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日蓮大聖人・池田大作

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4 マガダ語と半マガダ語  

「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)

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1  アショーカ王の碑文
 池田 では、もう一つお聞きしたいのですが、たしかに、釈尊はサンスクリットで統一することには反対しました。しかし、人々がまったくばらばらの言葉で語っていたのでは対話は成り立ちません。また、釈尊の言葉を人々が理解できません。
 そこで、どのような言葉がコミュニケーションの方法として使われてきたのでしょうか。
 釈尊の活動地域であったカピラヴァットゥ(カピラヴァストゥ、迦毘羅城かぴらじょう)、ラージャガハ(タ一ジャグリハ、王舎城)、サーヴァッティー(シュラーヴァスティ、舎衛城)等は、当時の大国コサラ、マガダの領土であったり、また、その影響力の強い地域でした。
 当時、マガダ、コーサラを中心とした交易も盛んだったことから考えて、おそらくマガダ語、あるいはそれに近似した方言がこの地域に通用した言葉だったと考えられます。
 また、アショーカ王の碑文は、数種の言語的傾向をもっているとされていますが、そのなかで釈尊の活躍したガンジス河流域に分布するものは、古代マガダ語の特徴をそなえているとされております。
 このようなことから、釈尊の言語はマガダ語もしくは、それに類似の語だったと考えられるのではないでしょうか。
 それぞれの人々は、それぞれの部族の語を部族のなかでは使っていたのでしょうが、マガダ語が、交易の関係から”わかる言葉””通じる言葉”として、自然のうちに広く用いられるようになっていたと思われますが、先生はどうお考えですか。
2  東インドの共通語
  おっしゃるとおりです。
 アショーカ王の碑文には、マガダ語とその変化形である半マガダ語(アルダー・マーガディー)が記されています。おそらく、釈尊はマガダ語を”母語”とする地域においては、マガダ語を話したのでしょうが、それ以外の地域においては、半マガダ語を使ったのでしょう。
 それらは釈尊の活躍したインド東部に共通して通用する言葉でしたから、それが自然に使われたのです。それは釈尊の「一つの言語を強制せず、多言語使用を認める」という態度となんら矛盾するものではありません。
 いずれにせよ、釈尊は言語について、人々の自然な使用を、おおらかに認めました。方言や俗語を認めたのです。それは、仏の教えが民衆のなかに入っていくのに大いに役立ちました。
 しかし、時代の進行とともに、サンスクリット化が進んでいきました。先ほどの『マハーヴァストゥ』における「アオリスト」の例が示すとおりです。そして、さまざまな経典がサンスクリットで書かれることになるのです。

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