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日蓮大聖人・池田大作

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1 「性善説」「性悪説」  

「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)

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1  「天」の観念
  池田先生とトインビー博士との対談から啓発を受けたことですが、人生の最も根本的な問題、すなわち「人間の本性」という問題に移りましょう。
 池田 わかりました。本質を突いたテーマです。
  この問題には、少なくとも二つのことが含まれております。
 第一に、「人間の本性とはどのようなものか」。
 第二は「善とは何か」「悪とは何か」という問題です。
 「善悪」の問題は、中国哲学史においても大きな問題でした。諸外国の哲学でも、しばしば取り上げられています。
 「人間とは何か」「善悪とは何か」は、古くて、新しい問題です。現代人に、善悪の基準が見えなくなっているからです。
 善悪とか人間の本性が見えなくなるほどのスピードで、この百年、人間社会は変化、変化を続けてきました。その結果、二十一世紀の私たちが直面しているのは、たとえば人類を何度も殺すことができるほどの核兵器であり、バイオ技術の独り歩きなのです。
 そもそも、一方にとっての「善」が、もう一方にとっては「悪」になるーーそれは、日常の人間関係に、おいても、国際関係に、おいても、たくさんあることです。
 無数の「相対的な善」がせめぎあい、ぶつかりあっているのが、人間社会の実相とも言えます。
 ならば、揺るがぬ「絶対的な善」とは何なのか。
 何を「絶対的な善」として、人間社会の機軸にすえていくべきなのか。古今東西の宗教・哲学は、それを問い続けてきました。
 たとえば、古代ギリシャのプラトンは、ソフィストの「善とは快さ」という思想を批判し、最高の実在として「善のイデア」を打ち立てました。(村井実『「善さ」の構造』講談社、参照)
 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という一神教においては、「神」と「人間」の関係に焦点をすえ、善についても、絶対者である「神」が「善」であることを前提に論を展開していきます。
 西洋における一神教の「神」と比較できるものとしては、中国文明では「天」があげられるでしょう。
 しかし中国では、「天人合一」の思想に明らかなように、一神教における「神と人」との関係とは違って、「天と人」は隔絶した存在ではなかった。
 「人間の中にも天がある」すなわち「天性」であるという思潮が主流をなしてきました。(森三樹三郎『中国思想史』上、第三文明社、参照)
 私は、こう思っています。西洋文明に、神という「普遍を通して個別を見る」傾向があるとするならば、中国文明のアプローチは「個別を通して普遍を見る」傾向がいっそう強いとは言えないか、と。
 諸子百家のキラ星のごとき哲人たちは、春秋戦国という動乱期を生きぬきつつ、”国の師父”をめざしました。哲学は、中国の場合、人間社会の現実とかかわるための武器である、という面がいっそう顕著であったと思います。
2  孟子の「性善説」
  中国における「人間の本性」の問題は、先秦時代を淵源としています。
 孟子は「仁・義・礼・智」という天性は、生まれつきそなわったものであると言います。
 『孟子』尽心上には次のようにあります。
 「君子が本性とするところは、いかに自分の道が天下に広く行なわれたとて増すものでもなく、反対にいかに不遇で困窮していても減るものではない。
 なぜなら、君子が天から受けている本性は、その分量がはじめからきまっているからである。君子の本性とは何かというと、それは仁義礼智であり、それは心に根ざしたものである。
 その心に根ざした仁義礼智が一度外にあらわれると、清く福よかな徳貌が、その顔面にあらわれ、その背にあふれ、手足にゆきわたり、四体は物を言わないが、一見して徳のあることを人に分らせるようになる」(内野熊一郎『孟子』、前掲『新釈漢文大系』4)
 孟子の「性善説」は、二千年の長きにわたって中国思想に影響を与えてきました。
 たとえば『三字経』というのは、旧社会で最も広まり、子どもが必ず習った書物ですが、その最初に「生まれたときは、人の本性は善である。本性は相近いものであるが、生活習慣により違いが生じるのである」とあります。
 このことからも性善説の影響の大きさがわかります。
 池田 孟子の性善説は長く儒教の正統となりました。その理由の一つは、性善説が、孔子の「天命」説をふまえたものであり、「天」の思想とよくなじんだことがあげられますね。
 生まれながらの本性は、天与のものであり、天性です。それゆえ、それ自体が天と同じく善なるものとされたのでしょう。
  『中庸』にある最初の言葉ーー「天が(人間に人間として生きるべき根本のものとして)命じ与えたもの、これを性というのである。その性にしたがい行なってゆくところに成りたつもの、これを道というのである」(赤塚忠『中庸』、同前2所収)も、その意味でしょう。
  孟子の性善説は、告子の「性無善無不善論」との論争のなかから発展したものです。
 告子は、人間の本性が善であるとは認めていません。彼は『孟子』告子上で次のように官べます。
 「人の本性は渦を巻いている水のようなものである。それを東の方へむかつて切って落とすと、東の方へ流れるし、西の方へ向って切って落すと、西の方へ流れていく。人の本性が、元来、善とも不善とも分かれていないのは、ちょうど水に東へ流れるか、西へ流れるか、の区別がないのと同じである」(前掲『孟子』)
