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第十一章 「ユマニテの光」で世界を照ら…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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2  『レ・ミゼラブル』に見る聖職者の姿
 金庸 分野が何であれ、偉人が常に立ち返り、振り返るべき、ある意味ではフランスの「原点の人」。それがユゴーだということでしょうね。
 池田先生は、戦時中の苦難に満ちた歳月のなかで、ユゴーの大長編『レ・ミゼラブル』を読んでいたと回想されました。これは原題を、そのまま日本語で表記したものですね。中国語の題名は『悲惨世界』といいます。
 中国語の訳は、日本に留学したことのある中国の僧侶で、文人としても有名な蘇曼殊が翻訳したものです。フランス語の題名を直訳すると「惨めな人々」となりますから、『悲惨世界』という中国語の題名は、原文の意味を適切に訳出しているといえます。
 近年、イギリスの作曲家と劇団が、この小説をミュージカルに編み直しました。とても素晴らしいできばえで、シンガポールでも香港でも上演されました。私は香港で鑑賞しましたが、音楽は人を引きつけてやまず、演技も歌唱も精彩を放っていました。パリの街頭で戦われた市街戦の場面は、実に凝った工夫がなされ、よく考えられていました。
 池田 日本でのミュージカルも好評で、ロングランを続けています。ちなみにエポニーヌ役として絶賛を博している島田歌穂さんは、私どものメンバーなんです。
 金庸 そうでしたか。さすがに各界の人材がそろっていますね。
 ただユゴーの原作は雄大で深遠です。その魅力を、わずか二、三時間のミュージカルで再現することは、到底、望むべくもありませんでした。これに比べて、ロンドンで鑑賞したミュージカル『オペラ座の怪人』のほうが、ずっと良い印象を受けました。なぜならば、こちらの原作は、フランスのただの通俗小説です。どう編み直そうとも、「これでは原作と違いすぎる」という幻滅が起こらないからです。(笑い)
 池田 そうですね。以前、ある若い人が話していました。「結局、演劇や映画は、原作となった小説とは別ものだと考えたほうがいいかもしれない」と。
 たとえば、原作を読む前に映画を観て感動したとする。そのあとで原作を読むと、どうしても映画に出てきた俳優なり女優のイメージが残ってしまって仕方がない。一例を挙げれば、オードリー・ヘプバーン主演の『戦争と平和』を観たあと、原作を読むと、どうしてもナターシャの顔がヘプバーンの顔に重なってしまう――そんなことが、ままあるようです。(笑い)
 金庸 よくわかります。
 私が最初に『レ・ミゼラブル』を読んだのは、十五、六歳のときです。『蘇曼殊全集』に収められていた中国語訳でした。ただ、これは物語の、ごく初めの部分しか訳されていませんでした。つまり、主人公のジャン・バルジャンが、司教の銀食器を盗んで警察に捕まり、司教が彼をかばい、盗難の事実すら隠すというところで終わっていたのです。
 池田 ミリエル司教という人物には、聖職者としてあるべき姿が描かれていますね。
 たとえば、こう綴られています。
 「『いちばん美しい祭壇は』と彼は言っていた。『慰められた、神に感謝している、不幸な人の心です』」(『レ・ミゼラブル』〈1〉佐藤朔訳、新潮文庫)
 質素な生活。己には厳しく、人には限りない慈しみを注ぐ人格。不幸な人々を「患者」「病人」と呼び、自らは"医者"として奉仕する「献身」の行動――宗教を問わず、宗派を問わず、聖職者としての「振る舞い」の理想です。残念ながら現実は「俗よりも俗」の堕落した聖職者が多いことも事実ですが。
 金庸 池田先生が、そうした堕落した聖職者と戦っておられることは、私も仄聞しています。
