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日蓮大聖人・池田大作

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7 日本における受容  

「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)

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1  聖徳太子と鑑真和上
  そこで今度は、池田先生に、日本での『法華経』の受容について、私のほうから質問をさせていただきます。
 日本ではどのように当初、仏教、なかんずく『法華経』が受け入れられていったのでしょうか。そのさい、聖徳太子はどのような役割を果たしたのでしようか。
 池田 わが国に仏教が公式に伝来したのは六世紀半ばとされています。『法華経』も、かなり早い時期に伝わったようです。ただし、朝廷が仏教を受容するには種々の障壁があり、時間がかかりました。
 仏は、新たにやってきた異国の神とみなされ、それを古来の神々のように宮廷にまつることには、ためたいがあったようです。
 『日本書紀』によりますと、六〇六年、聖徳太子が女帝の推古天皇に対して『法華経』を講義したとされています。現在、この聖徳太子の『法華経』講義については、史実かどうかの論争があります。
 それはそれとして、仏教を排撃しようとする勢力があるなかで、聖徳太子が異国の宗教である仏教、とくに『法華経』という高度な哲学的宗教を受容するうえで、先駆的な役割を果たした人物であったことは、確かです。
 聖徳太子の『法華経』理解の深さについては、貴国出身の鑑真和上も語っていたという伝承があります。鑑真和上は日本の民衆のために、艱難辛苦のすえ、来日しました。その思を今なお日本人は忘れていません。
 七四二年、遣唐使節として貴国に渡った日本人留学生の熱心な要請にこたえ、鑑真和上は日本への渡航を決意しました。しかし、五度にわたって渡航は失敗し、そのために失明までしました。
 そして、ついに七五四年、十二年の歳月を経て、悲願の来日を果たしたのです。そのさい、招来した経典類のなかに、「天台三大部」もありました。
  私は、鑑真の座像が安置されている奈良の唐招提寺を訪ねたことがあります。
 そのとき、私の気持ちは、いっぺんに一千年以上も前の歴史にさかのぼり、鑑真が生きていた時代に戻ってしまったかのようでした。
 このようなことを、かつて一度だけ体験したことがあります。それは、インドで玄奘遺跡を拝観したときです。そのとき、私は、玄奘の姿がいたるところに現れたような気がしました。それが、インドから日本に変わり、玄奘から鑑真に変わったのです。
 私が、この古刹の中で目にしたのは、鑑真の慈悲深く、おごそかな表情でした。
 鑑真が蓮華座の上に足を組んで座り、天皇、皇太子、貴族、平民のために、経を講じ、法を説き、戒を授けている姿が見えるような気がしました。姿ばかりでなく、その声まで聞こえてくるような思いがしました。
 鑑真は満腔の情熱をこめて日本を愛し、日本人民を愛しました。
 中国人民と同様に、中日両国人民の親しい関係を深く体得し、日本人民の幸せのために、自分のすべてを捧げ、人々を救うことができると考え、仏法を日本に伝えようと心に決め、決然と自分の祖国をあとにしたのです。
 池田 和上のその「心」を、日本人は永遠に忘れてはならないと思います。
 一九九八年、貴国の江沢民主席が「中国の国家元首」として、数千年の日中関係に、おいて初めて来日しました。
 私も、日本国民の熱烈歓迎の心を伝えるため、江主席と会見しました。席上、江主席が鑑真和上と同郷の揚州出身であることが話題になりました。
 私は「江主席も、友好への強い決意で、困難を乗り越え、こうして来日してくださった。”中日友好の先駆者”鑑真和上も、同郷の後輩である江主席の来日を喜んでくださっているにちがいありません」と申し上げました。
2  伝教大師と日本天台宗
  真和上に来日を要請したのは、遣唐使節の留学生でしたが、平安時代の伝教大師も、還学生として唐に渡り、天台宗を学んだのですね。
 池田 そのとおりです。
  彼は、日本天台宗を開きますが、『法華経』をどのように位置づけ、日本に流布させたのでしょうか。
 池田 日本人が『法華経』信仰を受け入れていくうえで、伝教大師による「日本天台宗の創設」は画期的な出来事でした。九世紀のことです。
 伝教大師は、『法華経』の「一乗思想」によってすべての衆生が成仏できることを説きました。
 しかも、他の経典の教えでは長期間の厳しい修行が必要とされるのに対し、『法華経』は、即身成仏の教えであると強調したのです。
 また、伝教大師は比叡山に大乗戒を授ける戒壇を建立することを朝廷に願い出て、死後一週間後に勅許がおりました。
 その後、日本天台宗は中心的な教団となり、日本中に『法華経』が広められていきました。
 平安時代の文学作品『源氏物語』や『枕草子』などにも、『法華経』や「天台本覚思想」の影響が大きいのです。
 『法華経』が「女人成仏」を説く経典であるため、女性の信仰を集め、それが平安時代の女性による文化の創造に力を与えた面もあります。
 「女人成仏」と言えば、平安時代の前の奈良時代に各地につくられた「国分尼寺」でも、『法華経』を根本経典としました。文学も、芸能も、生活も、日本文化の万般にわたって、『法華経』の影響は絶大だったのです。

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