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日蓮大聖人・池田大作

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第十章 「生への希望」を語る「人間のた…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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3  SGI運動の目的――「その国の良き市民たれ」
 金庸 一九九七年七月十七日の夜、香港SGI主催の「返還祝賀の夕べ」が開かれました。
 私は来賓を代表して、あいさつをさせていただきました。そのときにも申し上げたのですが、こうした集い自体、香港SGIが多くの香港市民と一つに融け合っていることを示すものです。
 SGIは国際的な組織として世界各地に分布していますが、いずこの地においても、現地の人々と一つに連なり、喜怒哀楽を分かち合っています。
 西洋では結婚式のときに「新郎新婦は共に、これからは永遠に一緒である。良い時も、また悪い時も(forbetterorforworse)」という誓いを立てます。
 中国人の交友では、義兄弟の契りを結ぶことが、最高の結びつきであると考えますが、このときには「共に福をうけ、共に難にあたる」という誓いを立てます。
 池田 先生の小説『碧血剣』にも、「共に福をうけ、共に難にあたる」(『碧血剣』〈第一巻〉岡崎由美監修、小島早依訳、徳間書店)と誓って義兄弟の契りを結ぶシーンが出てきますね。
 金庸 ええ。人生は永遠に良いことばかりが続くはずはありません。皆で同じ運命を背負っていこうと決めたからには、喜ばしいことがあれば、皆で共に享受する。苦難に出くわせば、皆で共に乗り越えていこうとする――二つの誓いの言葉を解説すれば、こうした意味になります。
 池田 恩師である戸田先生は、創価学会の第二代会長に就任された日に、一首の和歌を詠まれました。
 「現在も未来も共に苦楽をば分けあう縁不思議なるかな」――同志というものの縁は、それほど深い。金庸先生の小説に出てくる英雄たちの誓いにも、深く、強い絆で結ばれた「同志愛」の響きを感じます。
 金庸 それが、人間であることの証ですからね。
 ともかく香港の祖国への復帰は、香港六○○万市民が熱望してやまない、まことに喜ばしい慶事です。しかも、それは、香港市民一人一人がもつ深い自尊心に裏打ちされています。
 香港SGIが李理事長をはじめとする各責任者の指導のもと、私たち香港人と共に、お祝いをし、喜びを分かち合う。このことは、まさに「良い時も、また悪い時も」「共に福を受け、共に難にあたる」という誓いを表してくださっているのだと思います。
 私たちにとって香港SGIの皆さんは、身内同然です。香港の明日が、もっと良くなるにせよ、あるいは、あまり良くならないにせよ、皆さんは香港の果たすべき役割の一部を担ってくださると信じます。
 池田 SGI運動の目的は、「その国の良き市民たれ」というところにあります。
 私どもが信奉する日蓮大聖人の言葉に「国を知らなければならない。国にしたがって人の心も異なるのである。たとえば中国の江南の橘を淮北の地に移せば、枳になる。心なき草木ですら、その所によって異なるのである。まして心のあるものが、どうして所によって異ならないことがあろう」とあります。
 「心」とは、広げていえば文化、習慣、伝統、社会通念なども含まれるでしょう。
 その国、その国によって「心」は違う。その「心」を触発することで、「良き市民」を育てていく。そして「良き市民」を輩出することで、社会の活性化をも目指していく。それがSGI運動の眼目です。仏法は人間を、何か特定の「人格の鋳型」に、はめ込むものではありません。
 金庸 池田先生は、これまでずっと香港を重視され、見守ってこられました。それは先生が、常に向上心をもって奮起し、努力を惜しまず働く香港人の精神を、いくつもの詩で賛嘆しておられることからもわかります。