 ともあれ、『レ・ミゼラブル』に私は当時、わずかの断片ではあっても、心を揺さぶられる思いがしました。その衝撃は、他の作家の作品とは比べようのないほどでした。文学的価値からいっても、それは、大デュマ、そして私が愛好する、もう一人のフランスの小説家であるメリメといった作家たちの作品の、はるか上に位置するものだということが、はっきりわかりました。
 文学の風格、真価というものは、不思議ですね。たとえ見識の足りない若者でも、作品の違いは明瞭につかめるものだと思います。
3  ユゴーには「詩」「魂の炎」「宇宙の律動」が
 池田 「ユゴーには『詩』がある。燃え上がる『魂の炎』があり、万物を包みゆく『宇宙の律動』がある。虐げられた人々への『慟哭』があり、虚偽や不正への『怒り』がある。そして、たぎらんばかりの正義への『渇望』がある。ヴィクトル・ユゴーは、わが青春の伴侶であった。否、私の生涯の、というべきか」――かつて、私は、こう綴ったこともあります。
 ユゴーの「ユマニテの光」。それは、眼前の苦悩する一人の「人間」に注がれる。そして、そのような悲惨を生み出している現実の「社会」を撃ち、すべての人々の共生を可能とする理想の「世界」を構想している。さらに、自然・大地・生命の揺籃ともいうべき「宇宙」へと広がっていく。
 ミクロの世界からマクロの世界までを見つめ、包み、はぐくんでやまない「力強いまなざし」が、ユゴーの作品の特色です。
 金庸 そのとおりです。
 池田 『レ・ミゼラブル』の巻頭には「地上に無知と悲惨がある以上、本書のような性質の本も無益ではあるまい」(前掲書)と記されています。ユゴーの文学的情熱は、何よりも現実の社会のなかで貧乏や飢えに苦しむ民衆への熱い同苦の思いで貫かれていました。自分の個人的な生活の世界に閉じこもり、独り言にも似た、難解な言葉をもてあそぶ、現代作家の「高踏的な」気分とは無縁です。
 そうしたユゴーの社会意識は、ご存じのように、「ヨーロッパ合衆国」という理想の未来をも描くにいたりました。列強各国が、国境という一本の線をはさんで、流血の角逐を繰り広げてやまなかった世紀に、時代を大きく先取りする雄大な構想をもちえたということ自体、やはり驚嘆すべきでしょう。
 金庸 私がユゴーの「ユマニテの光」を理解したのは、彼の詩からではなく、彼の小説からです。一般に、外国の詩を中国語に翻訳して読者を感動させることは、容易なことではありません。ユゴーのロマン派戯曲、たとえば『エルナニ』は、かなり早い時期に中国語に翻訳されています。私は、作中の激高した吟詠から、彼の激しい情熱と「魂の叫び」を感じ取りました。
 池田 たとえば、こんな言葉でしょうか。
 「脇腹から血を流している者のほうがよく覚えているものなのだ。辱めた者は愚かにも忘れてしまうが、受けた侮辱は生きながらえ、辱められた者の心のなかでいつまでもうごめいている」(『エルナニ』杉山正樹訳、中公文庫)
 生涯、「虐げる者」と戦ったユゴーの叫びが聞こえてくるような言葉です。
 金庸 ユゴーと大デュマに共通しているのは、シェークスピアとスコットの強い影響を受けて、歴史を題材にしたロマン派冒険小説を書くようになったということです。イギリスの大小説家・スティーヴンソンが、大デュマを愛好した理由も、ここにあります。
 一九九三年春、私はエジンバラ大学の招きを受けて、小説に関する講演を行いました。このとき、講演に先立って挨拶しました。
 池田 どんな挨拶をされたのですか。よろしければ、お聞きしたいものです。
 金庸 少々、長いのですが、こんな話をしました。
 「昨日、私と妻はエジンバラの市内を散歩しました。ウォルター・スコット卿の像の前では、しばらくの間、たたずみ、彼の小説に描かれている英雄や美女に思いを馳せておりました。
 また、エジンバラのもう一人の大小説家ロバート・スティーヴンソンにも、心が動きました。聞くところによれば、大デュマはイギリス人に出会うたびに、必ず熱情あふれる態度で接し、心のこもったもてなしをしたそうです。それはスコット卿の小説から受けた教導に報いたいという一心からでした。
