに着いた時にはその分だけ先に進んでいるというように、アキレスには亀に対し無限に続く遅れがあるために永遠に追いつけないとの詭弁を展開した。
 注4 ミレニアム開発目標
 2000年9月に採択された「国連ミレニアム宣言」などをもとにまとめられた国際社会が達成すべき目標。2015年を目標期限とし、極度の貧困と飢餓の撲滅、初等教育の完全普及、ジェンダーの平等と女性の地位向上、乳幼児死亡率の削減、妊産婦の健康改善など、8分野18項目の達成が目指されている。
 注5 アルキメデスの支点
 「浮力の原理」の発見などで有名な古代ギリシャの科学者で数学者のアルキメデスは、「てこの原理」についても数学的な証明を行った。その原理を彼が象徴的に言い表したものとして、“われに支点を与えよ。しからば地球を動かしてみせよう”との言葉が伝え残されている。そこから転じて、物事を大きく動かすための急所を指す。
 注6 ヒポクラテスの誓い
 古代ギリシャの医師の組合が提唱した倫理規範。医学者ヒポクラテスの見解に基づくものとされ、新しく加入したメンバーは必ず読み、その規範のままに行動することを誓った。その後、近代から現代にいたるまで欧米諸国を中心に医学教育でも採用される中で、文章の改定を経てさまざまな内容のものが存在するようになったが、その底流に流れる精神は今も受け継がれている。

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