 この対談のなかでも先生は、香港の返還に誠意のこもった祝福の言葉を述べるとともに、日本の一部評論家やマスメディアが、香港の前途に対して悲観的な論調を発表していることを指摘され、その非を責めておられた。
 そして、こうした悲観論には根拠がないとされ、個人としては、返還後も香港は、より良く発展するにちがいないし、世界平和、なかんずくアジア・太平洋地域の経済発展と平和の実現に対して、今後、さらに大きく貢献していくにちがいないと考えている――そう語ってくださいました。
 私は改めて、先生のご厚情に心から感謝します。そして願っております。先生の指導のもと、香港SGIが日増しに発展を遂げ、香港と歩調を合わせて前進し、皆で、この喜びを享受しあわれんことを。
4  「礼」とは人格の躍動、「人間性」の発露
 池田 この対談でも申し上げましたが、私は以前から、「環太平洋文明の時代」の到来を強調してきました。「アジア・太平洋平和文化機構」の設立を提言したのも、もう10年以上前になるでしょうか。
 その意味からも中国の存在は、ますます大きくなります。なかんずく今後は、中国とアメリカの関係が大事です。この二つの国が真の友情を結んでいくならば、世界平和の大きな柱になることは間違いない。もちろん、日本も、そのためにがんばらなければいけませんが……。
 金庸 だからこそ、SGIへの期待は大きいのです。
 一九九六年二月、私は先生と一緒に、SGIの世界青年平和文化祭に参加させていただき、多くの素晴らしい演目を鑑賞する機会に恵まれました。
 このとき、国家や人種の異なる多くの青年男女が、仲良く一緒になって歌を歌い、ダンスを舞い、今日のこの美しい世界を歌い上げ、今後の美しき未来を志向している姿を目にしました。肌の色の違いも、言葉の違いも、手を取り合って平和と文化を追求しようという情熱の妨げにはならないことがわかりました。
 池田 ありがとうございます。
 国際宗教社会学会の会長であられたブライアン・ウィルソン博士が、哲学者のウィリアム・ジェームズの"戦争の道徳的等価物"という言葉に触れながら、私どもの文化祭の印象を、こう語っておられました。
 「世界中で、いわゆるカッコつきの『平和運動』が行われており、デモ行進なども、目的はいいのですが、あまりにも感情に走りすぎたり、混乱を招いたりして、他の人々に否定的効果や対立的効果を及ぼしてしまう場合が多い。
 それに対して、創価学会の平和文化祭は、アイデアそのものから規律を重んじておられる。さまざまな人々のエネルギーを結集し規律ある形で発散させる――そういう意味では"道徳的等価物"ですし、デモ行進などが、平和の目的に反して、かえって反感をかってしまう否定的効果をもたらすのとは、大きく違うと思います」と。
 金庸 ウィルソン博士のいわれるとおりだと思います。創価学会のモットーは、崇高な精神文明の価値を創造し、人類の内面における精神的な修養を高めること。そして同時に、この目標を世界各国に普及させ、平和を推進し、戦争およびあらゆる不正に反対することにあると思います。
 二十世紀がまもなく終わろうとしている今日、人類の精神的価値が高められたことによって、これまで植民地だった地域が次々と独立を勝ち取り、あるいは本来の宗主国に復帰しています。しかも、そのほとんどは、平和的な方法によって実現しているのです。
 香港の主権を交替する今回の返還の式典でも、中国とイギリスの双方は、礼儀を正し、進退のあいさつを丁寧に交わしました。
 中国の春秋時代、各国の外交は、酒宴を設け、詩のやりとりをしながら進められましたが、そうした平和的な態度と文明的な礼節が、今日、復活したといえるのではないでしょうか。
 中英の二大文明国家が現在、国際社会で繰り広げている、この外交の精神は、創価学会の理想でもあると思いますが。
 池田 「礼」とか「礼節」というと、どうも堅苦しく、古めかしい言葉に聞こえますが、その精神を一言でいえば、「相手の立場を思いやる」ある種の余裕ということでしょう。つまり、「演技」です。