 本日、私がエジンバラにやってきましたのは、小説について話をするためですが、申し上げることは一言しかありません。すなわち私が小説を書けるようになったのは、すべてエジンバラの二人の偉人から受けた教導と啓発によるものだということです。二人とは、ウォルター・スコット卿とロバート・スティーヴンソンです。ですから、自分が会得したものとか、意見などを述べようというのではなく、私はただ、貴市の二人の偉人に対して、敬意と感謝を捧げるために、ここにやってきたのです」
 池田 謙虚なお言葉です。エジンバラの人々も感動したことでしょう。
 ユゴーに「ウォルター・スコットを論ず」と題する文章があります。そのなかで彼は"詩人の使命"をめぐって、いかにもロマン派の驍将らしく、詩のエネルギーや、言葉のもつ、人を鍛え導く力について、確信に満ちて語っていますね。
 社会に背を向けて自己に閉じこもるのではなく、社会に真っ向から向き合っていく。世の悲惨、矛盾と戦っていく。ここに掲げられた"詩人の使命"とは、ユゴーの文学そのものです。おそらくスコットの作品についても、そうした意味から、ユゴーは共感するところが大きかったのではないでしょうか。
4  『ノートルダム・ド・パリ』にみる"魔女狩り"
 金庸 ところで『レ・ミゼラブル』のほかに、印象に残るユゴーの長編小説といえば『ノートルダム・ド・パリ』があります。中国語訳は『鐘楼駝侠』といいます。
 「侠」という字が際立った印象を与えますが、同書を原作にした映画やアニメでも、同じ題名が採用されています。
 ご承知のようにノートルダムは、パリの中心部に位置するカトリックの大聖堂です。二つの塔が並び立ち、壮大で華麗な建築を誇るこの大聖堂が、小説の舞台です。
 池田 作品のなかでユゴーは、「ノートルダム」と名づけた一章を設けており、大聖堂の意匠、建築様式、歴史などについて、実に詳しく書き込んでいます。
 「フランス史のシンボル」としての大聖堂に、ユゴーは非常に強い思い入れをもっていたようですね。
 金庸 先生は内容をご存じでしょうが、『レ・ミゼラブル』ほど有名ではありません。あらすじだけでも読者に紹介しておきましょう。
 小説では、その大聖堂の鐘つきをしている、カジモドが重要なカギを握る人物として描かれています。この男は、ずば抜けた腕力の持ち主なのですが、外見は醜怪きわまりない。背骨が弓なりになって、前かがみの姿勢。歯をむき出しにし、目をむいた凶悪な形相。それは歪んだ口と垂れ下がった鼻のために、より一層、不快な感じを人に与えています。まったく人間とは思えない姿をしているわけです。
 池田 舞台は中世でしたね。また、作品が書かれたのは十九世紀です。その当時の時代感覚も反映されていることを考える必要がありますね。
 金庸 そのとおりです。中世という時代ですから、人々は迷信を信じており、彼の醜悪さを忌み嫌って、化け物扱いします。そして彼を高台に縛りつけ、鞭打った揚句に、照りつける太陽の光にさらして、殺そうとします。
 しかしジプシーの踊り子・エスメラルダが彼を哀れみ、高台によじ登って飲み水を与えます。こうして彼は死なずにすみます。
 エスメラルダは絶世の美女ともいうべき容貌です。ダンスを踊り出せば人々を魅了してやまず、観衆は魂が抜け落ちたかのような感覚にとらわれるのが常でした。
 ところが、そのために人々は、彼女が魔女であると信じ込むようになり、彼女を捕まえて縛り上げ、絞首台に送ります。
 池田 "魔女狩り"といえば、現代でも構図は変わりません。デマや誤った風聞を流すことによって、特定の人間を悪者に仕立てあげていく、権力者の常套手段です。エスメラルダへの迫害は、その原型を浮き彫りにしています。
 ところで、もう一人、主要な登場人物として、警備隊長のフェビスがいますね。カジモドと同じくエスメラルダを恋慕する。しかし、カジモドとは大きく違い、エゴイズムの塊のような、醜悪な人物です。
 ユゴーは、全編の終わりに「フェビスの結婚」「カジモドの結婚」という二つの小節を並べ置きます。その詳細は略しますが、フェビスのほうは、エゴと打算の帰結としての結婚を、カジモドのほうは、誠実な生命の輝き、きらめきに満ちた「永遠の愛」を描きます。二人の人間像が、好対照として描かれています。
