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6 文章の力  

「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)

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1  散文の世界
 池田 季先生は幼少のころから、学問一筋であり、どのようなときも生き方が揺るがない。信念を貫かれております。七十歳台になってからも、大量の論文や著書を発表し続けておられます。
 多くの人が、先生のことを「中国東方学の創始者」と評しています。先生の信念と情熱を支えてきたものは、いったい何だったのでしょうか。
  私は幼少時代から教育、研究、文学創作にたずさわろうと決めていました。
 役人になろうとか、商売をしようとはまったく思いませんでした。青年時代、名利を求める考えがなかったとは言えませんが、あっても淡白なものでした。
 人はこの一生で必ず、先人の智慧の宝庫をさらに輝かせ、日増しに充実させ、代々伝え、後世に利益がもたらされるようにしなければなりません。
 ゆめゆめ名誉や利益のために束縛され、この一生を空しく過ごしてはならないと思いますす。
 池田 小さな名利など、かなぐり捨てて後世のために活路を開くかんとする先生の情熱を、誠実を感じます。
 季先生は名文家としても有名です。
 早くも高等学校時代から、小説を創作されている。これまで膨大な散文や随筆等を発表され、また多くの翻訳書を発刊されております。
 しかも文章は、たいへんに格調高い。また、流麗です。貴国の幅広い読者層を魅了しております。本年一月に発刊された、先生の回顧録『我的求学之路』(『私の求学の路』)も、北定大学の近くの書店でベストセラーになっていると聞きました。
  私は小さいころから文章を書くことが好きでした。散文、随筆を書き始めてから、七十年以上になります。
 池田 季先生の散文は、題材は身近なものが多い。それでいて、独自の風格をそなえておられる。読む者に人生を深く省察するよう、うながします。
 ”国民文学の父”と言われた日本の吉川英治氏は「生活の最前線に立って、実社会に働いている人こそ、ほんとの文学を体験し、ほんとの時代人である」とし、そこから学んで、表現の労をとるのがほんとの生きた文筆の人である」(「草思堂随筆」、『吉川英治全集』52所収、講談社)と述べております。
 生活という大地に”根”を張ってこそ、文章はみずみずしくなります。
  この世界のあらゆる所には、芽生えようとする生命が満ちており、にぎやかな人々の営みがあります。
 老婦人の皺だらけの顔に浮かべた微笑み、りんどのような幼児の赤いほっペた、農民のまめだらけの手、労働者の作業衣に点々とついた油のシミ、学生の朗々とした読書の声、教員宿舎の窓からこぼれる灯火ーーこれらはありふれた光景です。
 しかし、これらの人々の営みを深く理解しようとすれば、人々の感動的な思いを、感じとることができるのではないでしょうか。これらのありふれた平凡な光景を、心の中に深く取り込み、それらを融合して、きわめなければなりません。
 池田 おっしゃるとおりです。
 私も小説『人間革命』の新聞連載を開始してから、三十七年になります。現在も、続編の『新・人間革命』を執筆しています。
 新聞の連載小説は過酷な作業です。しかし、私は日本の名もなき庶民が、民衆の幸福のために、勇敢に身を捧げて生きてきた、その尊き歴史を後世に顕彰したいとの思いから、書き続けております。
 また、折にふれて詩もつくっております。
 季先生の優れた散文にふれるたびに、「創作」は人生を豊かにする無限の泉であると感じます。
  散文は全体を通して、生き生きとイメージを描き出し、かつ詩情に満ちていなければなりません。
 読者が読み終えたあと、まるで美しい詩を読み終えたような気持ちにさせなければなりません。
 私は、詩を書くように、散文も書かなくてはならないと思います。
 私の文学創作のおもなものは、散文と随筆です。私の目的は、内心の感情を述べ表すことです。心と物が結びつき、喜怒哀楽がそれにともなって生じます。述べ表さないわけにはいきません。
 その意味で、私の散文は「書いた」ものではなく、「流れ出てきた」ものだと、つねづね言っています。