 こんなエピソードがあります。
 まだ日中の国交が回復する以前、日本の旧将官が中国を訪れて、周恩来総理と会見した。その旧将官は「あの戦争で、どうしても許せない日本人」について、周総理に尋ねたといいます。
 すると周総理は「お尋ねになったから申しますが、三人います」と答えた。そして「それは誰ですか」という問いに、「一人は東条元首相。これは、いわば代表のような人ですから、しかたないでしょう」。
 さらに「ほかの二人は」と重ねて尋ねられた総理は、こう答えた。
 「私たちは、その二人を許しません。しかし、その人たちには残された家族があるでしょう。家族の方たちに、罪はありません。もし、中国の総理の周が、自分たちの夫を、父を許しがたい戦犯だといったと、もれ聞けば、家族の方は悲しまれるでしょう。その名はいえません」と。
 周総理はじめ中国の方々にとっては、憎んでもあまりある名前だったことでしょう。しかし総理は――あるいは万斛の涙をのむ思いをこらえてだったかもしれませんが、決して口にされなかった。
 「自分がその名を口にすれば家族が悲しむ」という理由から……。
 先述した貝塚氏は、周総理のことを、「歴史」に対する「大演技家」と称賛していました。
 金庸 偉大な人物の、偉大なエピソードです。
 池田 本来、「礼」とか「礼節」とは、人間の行動を「外」から規制したり、拘束するための「しきたり」「儀礼」を意味するだけではないはずです。
 ともすれば顔を出そうとする自分の主張、自分の言い分、自分の立場を乗り越えて、いかなるときにも相手の立場に立ち、相手を慮る――そうした強靭にして崇高な「克己」の精神をさして「礼」といい、「礼節」というのでしょう。
 「礼」の定義については、中国でも古来、論争が繰り返されてきたところですが、その本質は、決して人間の「外」にあるものではない。あくまでも人間の「内」に求められるべきものだと思います。
 「礼」とは、「人格」の躍動です。「人間性」の発露です。人間関係に深く病んでいる今日、そうした崇高な精神性ほど、強く要請されているものはありません。
 ゆえに私たちは、その意味での「精神の礼節」をはぐくみたい。大局を見すえて細部を忘れず、内に秋霜の信念を秘め、外に春風の笑みをたたえ、自分中心でなく、あくまでも相手の心を中心に、「よき中国人」にして「コスモポリタン(世界市民)」、常に民衆という大地に温かく公正なまなざしを注ぎ続けた、周総理のごとき「人格」を築いていきたい。鍛えていきたい。
 金庸先生が言われた「平和的な態度」「文明的な礼節」も、そうした「人格」の鍛練あってこそ、大きく花開いていくと思います。
5  文学の根本目的と行間に表れる作家の"境涯"
 池田 さて、閑話休題――このへんで話題を再び「文学」に転じたいと思います。
 巴金氏が来日した際、講演会で語られました。
 「なぜ文章を書くのか」というテーマでした。
 「私が作品を書いたのは生活のためでも、有名になるためでもありません」
 「私は敵と戦うために文章を書いたのです」
 「敵とは何か?あらゆる古い伝統観念、社会の進歩と人間性の伸張を妨げる一切の不合理の制度、愛を打ち砕くすべてのもの、これらが私の最大の敵であり、私はこれらの敵に多くの攻撃を加えました」
 文学に限らず、およそ人間が何ごとかをなそうとすれば、そこに「何のため」という根本の「志」が不可欠です。その意味で巴金氏の大情熱は、激しく胸を打ちました。
 「何のために書くか」――私たちの青年時代には、一方に「文学のための文学」という、いわば芸術至上主義がありました。他方には「イデオロギーのための文学」というものもありました。たとえ「民衆のための文学」を掲げたところで、それが「イデオロギーの至上命令」になってしまえば、かえって文学の生命は枯れてしまうという逆説もありえます。
 そこで少々、難しい質問になりますが、金庸先生は「文学の根本目的」について、どうお考えですか。
 金庸 たしかに難しい問題ですね(笑い)。もし私が小説を書き始めたということが、文学創作のうちに入るとしたら、創作を始めた当時の目的は、とにかく「一つの仕事をなさんがため」だったと言えます。
