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季羨林

「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)

前後
1  池田大作先生は、国際的に著名な日本の社会活動家、宗教活動家、国際活動家であります。氏はこれまで国際的に名だたる学者や政治家、たとえばイギリスの歴史学者A・トインビー、アメリカのH・A・キッシンジャー等と対談を繰り広げてこられました。
 対談の内容は、中国語、日本語、英語などで出版され、国際的に好ましい影響を及ぼしてきました。これらの対談集は、人民と人民との間の理解と友情をうながし、当今の国際的な基調をなす平和と発展に大きく貢献してきました。
 池田大作先生は、中国とは格別の関係があると言えます。氏は十回にわたって訪中し、中国の学者や宗教界の人々と広く交流をもってこられました。氏は北京大学の名誉教授であり、また、他の大学でも名誉教授の称号を授与されています。また、氏の尽力により、中国の大学へ図書や機器が寄贈されました。氏は中国人民大衆に喜んで迎え入れられている人物であります。
2  このたび、池田大作先生は、中国の学者と「てい談」する運びとなりました。私も「並び大名」に甘んじ、末座に陪席させていただく栄誉に浴しました。氏と蒋忠新氏との対話は、おもに『法華経』に関する内容でありました。蒋氏は、数十年にわたって『妙法蓮華経』のオリジナル梵文の研究を積み重ねてこられましたが、なかでも、中国旅順博物館所蔵の新彊しんきょう(シンチャン)の『法華経』梵文オリジナル断簡の研究については、とくに力を入れ、数多くの新しい発見をみています。
 『法華経』は、創価学会にとって根本とすべき中心経典であります。池田大作先生もこの経典に関してはたいへん造詣が深い。ゆえに、両専門家の『法華経』をめぐる対話は、縦横無尽で、ひときわ精彩なものとなりました。とぎすまされ、含蓄に富む言葉がまるで万斛ばんこくの泉源のようにとめどなく、いたるところにわきだし、人々の視界を広げ、人々の悟性を啓発してくれます。このような対話にふれることは、まさに最高の享受でありましょう。
3  私自身と池田大作先生との対話は、東洋文化と西洋文化との同一性と差異性にその重点がおかれました。私は哲学者でもなく、ましてや思想家ではありません。私は哲学的な分析は不得意であるし、哲学的分析というのもあまり好きではありません。西洋の一部哲学者のあの微に入り細をうがつような分析は、敬服を超えて、驚異を感じるほどです。それは、私には理解しがたく、どこまで行ってとどまるのかわからないようにも感じられます。私は、素朴で飾り気のない人間であり、手ごたえのある具体的なものを好み、漠然とした、摩訶不思議なものには興味がありません。
 しかし、私にも少しばかり長所があります。それは、頭を休ませないということです。私は禅学については少しかじっただけですが、私の思考方式は禅宗にやや近いようです。私は、最大限のマクロ的観察のもとで、子細に東西文化の発展や変遷の軌跡を思索していましたが、ほとんど瞬時のひらめきのようにして、東洋文化の復興を悟りました。すでに十数年前から、私は、東西文化には根本的な相違、すなわち、東洋は総合、西洋は分析という相違があり、「天人合一」の思想は東洋文化の特徴であることを提起してきました。
 そして、「天人合一」という中国哲学史上有名な命題に新たな解釈を与えました
 それはすなわち、「天人合一」とは、大自然と人間との「合一」をさすというものでした。さらに、東西文化は、歴史上相互に交替しながら盛衰していくという見解をも提起しました。私は中国でよく使われる「三十年河西、三十年河東」という言葉を用いて、この見解を表現しました。
4  私がこの見解を提起したとき、読者の間では賛成派と反対派の二派に分かれました。これはきわめて正常な現象であります。古今東西、賛成者しかいないという考え方は皆無であります。賛成者について、私は当然のことながらうれしいが、反対者についても、不機嫌になるということはないのです。私は論争しないし、反論もしません。私は「真理は議論を重ねるほど明らかになる」ということは信じていないのです。中国の春秋戦国時代、百家が争鳴し、議論は熾烈をきわめました。しかし、どの思想家も論争に敗れたことによって自分の主張を放棄することはなかったのです。