 金庸 フェビスは、才能と風采に恵まれ、あか抜けた青年です。しかし、エスメラルダが暴徒と化した群衆に捕まるところを目撃しても、かかわりを恐れ、まるで見ず知らずのように無関心を装い、馬を走らせ、その場を通り過ぎてしまいます。絶体絶命の危険から彼女を救い出すために奮闘したのは、カジモドでした。
 二人は大聖堂に逃げ込みます。すると聖堂の副司教であるクロード・フロロが、彼女の美貌の虜になり、権威をカサにきて、自分の女になるよう迫ります。しかし彼女は断固として拒絶する。群衆は彼女を奪い取るために聖堂に乱入しようとしますが、カジモドが鐘楼の上から大きな石を投げ落とし、梯子を登ってくる暴徒たちを食い止めます。
 副司教は混乱に乗じて彼女を脅しながら聖堂を抜け出し、森の中へと逃げていきます。そこでも副司教は、あくまで自分の欲望を押しつけようとしますが、やはりエスメラルダは従おうとはしません。邪恋に狂った副司教は、憤激のあまり、彼女を暴徒に引き渡してしまいます。
5  ユゴーの「人間」を見るまなざしの深さ
 池田 フロロという人物は、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教と、まったく正反対の聖職者です。
 それにしても善玉につけ、悪玉につけ、ユゴーの作品にも聖職者が、よく出てきます。ヨーロッパの精神史に、良い意味でも悪い意味でも、キリスト教が、どれほど深く根を下ろしてきたかということの証左でしょう。
 ミリエル司教のような例もありますが、どちらかといえば、悪玉の描き方のほうが、真に迫っている。(笑い)
 「教会は、それが触れるもの一切を弱くする」(『格言集』大山定一訳、人文書院)とはゲーテの言葉です。一般的に聖職者とは悪事をはたらくものだという認識が、そこにはある。
 これは日本でも同じで、一種の歴史の経験則のようなものでしょう。江戸の昔から「出家、さむらい、犬畜生」といって、庶民から忌み嫌われる筆頭に挙げられてきました。
 金庸 中国の歴史でも、事情は似たりよったりです。(笑い)
 作品ではカジモドが身を挺して、エスメラルダの救出に向かいます。しかし、彼女を待っていたのは、絞首刑でした。彼女の死に憤怒したカジモドは、まず副司教を高い壁の上から突き落として転落死させます。それから彼女の遺体を奪い去り、いずこともなく消えていきます。
 数年後、二人は荒れ果てた共同墓地で白骨化した死体として発見されます。カジモドの死体は、ジプシーの踊り子の死体をしっかりと抱きしめていました。白骨は、すでに風化しはじめており、一部はもう塵と変わらなくなっていました。
 池田 愛の無償性というか、「無償の愛」が美しく描き上げられていますね。
 ジャン・バルジャンといい、カジモドといい、無学文盲に近く、しかも負いきれぬほどの負い目を背に、それでも必死に生きようともがいています。純粋な愛というものは、知性や教養の粉飾が凝らされる以前の、そうした無知なる、そして無垢なる魂にこそ宿るのではないか――カジモドの愛と死は、そう訴えかけているように思えます。そこに、ユゴーの「人間」を見るまなざしを感じます。
 金庸 まったく同感です。この小説では、どんな外見の人物のなかにも、きわめて美しく高尚な魂が宿っていること、そして君子然とした副司教や、風采のよい青年隊長のように、見た目の良い者のほうが、かえって内面は醜悪きわまりないということが描き出されています。
 またユゴーは同時に、暴徒と化した群衆の無知、迷信、妄動、残忍さを浮き彫りにし、その危険性に警鐘を鳴らしているのです。
 池田 そうです。ユゴーは決して、革命を手放しで歓迎し、喜んでいるわけではありません。『レ・ミゼラブル』にも、こうあります。
 「大衆は世人の言うままになりやすい。大勢でいることが、無感覚をあらわにする。群衆はたやすくひとまとめに、服従する」(前掲書〈4〉)――彼は、民衆という存在がもつ「負」の側面を見落としてはいません。民衆とは「賢にして愚」であり、「愚にして賢」であるという実像を、正視眼で見つめていたのです。