 当時の私は、「新晩報」という新聞で文芸欄の編集をしていました。文芸欄に武侠小説が欠けているということが話題になり、そこで私が同僚たちの激励と委託を受けて、(処女作の)『書剣恩仇録』を書き始めたというわけです。
 その後、読者の盛大な歓迎を受け、続けて小説を書いていきました。私にとって小説とは、お金儲けをし、生活を支えていく道具でした。社会のための崇高な目標をもっているとは、とてもいえませんでした。青年を教育したいと思ったこともなければ、国威を発揚して、国の恩を報じたいといった志を抱いていたわけでもありません。
 とにかく小説を書くことが、とても愉快だった。あれこれと想像をめぐらせ、ペン一本で数多くの侠客を思うがままに「こき使う」楽しみを覚えたにすぎません。(笑い)
 ただ、資本主義社会にあっては、大多数の芸術家は皆、このようなものだと思います。音楽家がピアノを弾いて作曲するのも、画家が絵筆を握って絵を描くのも、映画監督と脚本家が映画を撮るのも、そのほとんどが商業的な意図から出発しているのではないでしょうか。
 池田 まことに率直なご発言です。(笑い)
 そういうことからいえば、ドストエフスキーは、借金取りの矢のような催促に追い立てられて数々の傑作をものにしましたからね。(笑い)
 そうした現実的な「動機」とは別に、これはゲーテがしきりに強調していたことですが、優れた作家は、内に必ず「デモーニッシュ(鬼霊的)」なものを秘め、それにつき動かされており、作品は、その自ずからなる流露といってよい。それは「動機」のいかんなどというところに還元したり、矮小化したりすることのできないものだと思います。優れた作品であればあるほど、そうです。
 あることを書こうとして、書こうと思ったことしか書けない、というのは、結局、それだけの器の作家でしょう。優れた作家は、ひとたび創作の筆をとれば、自分が書こうと思っている以上のもの、あるいは求められている以上のもの、いわば「プラス・アルファ」の部分が、「デーモン」の作用よろしく自然とにじみ出てくる。その作家の"境涯"が行間に表れてくるものです。
 また、お金の問題云々というのなら、たとえばゲーテにも有力なスポンサーがいました(笑い)。文学だけではありません。万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチにも、ミケランジェロにも、パトロンがついていた。だからといって、彼らの作品の価値が小さくなるわけではありません。黄金は、どこに置いても黄金です。
 むしろ最近では、経済的な余裕が保障されていたからこそ、偉大な芸術作品が生まれたという観点から、スポンサーなり、芸術庇護者の存在を、積極的に評価する見方も出てきています。
 金庸 もちろん政治評論あるいは社会問題の評論を書くときは、私も理想、公平、正義、道徳などの観点を大切にしています。しかし、そうした観点を、故意に文学創作の中で発揮しようと思ったことはありません。
 ただ武侠小説は、必ず正義、公平を重んじます。善悪が明確に分別されなければならず、常に善人が悪人を打ち負かすことが要求されます。
 作品中の英雄たちは、絶対にウソをついてはならず、恩を忘れ義に背いてはならず、友人に申しわけが立たないことをしてはならず、必ず義理人情を重んじ、凶悪、残酷、陰険、悪辣であってはならないのです。
 ですから物語は、知らず知らずのうちに、中国人の伝統的な美徳を極端に強調するという結果になります。ただし、それは具体的な人物と事件と行動によって表現されるのであって、ただ単に説教じみた言葉を並べたり、道理を述べ立てるわけではありません。
 池田 説教過剰であってはならず、その種の言葉が、作中人物の振る舞いのなかに、肉化されていなければならない、ということですね。たとえば先生の『碧血剣』では、主人公が師匠に、こう戒められるくだりが出てきます。