 私は、皆で一緒に『三岔口さんちゃこう』(訳者注・京劇の演目。相手を殺そうと思って格闘する二人がじつは不正を憎む同志であったことが最後にわかり、誤解がとける物語)を演じることを主張するものです。あなたは、あなたの主張をし、私は、私の主張をする。最終的には観衆自身に是非を判断してもらえばよいのです。
5  最近、私は『文明と経済の衝突』(第二海援隊、中国語訳書題『東西文明沈思録』)という書物を読みました。原作者は日本の有名な学者である歴史家の村山みさお氏と日本の経済評論家で作家の浅井隆氏です。また、訳者は中国国際ラジオ局日本語部の夏文達か ぶんたつ等の諸氏です。出版年月は
 二〇〇〇年四月、出版社は中国国際広播出版社です。
 出版社は、次のように、簡潔かつ的確に本書を紹介しております。
 「作者は、時空を超越した大きな視野に立って、世界文明発展の歴史やグローバル経済の現状について研究し、さまざまな文明には、誕生、生長、繁栄および消滅の過程があることを指摘しています。東西文明間には衝突があるとともに、相互補完性があるのです。文明の衝突は文明の中心の推移に表れます。作者は、世界の歴史は、文明の中心で勝手、気ままに起伏する盛衰の連続のなかで、たえず上演されるものであると考える」と。
 続けて、出版社は、村山節氏が提起する「世界文明八年周期説」を紹介し、「現在、世界文明の中心はまさに東洋へ向かって推移しつつある。二十一世紀は東西文明の衝突、融合、および交替の時代である。二十二世紀以降は、アジアの時代になるであろう」と。
 さらに本書の浅井隆氏の「序言」注〔6〕の中で、作者は「東西文化のもっとも根本的な相違は、思考方式の違いにある。東洋の思考方式、東洋文化の特徴は『総合』であり、西洋の思考方式、西洋文化の特徴は『分析』である。哲学者の言葉を借りれば、西洋は一を二に分け、東洋は二を合わせて一とするのである」(寵桝)と述べています。
6  もし、私が本書に自分を重ね合わせるととをお許し願えるならば、これはまさに私の主張そのものであります。私のこの主張は、過去七、八年にわたって、多くの論文や発言、さらには厳粛で盛大な国際会議のなかで、公開し、発表してきたものです。本書の中にもふれられているとおりであります。
 世界文化の中心が東洋に向かって推移するのに、どのくらいの時間を要するかという問題について、今世紀にはその兆しが現れるであろうというのが私の考えです。『文明と経済の衝突』の作者の予言によれば、それは二十二世紀であると言います。この問題については、論争しようがないので、歴史にその結論をゆだねることにしました。
7  現在、世界のある大国は、右手に警棒を持ち、左手に原子爆弾をのせ、他の国を「悪の枢軸国」などと指摘して責めているのです。天下唯我独尊であります。平和を愛する世界市民には、それはまるで道化役者のように映っているのです。
 ここで私は東西の諺をそれぞれ一句ずつ、つつしんでこの国の人民におくります。中国の古い言葉「多くの不義を行えば必ずみずからたおる」(多くの不正を行えば必ず自滅する)、そして、西洋の諺「神がだれかを滅ぼそうとすれば、必ず先にそのだれかを狂わせる」です。これらは、長年にわたる経験にもとづく結論であり、絶対に間違いないものであります。
 先の言葉は意味もなく発したわけでは決してないのです。これらは東西文化の盛衰と関係があるからこそ、思わず心が高ぶって発したわけであります。私は、その大国のなかでも、真に国を愛し、平和を愛する人民は、それらの言葉に反発を感じることはないであろうと信じています。世界中どの国であれ、国を愛し、平和を愛する人民の心と心は、つねに相通じているものです。
8  振り返って、ふたたびわれわれの「てい談」を読むと、三人の作者のうち、一人は日本人、二人は中国人です。国籍は異なるが、志は同じであります。われわれはともに世界人民が平和、幸福で、そこには理解と友情だけがあり、憎しみや対立がないことを願っています。
 仏教では「浄土」と説き、儒教では「大同の世界」と説いております。それぞれ名異実同で、手段は異なっても目的は同じなのです。私は、われわれのこの一書がその分野で貢献してくれるであろうことを祈っております。善哉! 善哉!
   二〇〇二年六月七日

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