 ユゴーだけでなく、たとえばフランス革命に材をとった優れた小説は、大なり小なり、そうした近代革命というものが、半ば宿命的に引きずっている暗黒面、つまり独裁やテロの恐怖や、それを支える民衆(愚衆)の怨念と、狂おしい熱狂といった側面を描くことを忘れていません。ディケンズの『二都物語』にしても、アナトール・フランスの『神々は渇く』にしても、そうです。
6  誠実は人間の一番の資質
 金庸 先ほど池田先生も指摘されましたが、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教は、真の聖人です。
 主人公のジャン・バルジャンは、司教の銀食器を盗み出しますが、警察に逮捕され、司教の家へ連れ戻されます。しかし司教は彼のことを思って、盗みの件を隠しただけではなく、彼に銀の燭台まで与えます。ジャン・バルジャンは、このときに受けた感化を終生忘れず、善の行為に徹し続けます。まさしく人道主義の精神あふれる大長編です。
 池田 いわば「徳の勝利」です。しかも、この作品には二つの「徳の勝利」が、いわば二重写しになっている。一つは、ジャン・バルジャンに対するミリエルの勝利。そして仮借なき、非情の追跡者ジャヴェールに対するジャン・バルジャンの勝利です。
 ちなみにもう一つ、いかにもユゴーらしいイメージ化だと思うことがあります。それは、慈愛の心の広大さを知らず、善の光を知らない人間を表すイメージとして、ユゴーが「ふくろう」という言葉を使っている点です。
 ユゴーはミリエル司教に感化され改心する前のジャン・バルジャンについても、またジャン・バルジャンに一命を救われ、自らの職務と人道の狭間で悩み苦しむジャヴェールについても、同じく「ふくろう」と表現しています。こうしたイメージは、ユゴーの人間観と深く結びついているようです。
 ユゴーは、こう記しています。
 「人間の真の区別はこうである。輝く人と、暗黒の人。暗黒の人間の数を減らして、輝く人間の数をふやすこと、それが目的である。教育!学問!と人びとが叫ぶ理由はそこにある。読むことを学ぶことは、灯りをつけることである。拾い読みをしたすべての綴りが、光を放つのである」(前掲書)
 これが、ユゴーの人間観でした。「暗黒の人」を評して「ふくろう」としたのも、こうしたユゴーならではの人間観の表れの一つではなかったでしょうか。
 金庸 的確なとらえ方だと思います。ジャン・バルジャンは、貧窮にあえいでいた若き日、飢餓のために気息奄々としている家族のため、パンを一本盗んで獄につながれます。当初、刑期は五年でしたが、獄中で陰惨な虐待を受けるなか、苦痛に耐えかねて脱獄を繰り返します。捕まるたびに刑期が追加され、結局、一九年間服役しました。
 釈放された後も、定期的に監獄に戻り、報告する義務が課せられました。さらに、身分証明書には徒刑囚だったことが明記されていた。そのため、彼の面倒をみようという人間などおらず、仕事を見つけるすべもありませんでした。
 ジャン・バルジャンは名前を変え、あらゆる艱難辛苦のなか、勤勉と倹約を心得ながら、困難を一つ、また一つと乗り越えます。やがて経営者として手腕を発揮していき、ついにガラス工場を成功させるのです。
 彼は労働者を大切にし、進んで慈善事業を行い、さまざまな施設に寄付しました。こうしたことから人々の敬愛を受けるようになり、市長に推されます。
 池田 それがマドレーヌですね。「マドレーヌさんは、男には善意を、女には純潔を、すべての人に誠実を求めた」(前掲書〈1〉)とあります。実に簡明そのものです。マドレーヌと名を変えたジャン・バルジャンのいわば座右の銘は、「誠実」でした。
 たしかに「誠実」というものは、人間の一番の資質でしょう。人間の徳目には、いろいろありますが、私が今までの経験を総括していえることは、その人間の人格の輝きの一番の光源となっているものが「誠実」であるということです。
 立場がどうあれ、外見がどうあれ、人間、結局は「誠実さ」で決まる。「誠実さ」こそは、人間の社会を人間の社会たらしめる根本でしょう。