 池田 心ですね。文は人、文は心です。
 貴国では古来、「詩なる者は志の之く所なり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す」(「毛詩序」、竹田晃『文選』〈文章篇〉中〈前掲『新釈漢文体系』83〉所収)と言われます。詩とは志のおもむくところを言語で表現したものだ、と。
 また、魏の文帝が著した「典論論文」の言葉には「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」(同前、下〈同体系93〉所収)ーー文章は国を治め、整える大事業であり、また永遠に朽ちることのない盛大な事業であるーーとあります。中国の人々は、文章が本来もっている大きな力を知悉していました。
2  善書と悪書
 池田 ところで、季先生の読書好きは有名です。すでに中学生のころから”読まない本はない”と言われたと聞きました。
 だれしも青春の日に学んだ一書一書が、人格形成に大きな影響を与えています。先生に最も影響を与えた書物について、お聞かせください。
  それは、儒家の『論語』『孟子』等、道家の『荘子』『老子』等です。
 仏教では仏伝『ラリ夕ヴィスタラ(Lavitavistara.遊戯の詳細)』、『妙法蓮華経(法華経)』等です。
 池田 『妙法蓮華経』は、この「てい談」の中心話題となる一つです。
 また、私も、中国の古典の『論語』や『孟子』等に親しみましたが、それらに包含された「東洋の智慧」についても、のちほど語りあいましょう。
 季先生は、本の善し悪しを決める基準について、どのように、お考えでしょうか
  そうですね。書物の善し悪しの基準、役に立つか立たないかの基準は、人によって違うかもしれません。
 私が考える基準は、次に申し上げる項目を満たしているかどうかです。
 一、その本が人の前進を励ますことができるか、もしくは後退させるか。
 一、その本が人に楽観的精神を与えるのか、悲観的にさせるのか。
 一、その本が人の智慧を増すのか、愚かさを増すのか。
 一、その本が人の倫理道徳のレベルを高めるのか、下げるのか。
 一、その本が人に力を与えるのか、惰弱にするのか。
 一、その本が人を励まし、困難に立ち向かわせるのか、屈服させるのか。
 一、その本が人に高尚な美感を与えるのか、それとも低級で下品な感じを与えるのか、です。
 池田 明快な基準を示していただき、ありがとうございます。
 読書は青年の権利です。青年がこの基準に照らして、良書に親しむととを願うものです。
  私はかつて、池田先生の『人生抄ーー池田大作箴言集』中国語版の序文を書かせていただきました。
 この七つの基準から先生の『人生抄』を推し量りますと、すべてあてはまると思いました。
 人に前進する力を与え、人に楽観的精神を与え、人に智慧を与え、そして人の精神を高め、人の倫理道徳のレベルを高め、人に力を与え、人が困難に立ち向かわせるのを助け、人に高尚な美感を与えてくれるのです。
 この本を読み、私自身も美しくなっていくように感じましたまた心の中に、青春の活力がみなぎってくるようでした。
 もっとも、私は、良い本も悪い本も全部読みます。良い本を読むのは栄養を吸収するためで、悪い本を読むのは、いったいなぜ悪いのかを見るためです。反面教師にすることができます。
 もちろん、自分自身の研究に関する本は、読まないわけにはいきません。それは多ければ多いほどよいのです。
 池田 お互いに、本の話になると、話が尽きません。
 私の恩師・戸田先生は「青年は世界的な文学をつねに読んでいきなさい」と教えられました。良き文学は人の心を広くします。人の心を引き上げてくれます。
 青年時代、夜学の帰り、古本屋街へ寄っては、ためた小遣いで古本を手に入れたーーあの喜びは忘れられません。感銘した文章はノートに書き写し、次々と読破したものです。
  書物は人類の智慧が貯蔵された宝庫です。読書をしなければ、先人の智慧を受け継ぐことはできません。まして、いっそうの発展向上には、とうてい及びません。
 二十一世紀の青年は必ず読書をしなければなりません。しかも、多ければ多いほど良いのです。これは、当然の道理です。

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