 池田 『孟子』には、このあとに続けて、孟子の反論も記されていますね。
 「水にはなるほど、ほんとに東西の区別はないようであるけれども、しかし上下の区別はないであろうか。(上下の区別はあって、水は上の方に向つては流れず、下の方に向かって常に流れていく。)人の本性が善なのは、ちょうど水が低い方へ低い方へと流れるようなものである。人は本来善でない者はなく、水は低い方へ流れないものはないのである」(同前)
 孟子の得意の論法が展開されています。
  孟子の性善説は、孔子が提起した「善」あるいは道徳に関する理想である「仁」という概念とも密接な関係があります。
 孔子の”仁”に対する定義は「人を愛す」、すなわち「仁とは人を愛す」です。
 ”仁”あるいは”人を愛す”は、人間の行為の二つの面に体現される。
 一つは、「自分が立ちたいと思えば、まず人を立たせてやる。自分が達したいと思えば、まず人を達してやる」。
 もう一面は、「己の欲せざるところを、人に施すことなかれ」ということです。
 さらに孟子は、この「仁」について「他人の不幸を見るに忍びない心は仁なのである」「人間には皆、悪(害)を加えるに忍びない心がそなわっている」と考えました。
 だれにでも「他人の不幸を見るに忍びない心」があり、だれでも”仁”で、だれでも”人を愛す”のであるならば、人間の本性はまさしく「善」であるわけです。ですから、孟子の「性善説」と孔子の「仁愛説」はある面で共通している、と言えるでしよう。
3  荀子の「性悪説」
  一方、中国の先秦時代に「性悪説」を主張したのは、儒家の別の一派の代表人物である荀子(荀況)です。
 彼は儒家に属していましたが、孟子の「性善説」に強く反対しました。
 「人間の生まれつきは悪いもので、人間の善というのは偽、つまり思慮や練習努力の集積の結果である」(木全徳雄『荀子』明徳出版社)と述べています。
 この「偽」という字の意味は、現在、われわれが理解している「真偽の偽」とは少し違っていて、「人為」的なものという意味があります。「にせ」という意味ではありません。
 人間の生理的な素質は生まれながらのものであり、礼義道徳は人為的なものです。その人為的なものを「偽」と呼んでいるのです。
 生まれながらのもの(本性)は、人間が手を加える基礎となるもので、この基礎がなければ、人為的な活動は「加うるところがなく」なってしまう。一方、生まれながらのものは、人為的に手を加えて初めて「美」を表していけるのだということです。
 また荀子は言います
 「孟子は『人が学問をするのはその本性が善であるからである』というが、とれは全く誤っている。
 このような説は、人間の本性を十分に理解し尽くしておらず、人間の本性と人為との区別を明確に察知していない者の説である。
 すべて本性は自然によって成るものであり、人為的後天的な学習や努力によって得られるものではない」(藤井専英『荀子』下、前掲『新釈漢文体系』6)
 この意味は、人間の本性は生まれながらのものであり、学ばなくてもそなわるものである。しかし、礼義等は聖人がつくったものであるから、生まれつきそなわっているわけではない、ということです。
 荀子の言う「悪」とは、人間の生理的な本質や生活欲求をさしていて、現在、われわれが言う「本能」と少し似ております。
4  「本能」と「善悪」
 池田 おっしゃるとおり、荀子の言う「悪」とは、キリスト教の「原罪」のようなものではなく、「本能」という言葉に、むしろ近いと思います。
 だからこそ彼は、生まれつきの天性という先天的なものよりも、人為の学による陶冶という後天的なものを重視したのではないでしょうか。
 荀子の政治論も、孔子、孟子に比べて、「徳」よりも「礼」を重んじた礼治主義ですね。
  荀子は、「本能」を「悪」と呼んでいます。しかし、これは明らかに誤りです。
 人間は”万物の霊長”であるけれども、やはり動物の一種です。一般の人々の観察や学者の研究によると、動物や植物を含む生物には、皆、本能があります。
 この本能についてくわしく述べると、たいへん複雑なことになりますが、きわめて単純に言いますと、動物の本能には三つしかありません。
 すなわち「生存すること」「衣食足ること」「発展すること」です。
 ここで「発展」とは、自分自身の発展と死後の発展を含んでおります。死後の発展とは、諺にある「代々、血統を継ぐ」ということです。
 告子が述べている「食と色とは性なり」の「食」はこの「三つの本能」の、どれにもかかわってきます。「色」は、「代々、血統を継ぐ」にかかわります。
 本能とは、生理的な概念であり、善悪は倫理的な概念です。この二者を混同することはできないし、しでもなりません。本能としての「本性」は、いわゆる善や悪というものではありません。ゆえに、性善説や性悪説は成立しないのです。
 ここで、人間の本性に対する私の考え方を述べておきますが、基本的には告子と似ております。しかし、彼と異なるところも少なくありません。
 「善悪とは何か」という考え方において、根本的な違いがあります。先に述べた「生存すること」「衣食足ること」「発展すること」という人間の本能は、どこから来るのでしょうか。
 いずれの宗教にも、それぞれの説があり、ある者は「神から授かった」と言い、ある者は「大梵天からもたらされた」と言い、ある者は、中国の文化人が「造化小児」と呼ぶ天老爺から来たものと言っております。
 仏教者は、「無我」「五陰」「因縁和合」と説き、今、述べた諸説とは異なっております。それが、仏教の高名なところでもあります。

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