7  悪のしつこさに打ち勝った「誠実さ」
 金庸 ところが、そこに登場するのが、先ほど池田先生が触れられた、警部のジャヴェールです。ジャヴェールは以前、監獄に勤めていたことがあり、市長がジャン・バルジャンではないかという疑いを、執拗にもち続けます。
 ジャヴェールが、証拠を握ろうと躍起になっていたある日のこと。荷馬車が転倒して、一人の老人が下敷きになっているところを通りかかります。一刻の猶予も許されない、危険な状況です。このとき、ジャン・バルジャンが人並みはずれた体力で、荷馬車を押し上げ、老人の命を救います。
 警部は、その怪力を目の当たりにして、彼こそが獄につながれていたジャン・バルジャンであるという確信をもち、上司に報告します。
 池田 ジャヴェールという男は、とにかくしつこい(笑い)。毒蛇のような執念深さと陰湿さを発散しています。しかもそれを正義と思い込んでいる度し難さ。ともかく読んでいて嫌になるぐらい、悪の代名詞のような人間です。
 この人物が端的に象徴しているように、とかく悪というものは、根強く、しつこく、執念深いものです。私どもの牧口初代会長は、"悪と戦わない善は悪に等しい"と叫びました。悪と戦う以上、善にも悪と同じくらいの執念、粘り強さがなければいけません。でなければ、悪に競り負けてしまいます。
 金庸 ええ、まったくそのとおりです。
 ジャン・バルジャンの工場に勤める、ある女工は、一人娘を里子に出していました。しかし里親から再三ゆすられる。養育費が払い切れないため、やむなく娼婦に身を落とし、お金を稼ぎます。工場長は彼女を解雇しようとしますが、ジャン・バルジャンは事情を知って彼女を入院させ、治療に専念させます。そして娘のコゼットを引き取り、母と娘が一緒に暮らせるように計らおうとします。
 一方、ジャヴェール警部はジャン・バルジャンに対し、自分の疑いは勘違いだったとして、過ちを認めたふりをします。そして同時に、囚人ジャン・バルジャンが逮捕され、すでに収監されていると告げるのです。
 池田 それは、「絶対に良心を偽らない」というジャン・バルジャンの、いわば一番の泣きどころを、見事に突くものでした。ユゴーの作劇法の巧みなところです。
 金庸 「誠実の人」ジャン・バルジャンは、自分に代わって罪を背負っている人間がいることを知ります。当然のことながら、心の中が波立ちます。苦慮の末、彼は自ら進んで裁判所に出向き、自分こそがジャン・バルジャンであると告白します。冤罪を被った人を助けるために、自分が獄に入ろうと決めたのです。
 しばらくして、ジャン・バルジャンは再び脱獄します。このとき、娼婦をしていた女工は病の末、すでに亡くなっていました。そこでジャン・バルジャンは孤児となったコゼットを連れてパリに出て、彼女を育てます。
 コゼットは成長すると、隣に住む青年マリユスと恋に落ちます。ほどなくパリの群衆が蜂起し、マリユスもそれに加わります。政府軍との対立は、武力衝突へと発展していく。
 そのさなかジャヴェールが群衆に捕まり、死刑に処せられようとします。ジャン・バルジャンは混乱のなかで、それがジャヴェールだと知ると、彼を救い、逃がしてやります。また、下水道をつたってマリユスを救い出すのです。
 ジャヴェールは命を救ってくれた人がジャン・バルジャンであるとわかっても、警察官としての責務から、依然として彼を逮捕し、裁判にかけることを願います。しかしついには良心の呵責に耐えかねて、セーヌ川に身を投げ、自らその命を終わらせます。
 池田 ジャヴェールの自殺にいたるくだりには、こうあります。
 「心のうちに、これまで彼の唯一の尺度であった法律的な確信とは全く別な、一つの感情的な啓示が生れた。以前の実直さにとどまるだけでは、もう満足できなくなってきた。一連の意外な事実が起って、彼を圧倒した。新しい世界が、彼の魂の前に出現した。つまり、受けて返す善行、献身、慈悲、寛大、情けにほだされて威厳をくずすこと、個人を重んじること、決定的に人を裁くことも、罰することもできないこと、法の目にも涙がありうること、神の正義とでもいえる何かが人間の正義とあべこべになっていること。彼は、暗闇の中に未知の道徳の恐ろしい日の出を見て、おびえ、目がくらんだ。鷲の目を持つことを強いられたフクロウ……」(前掲書〈5〉