 「是非というのは、ときとして判断しがたいものじゃ。世の中は欺瞞に満ちて、人の心は計りがたい。善人が実は悪人、悪人が実は善人という場合もある。だが、常に他人にまどわされず、寛大な心で人に接することができれば、あやまって善人を傷つけることはないはずじゃ」(前掲書)
 ここには金庸先生が武侠小説に託した思想なり理想が、巧まずして一つのセリフとして表れていますね。先生の肉声というか、人格の響きが聞こえてくる思いがします。
6  中国の伝統的な文学観と絶妙なバランス感覚
 金庸 ありがとうございます。個人的には、文学の主な目的とは、作者が「感情」を述べ表すことで、読者(聴衆、観衆)の共鳴を引き出すことにある、と考えています。
 つまり強烈で深刻な「感情」によって、読者を感動させるということです。文学(詩、小説、演劇を含みますが)の主な内容は「感情」です。これは中国の伝統的な観点でもあります。
 もちろん、思想的内容を表現することが文学の重要な目的の一つである、という考えもあります。中国最古の文学的結晶である『詩経』の代表的な注釈書の冒頭には、全編の主旨を示す序言がありますが、そこには「詩は志を言う」とあります。これは『尚書』(=『書経』)の「舜典」から出る句です。虞舜(中国古代の伝説的帝王)が述べたものだと伝えられていますが、定かではありません。
 池田 中国の伝統的な文学観が示された一句ですね。
 "何によらず文学作品に込められた思想は、その序文なり、後書きに端的に表れているものだ"――恩師のもとに青年たちが集って行われた「水滸会」で、読書法として恩師から学んだ点です。
 金庸 「志」とは、感情や情緒を含むとともに、胸のうちの抱負や思想、意志という意味も含んでいます。言い換えれば、情感の部分もあれば、同時に理知的な部分もあるということです。
 後漢の大儒者・鄭康成――『三国志演義』にも登場する人物で、彼の家では使用人の女性まで自在に『詩経』の句を引用したといわれますが、彼の解釈によると、古では君主と家臣の関係が親密だったため、家臣の側に何か意見があるときは、君主に向かって直言すれば、それでことはすみました。しかし時代がくだるにつれて、君主の気位も次第に高くなり、威力と権勢も次第に強くなって、家臣は直言を、はばかるようになりました。
 池田 君主の権威と権力が時代とともに大きくなっていくことは、中国史の一つの特徴ですね。
 "漢・唐の時代には、君主と臣下は互いにイスに腰かけて話し合った。宋の時代には臣下はイスに座ることが許されず、直立して君主と話した。明・清の時代になると、臣下は立つことすら許されず、君主の前に跪くようになった"といわれます。
 金庸 そこで臣下は『詩経』を引用して、婉曲に進言するようになったようです。これを「諷諌」と称します。
 春秋時代には、各国の外交官と相手国の国主や大臣とが応酬するとき、必ずまず『詩経』を引いて、外交交渉の前口上にしなければなりませんでした。
 近年、中英の代表が香港問題について話し合ったときも、中国側代表は、あたかも古風にならうかのように、ややもすれば発言に中国の古詩を交えるということがありました。
 最近でも中国の副総理兼外相の銭其琛は、演説のなかで香港の前途を論じたとき、香港の返還は中国にとって、すでに必然的な勢いとなっており、しかも局面は非常な速さで発展していて、とても後戻りすることはできないとして、次のような李白の詩句を引用しました。
 「両岸の猿声は啼きやまず、軽舟は己に万重の山を過ぐ」(川を船が行く。川の両岸では猿たちが、さかんに鳴き声をあげるが、それで船の速さが遅くなったり、止まったりすることはない。船は幾重にも折り重なる山々を悠然と過ぎていく)――この詩句を引くことで彼は、香港の祖国復帰に反対する人たちに対し、"むざむざと心労を尽くし、いたずらに逆行をもくろむ必要などないではないか"と勧告したわけです。
 池田 中国文化の伝統の厚みを感じさせる話です。話一つにも格調があります。
 「借古説今」(古に借りて今を説く)といいますが、お国では古来、文学にせよ、政治評論にせよ、よく古典が引用されました。そうすることで自分の意見なり主張が、決して「独り善がり」ではないこと、それだけの普遍性、妥当性をもっていることを強調しようとした。
