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日蓮大聖人・池田大作

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2 仏教の「縁起思想」  

「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)

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3  大乗仏教の「菩薩道」
 池田 きわめて明快なお答えです。季先生の、お考えは、大乗仏教の「菩薩道」とも軌を一にしております。
 季先生の論をお聞きして、中国の天台哲学の機軸ともなった「十界論」を思い起こしています。
 天台大師は、人間には「本性」として「善」も「悪」もそなわっていると説ときます。これを「性善」「性悪」と言います。一方、現実に、生命の境涯として発現される「善」と「悪」を、「修善」「修悪」と表現しています。
 そして、天台大師は、現実生活のなかで、「修善」に輝く利他的生命へと向かう段階を「十界論」として説きました。
 「十界論」でいう「地獄界」や「三悪道」「四悪趣」などは、利己的生命が発現している境涯であり、季先生のお言葉では「悪人」となるでしょう。
 仏教では、そこに「苦」が引き起こされると説きます。「善人」とは、「菩薩界」や「仏界」の境涯であり、自己の本能をコントロールしている生命状態です。
 「仏」とはまさに「極善」の生命ですが、私ども仏教者は、具体的には、現実社会の中で、利他に尽くす行為の割合を不断に高めゆく人生、「菩薩道」の実践をめざしております。
  お二方のお話に、私は大きな啓発を受けました。
 人間すなわち人間の本能は、生まれつきそなわったもので、それは生理的な概念です。また、人間の善と悪は後天的に習得された行為によって決まるもので、善を行うこと、あるいは悪をなすことは、倫理概念です。
 この両者の概念を混同してはならない。いったん混同してしまうと、自己矛盾の誤りを犯してしまうことになります。性善説と性悪説は、いずれもこの誤りを犯してしまいました。
 性善説が答えられないのは、「人間は生まれつき善であるならば、なぜ社会に悪行が生じるのであろうか」という問いです。
 性悪説が答えられないのは、「人間は生まれつき悪であるならば、なぜ社会に善行が生じるのであろうか」という問いなのです。
 季先生も、おっしゃっているように、人間と動物との間の大きな違いは、人間は本能のコントロールができることです。ある人間の善と悪の程度は、その本能のコントロールの程度によって決まります。
 そして本能のコントロールは、厳格な教育と長期的な修練を受けることによってなしうることであり、生やさしいものではありません。道徳水準の向上は、知識水準あるいは技術水準の向上よりも、はるかにむずかしいと言えるでしょう。
 ある人間の善と悪は、その人が社会の一員となってから、さまざまな社会関係や環境の影響のもとで、しだいに形成されたものです。いわゆる「朱に近づく者は赤く、墨に近づく者は黒し」が言っていることは、この道理です。

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