 ジャン・バルジャンによる「徳の勝利」の、ハイライトともいうべきくだりでしょう。
 金庸 ジャヴェールの投身自殺のシーンは、どのミュージカルでも、一番、劇的効果を狙って工夫を凝らしているようですね。
 やがてマリユスはコゼットと結婚します。このときマリユスは、ジャン・バルジャンから彼が脱獄囚であることを聞かされ、その後はジャン・バルジャンを疎んじるようになります。最後にジャン・バルジャンが命の恩人であったことを知り、自分が間違っていたことを悟って、彼のもとへ駆けつけます。しかし、ジャン・バルジャンはそのとき、もうすでに危篤状態にありました。
 池田 『ノートルダム・ド・パリ』と同じように、「無償の愛」の気高さですね。涙なくしては読めない場面です。
 金庸 まったく、そう思います。美しい場面です。
 この小説は、たいへん長く、そこには深刻な社会問題が数多く描き込まれています。すなわち、個々の人間がもつ善良さとの対比のなかで、社会制度の残酷さが、読者に示されているのです。
 資本主義の制度は、個人の財産を保護するために、残酷な手段をあれこれ用いて、下層階級の人民を抑圧します。しかも、これを改める契機は、そう簡単には訪れそうもありません。
 その最たるものが、警察権力です。冷酷非情に法を執行することが、まるで天地の大義であるかのようにわきまえ、人情や人間性など、まったく顧みません。
 池田 ユゴーの一生は、そうした抑圧と戦い続けた一生でした。
 一九八一年の六月、フランス上院のポエール議長との会見のため、上院の議場を訪れる機会がありました。そのおり、ユゴーが国会議員として座っていた椅子を見ました。
 青年時代より愛読してやまなかったユゴーが、ここから正義の熱弁をふるっていた。民衆擁護の「言論の矢」を放っていた――その偉大な生涯をしのび、感慨を新たにした思い出があります。
8  『二都物語』に描かれる「自己犠牲の愛」
 金庸 そうでしたか。
 ところでユゴーといえば、中国ではロマン派の作家としての評価が高く、その恋愛物語が、よく読まれています。
 中国の文学や戯曲における悲恋物語は、真剣に愛し合っているにもかかわらず、家庭や社会といった外的要因にさまたげられて、結ばれることのない男女を描く場合がほとんどです。『梁山伯と祝英台』などは、その典型といえるでしょう。西洋でいえば、『ロミオとジュリエット』に類似性を求めることができます。
 池田 一九九七年年二月に香港で開かれたSGIの「世界青年平和文化祭」で、中国の国民的歌手の毛阿敏さんが、その『梁山伯と祝英台』の物語をテーマにした美しい歌を披露してくださいました。
 金庸 ええ、たいへん見事でした。しかも、その曲の演奏は、ギター、二胡、中国笛、ハープ、ドラムと、「東西の出合い」という文化祭のテーマを象徴するステージでした。
 ところで、近代に入ると、西洋の愛情物語は、恋人のことを心から愛するために、敢えて自分を犠牲にする男性、ないしは女性が描かれるようになります。
 イギリスの小説家ディケンズの『二都物語』を例にとりましょう。
 フランス革命の時代に生きる青年チャールズ・ダァネーと少女ルゥシーは、相思相愛の仲です。ほかにダァネーとそっくりの顔かたちをしているシドニー・カートンという青年がおり、ルゥシーを熱愛しますが、彼女は相手にしません。ルゥシーは後にダァネーと結婚します。
 ところがダァネーは革命のために逮捕され、死刑を言い渡されます。このときカートンは、愛するルゥシーのためにダァネーの身代わりになることを決めます。そして、ひそかに牢獄に侵入して、ダァネーと入れ替わり、断頭台の露と消えていくのです。