 言葉を換えれば、いかに自分の主張が正しいと思っても、それを口に出す前に一度、立ち止まってみるわけです。自分の考えを、そのまま生のかたちでゴロッと投げ出すというところに、ひそかな「思い上がり」がありはしまいかと考える。
 そこで、その「思い上がり」を引き止める普遍的なもの、大いなるものを求める。それが古典だったわけです。
 金庸 なるほど、鋭い見方です。
 池田 自分が唯一の基準なのではない。自分という基準以上に、より大きな基準があるはずだ、という考え方です。それを自覚しない限り、いつか人間には、「独善」「放縦」という名の魔性が忍びよる――これは、仏法の観点にも通じることです。
 釈尊の最後の説法の一つには、こうあります。
 「みずからを洲となし、みずからを依りどころとなして、他人を依りどころとせず、法を洲となし、法を依りどころとなして、他を依りどころとすることなき者こそ、わが教団のなかにおいて最高処にあるものである」(増谷文雄『仏教百話』筑摩書房)
 つまり、自己を律していくためには、自らを依りどころにして、他人や外部の出来事に紛動されない不動の自己を築かなければならない。その不動の自己を築くには「我、独り偉し」とする我見や独善、傲慢さを排して、普遍の「法」を依りどころにしなければならない、というのです。
 仏法でも「文証」といって、「文」による証拠を大切にしますが、古典や先人先哲の言葉を、こよなく大事にする中国の文化は、そうした真摯さというか、「人間が独善に陥らないための」絶妙のバランス感覚に支えられてきたように思います。
7  「革命文学」より「革命人」こそ必要
 金庸 ところで池田先生と巴金先生の語らいでは、「文学と政治」もテーマになったと聞きました。巴金先生は「絶対に忘れないこと」と題する短編のなかで、こんなふうに語っています。
 「愛国主義は終始棄てることができなかった。なぜなら、私は中国人であり、各種の差別と侮辱虐待を受けっ放しであることに不平を感じ、自分の運命は終始自分の祖国と切り離せないものと感じていたからである」(『随想録』石上韶訳、筑摩書房)と。
 私が生まれるはるか以前から、すでに中国は帝国主義列強の圧迫を受けてきました。私個人は直接、外国人から差別や軽蔑を受けたことはありませんが、国が受けてきた圧迫と侮辱は、子供のころから深く脳裏に刻み込まれてきました。抗日戦争が始まってまもなく、わが家は日本軍の手によって跡形もなく焼き払われました。間接的にではありますが、私が愛した弟は母とともに、日本軍によって殺されました。
 池田 重ねて、心から哀悼の意を捧げます。
 金庸 私が少年のころ、国家と民族は、生きるか死ぬかといった、あまりにも厳しい瀬戸際に立たされていました。全国が一つになり、民族の存亡をかけて、もがきながらも奮闘していたのです。ですから、すべての文学活動が、敵に抗し、国を守ることに集中したことは、きわめて自然なことだったと思います。
 抗日戦争の後、国民党と共産党との激烈な闘争は、内戦へと進展しました。文芸界は、ほぼ共産党擁護一辺倒でした。
 中華人民共和国成立後、一連の運動が展開されていきました。「三反五反運動」「反右派闘争」、「三面紅旗」を掲げた「大躍進」運動、文化大革命……。文革が終わるまで、政治運動は連続して、絶えることがありませんでした。文芸活動も、すべての分野において、政治運動を核としていました。政治活動のまわりを、ぐるぐる回ることを余儀なくされたのです。
 池田 「政治が文化に優先する」ことが中国の歴史の一側面です。その伝統が、新中国成立後も続いたといえますね。
 金庸 そうです。「文学の根本目的とは何か?」――この問題は、新中国にあっても、提起すらできませんでした。なぜなら、これは「問題ではない」からです。文学とは、議論の余地なく、革命に奉仕するものであり、人民に奉仕するものであり、目前に展開されている政治運動に奉仕するものだと考えられていたのです。
 このことに少しでも疑問をはさむと、いかなる人も、ただちに「反革命」のレッテルを貼られ、大きな帽子を頭の上にかぶらされ、糾弾されなければなりませんでした。
 池田 巴金氏の友であった老舎もまた、その犠牲になりました。
 巴金氏は、こんな追憶の文章を書いておられます。
 「私は、首から上を血だらけにし、白い絹布に包まれた老人が声一つ立てず横たわっているのを見る思いがした。彼には、あれこれの思いが湧きかえり、吐露したい話がたくさんあるのだ。こんな有様のまま死ぬわけにはいかない。彼にはまだ、後世に残して置くべきすばらしいものがたくさんあるではないか!しかし、会議から一日たつと、彼は太平湖の西岸に横たわっており、身体には一枚のぼろむしろがかけてあった。自己の心にある宝物を完全に献げ尽くすことができないうちに、老舎は無念さをいっぱい腹にためたまま眼を閉じた。これが私たちの想像し得た老舎の最後の姿である」(『探索集』石上韶訳、筑摩書房)
 「彼の口を通して叫ばれた中国知識分子の心の声に、どうか皆さん耳を傾けていただきたい――『私は、自分たちの国を愛してきた。だのに、誰が私を愛してくれたというのか?』」(同前)
 あの文革で巴金氏は、老舎をはじめ多くの友人を失いました。最愛の夫人の生命も奪われました。そうした悲しみ、無念さが伝わってきます。
 金庸 全国が一つになって敵に対抗し、亡国を防ごうとしているときは、いかなる人であれ、皆、この目標のために力を尽くすべきです。たとえ生命を犠牲にするようなことがあっても、当然そうすべきでしょう。
 しかし平和が訪れた後もなお、文学は政治のためだけに奉仕すべきでしょうか?文学創作は、やはり国家や民族に有利であると同時に、人類社会に有益である主題を表現することに主眼を置くべきではないでしょうか。
 池田 同感です。前回も紹介しましたが、巴金氏は言われていました。「文学は政治から離れることはできません。しかし、政治は絶対に文学の代わりにはなりえない。文学は、人の魂を築き上げるものだからです」と。「人の魂」や、「人類普遍のテーマ」を扱うのが文学です。
 巴金氏が師と仰ぐ魯迅の文学観の根本も、そこにあったといえます。「芸術のための文学」「文学のための文学」ではない。いわんや、「政治のための文学」などではありえない。あくまでも「人生のための文学」であり、「人間のための文学」である、と。
 魯迅が活躍した当時は、文学に対する政治の優位を説くプロレタリア文学を中心とする、いわゆる「革命文学」が主流だった。しかし、必要なのは「革命人」であって「革命文学」ではない、と魯迅は叫びました。
 時代は「革命人」を待望しているという。ならば幾百千の「革命文学」を描こうとも、それが文学そのものとして優れ、質の高いものでなければ「革命人」を育てることなど、望みうべくもない。
 「人をつくる」「魂を築く」という根本のところをはずれて、いくら「革命文学」をもてはやそうとも、それは目的意識のみが先ばしりしたプロパガンダ(宣伝)の域を出ない、ということでしょう。
8  万人を感動させうる「生への希望」
 金庸 ええ。文学の特質ということでいえば、私は、文学の働きと、宣伝文句や理を説いた文章とは、性質が違うと思います。
 理を説いた文章の目的は、事柄の道理を明確に説明し、筋道の立った、きわめて厳格なロジック(論理)で分析して、読者を心の底から納得させ、作者の意見を受け入れさせるところにあります。
 敵への抵抗を宣揚したければ、憎悪すべき敵の実態を、あますところなく描き出さなければなりません。ここで奮起せず、抵抗しなければ、すぐに国家は滅亡し、民族は絶滅するということを、人々に認識してもらわなければなりません。
 革命を鼓吹したければ、事実を列挙して、現在の政府と制度が、人民に対してきわめて大きな危害を及ぼしていること、そして、これをひっくり返し、大々的に「民主」を宣揚しなければ国と人民の運命は危ういということを人々に自覚させなければなりません。