 池田 カートンの自己犠牲の背景には、宗教的な信条があったように思います。物語の一節に「イエス言いたまう『我はよみがえりなり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡そ生きて我を信ずる者は、とこしえに死なざるべし』」(『世界文学全集(第二期)6』所収の猪俣礼二訳「二都物語」河出書房)とあります。このように、自らを犠牲にして永遠の愛に生きるという、宗教的な信念に裏づけられているといえるでしょう。
 また、先ほど触れた点にも関係することですが、『二都物語』で見逃してはならない点は「レッテル貼り」の恐ろしさでしょう。この物語によれば、フランス革命当時の旗には、たとえばこう書いてあったという。「一にして二なき共和国。自由、平等、友愛か、然らずんば死!」と。
 つまり、敵味方をはっきり分けたうえで「どちらかを選べ」ということです。そうしたレッテル貼りを行うことで、人間の暗い情念を燃え立たせる。一種の歪んだ闘争心を煽り立てる――絵にかいたような「狂信」の構図です。しかし、もし革命が、そうした情念の世界に陥るならば、どんなに高尚な大義や理想を掲げようとも、その精神は、すでに死んでいます。また、必ず破綻せざるをえないでしょう。
9  「ユマニテの光」に満ちた世界とは
 金庸 「無償の愛」を謳った作品としてはユゴーの長編小説『海に働く人びと』も、同様の感動を与えてくれます。青年ジリヤットは、少女デリュシェットを深く愛するゆえに、彼女との結婚の権利を放棄して、その権利を彼女が愛する男性に譲り、二人を結婚させます。その後、ジリヤットは海上の大きな岩に悠然と座り、ひたひたと寄せくる満ち潮に身を任せ、水中へと飲み込まれていきます。
 池田 残念なことですが、日本では『レ・ミゼラブル』ほど知られていない作品です。
 金庸 中国で海外の文学作品が次々と翻訳され、絶頂に達した時期は、一九二○年代、三○年代です。翻訳された作品の大部分は、厳粛なテーマを担った大長編でした。たとえばトルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、ロマン・ロランなどです。
 これまで先生と語り合ってきたユゴーの小説は、切々とした悲哀を帯びたロマン派の愛情物語として受け止められてきました。そのために、革命小説を好み愛国精神に満ちた進歩的な翻訳家たちから、好意を寄せられることはありませんでした。たとえ多くの時間と労力を費やして、こうした愛情物語を翻訳した人がいたとしても、批評家の攻撃にさらされていたにちがいありません。
 池田 そうですか。しかし、それは明らかに曲解ですね。私は「進歩」や「革命」について、ユゴーほど正しいスタンスで考えていた人も少ないと思います。つまり、イデオロギーのスタンスではなく、人間のスタンスで――。
 ユゴーは『レ・ミゼラブル』の一節に、こう記しています。
 「市民諸君、今日何が起ろうと、勝っても、負けても、われわれがやろうとしているのは、革命である。火事が町全体を照らすように、革命は人類全体を照らす。それではどんな革命をやろうとしているのか?さっき言ったように、真実の革命である。政治的観点からすれば、ただ一つの原則があるだけだ、つまり、人間の人間にたいする主権である」(前掲書〈5〉)
 「ユマニテの光」に満ちた「世界」を実現しなければ、すでに革命の名に値しない、という主張でしょう。
 ソビエト連邦が崩壊したとき、"ロシア人がフランス革命の幕引きをした"ということがいわれました。つまり、左翼のイデオロギーからみれば、ロシア革命はフランス革命の延長上で、とらえられていた。したがってロシア革命の挫折は、フランス革命が提起した課題そのものの終焉を意味するのだ、と。
 しかし、そうしたイデオロギーのスタンスが色あせてくればくるほど、輝きを増してくるのは、人間のスタンスです。二十世紀が、「戦争の世紀」と呼ばれるほどの、悲惨と殺戮を繰り返してきたのも、まさに人類全体を照らす「ユマニテの光」という一点を見落としてきたからではないでしょうか。
 その意味でもユゴーは、もっともっと読まれるべき作家であり、読み返されるべき作家であると信じます。

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