 文学も敵に抵抗し、革命を鼓舞することはできます。しかし、それは説教とは違います。また、登場人物に説教させるものでもありません。人々を感動させる物語なり、劇的なシーンなり、人々の心を激しく揺さぶる詩句によって、作者の感情を読者や観衆が受け入れる、というかたちをとるのです。
 そこでは読者が単に受け入れるだけではなく、熱血が沸騰し、熱い涙がほとばしるような感動を覚えることすら可能なのです。
 池田 わかります。人の心を揺り動かすのは、道理や大義名分ばかりではない。作者自身の内面にたぎる、「大感情」のほとばしりだということですね。辛亥革命の前夜、青年の憂国憂民の熱血を燃え立たせた鄒容の『革命軍』など、その好例でしょう。
 巴金氏の『寒夜』にしても、文章に込められた世の悪や、不条理への激しい怒りは、やむにやまれぬ「大感情」となって凝結し、凡百の宣伝文など足もとにも及ばない、有無をいわさぬ説得力をもっています。
 金庸 私が書いた武侠小説には、何らかの主題をもった思想を宣揚したいという意図はありません。たまたま、社会における醜悪な現象や醜悪な人物を浮き彫りにし、風刺することはあっても、それはただ興に乗った勢いで、気ままに描き出したものにすぎないのです。
 本来の主旨は、中国人の伝統的な美徳と崇高なる品格、高邁なる思想を肯定し、読者の心に、これらに対する敬慕の念を自然に湧き立たせ、「この世に生を享けたからには、当然こうあるべきだ」と思ってもらうところにあります。
 大多数の読者は実行できないかもしれませんが――実は、作者の私自身もできないわけですが(笑い)、そうした美徳に「あこがれる」気持ちを引き出すことができれば、それで目的は達成されたと思っています。
 池田 いえいえ。幾百千万の読者が先生の作品を愛読しているということ自体、先生の文筆活動が成功し、その目的が達成されている証明だと思います。
 金庸 ありがとうございます。比較的広い立場からいえば、文学の目標は、文字を用いて人物、物語、感情(ただし漢詩には、通常、人物や物語はありませんが)を創造し、ある種の美的で、善的で、純粋な感情、または価値を表現するところにあります。
 こうした感情または価値は、人生において本来、すでにそなわっているものです。それを芸術家が精錬し、組織立てることによって、読者に感動を与えるとともに、読者は、その価値を見いだしうる観点を受け入れていくのです。
 ときには作者が描く人物や物語が、それ自体は美的でも善的でもない場合があります。それでも、根底において表現したいものは、美的、善的な価値の肯定にほかならないと私は思います。たとえば魯迅の『阿Q正伝』『狂人日記』『薬』、ロシアではゴーゴリの『外套』、ドストエフスキーの『罪と罰』『白痴』などがそうです。
 この問題は、これまでに多くの哲人、学者が論じてきました。それぞれの考え方があります。私の意見が必ずしも正しく、完璧であるわけではありません。
 池田 真摯な魂にとっては、生きることそのものが「希望」への道程です。「希望」への間断なき、限りなき前進です。
 現実のカオスに身を投じ、苦闘しながら、そこから自分自身の人生の軌跡を切り開いていく――その意味で、人間のあらゆる営み、人間の生活、人間が生きるということそれ自体が、価値創造への闘争だといえるでしょう。
 ペンをとるということも、その例外ではないはずです。ホイジンガは、言っています。
 「生は闘争である」
 「人間の精神生活の全語彙は、すべて闘争の領域において機能している」(『朝の影のなかに』堀越孝一訳、中央公論社)
 人生とは、そして「言葉」とは、「より良く生きる」「人生の価値を見いだす」ための闘争である、と。
 もちろん、エンターテインメントとしての読み物や、人生の現実や矛盾を、そのまま読者の前に投げ出してみせるような作品もあります。しかし万人を感動させうる文学とは、よしんば逆説的なかたちをとったにせよ、どこかで「生への希望」を語っているものではないかと私は思います。

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