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日蓮大聖人・池田大作

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第九章 ペンによる大闘争――『立正安国…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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2  「立正安国論」――仏教史における革新性
 金庸 「立正安国論」には、次のようにありますね。
 当今の邪見、異見の者は、経文のデタラメな解釈を信用し、法華経などの真実の経典を、
 「あるいは捨てよ、あるいは閉じよ、あるいは閣け、あるいは抛ての四字をもって一切衆生を迷わしている。そのうえにインド、中国、日本の三国の聖僧や十方の仏弟子をもって、みな群賊といい、念仏の修行を妨げるものであるとして、これらの聖僧を罵詈させている。
 このことは、近くは、彼らが依経としている、浄土の三部経のなかに説かれている、法蔵比丘四十八願中の第十八願に『念仏を称えていけば必ず極楽浄土に往生できるが、ただ五逆罪の者と正法を誹謗する者を除く』との誓文にそむき、遠くは釈尊一代五時の説法のうち、その肝心である法華経の第二巻・譬喩品第三の『もし人がこの法華経を信じないで毀謗するならば、その人は命終わってのち阿鼻地獄に入るであろう』との釈尊の誡文に迷うものである。
 この法然の邪義に対して、いまはすでに末代であり、人々は凡愚で聖人ではないので、法の邪正をわきまえることができない。ゆえに、僧も俗も、みな迷いの暗い道に入って成仏への直道を忘れてしまった。この盲目から脱せられないでいるのは悲しいことであり、いたずらに邪信を続けているのは痛ましい限りである」(『池田大作全集25』所収の「『立正安国論』講義[上]」聖教新聞社)と。
 池田 金庸先生の博識には、感服します。
 『立正安国論』といえば念仏破折が焦点になっています。なぜ念仏を破折するのか。その理由の一つとして大聖人は、その「哀音」を挙げています。『韓非子』のなかに「亡国の音」という故事がありますが、「南無阿弥陀仏」という唱名念仏の哀音は、人間の生きる意欲を衰弱させる。生命力を奪っていく、何ともいえない哀しい響きを帯びている――このことを危惧したのです。
 事実、浄土教は、ひたすら死後の極楽往生を願う一方、現実社会を「穢土」としておとしめることで、現世的な努力を二の次にしてしまい、結果として「現実からの逃避」を人の心にうながしてしまいます。
 見過ごせないのは、精神史上、浄土教の大きな影響を受けてきた日本にあっては、その「現実逃避」の姿勢が、"長い物には巻かれろ""寄らば大樹の陰"といった、強い者にこびへつらい、容易に膝を屈してしまう精神風土の底流をなしてきたことです。
 これは何も過去のことではありません。近年、日本では「平和念仏主義」ということがいわれていますが、「平和とは戦い取るもの」「不断の戦いなくして平和そのものもない」という視点を抜きにして、ただ平和、平和と念仏のように口ずさんでいれば何とかなるというように、他力本願的な、無責任な姿勢に安住している。これなど、いわば日本の"念仏的思考"の最たるものといえるかもしれません。
 金庸 理解できます。
 日蓮大聖人は経文に依拠しつつ、天災、疫病、飢饉の出現を予言したのち、外敵の侵入と内乱の頻発、つまり「兵革の災」が必ず起きるであろうとされました。このことから国家の多難を、次のように深く憂慮されています。
 「帝王は、国家を基盤として天下を治め、人々は田園を領して生活を支えていけるのである。しかるに他方の賊が来て国を侵略し、自国内に叛乱が起きて、その土地が掠奪されるならば、どうして驚かないでいられようか。騒がないでいられようか。国を失い家が滅びてしまったならば、いったいどこへ逃れていけるであろうか。あなたはすべからく、一身の安堵を願うならば、まず一国の静隠、平和を祈るべきである」(『池田大作全集26』所収の「『立正安国論』講義[下]」聖教新聞社)と。
 池田 「立正安国」という平和思想の精髄ともいうべき個所です。私は「立正安国」ということを、こう位置づけています。
 「立正なくして安国なし。同時に立正は、安国の成就をもって完結する」と。
 「立正」を宗教的使命とするならば、「安国」とは人間的、社会的使命と位置づけることができるでしょう。宗教の使命は、宗教の次元にとどまるものではない。広く人間的、社会的使命を果たしてこそ完結するというのが、日蓮大聖人の主張でした。
 金庸 なるほど。
 池田 一九九六年に亡くなった政治学者の丸山真男氏は、日本の仏教各宗の政治に対する姿勢を分析するなかで、大聖人の教えについて「向王法」と表現しました。
 氏のいう王法とは、端的に言って政治体制です。大聖人の教えは、王法との関わりを避けたり、絶つのではない。また一方的に追従するのでもない。王法を真正面からとらえ、積極的に関わり、ときには王法との対決も辞さない性格を含んでいるというのです。
 ご存じのとおり仏教といえば、総じて社会性に乏しく、現実社会の課題に積極的に関わっていく姿勢に欠けている、と指摘されてきました。中国でも、この点が儒教が仏教を批判する際の論点になってきた。
 しかし「立正安国」の教えは、従来の仏教の概念なり枠組みを、大きく打ち破るものだった。その意味でも、日蓮大聖人は、日本の歴史のみならず、仏教三○○○年の歴史においても傑出した存在である、と私は思っています。
 金庸 「立正安国論」は、日蓮大聖人の執筆後、当時の最高権力者である北条時頼に上呈されますが、その言論の激しさゆえ各宗派から総攻撃を受けましたね。同時に、幕府もまた彼を憎み、流刑に処して、鎌倉から追い出してしまいます。大聖人は後に赦免され、帰還しますが、環境は劣悪で、強敵に取り囲まれて攻撃を受け、弟子たちは離散します。しかし日蓮大聖人は難に遭っても屈することなく、それまでどおりの信念を、固く貫き通します。
 文永五年(一二六八年)、蒙古の大軍が日本に東征するという消息が伝わり、「立正安国論」に先見の明があったことが立証されます。彼は声を大にして叫び続けます――法華一宗のみを立てて、国家滅亡の危機を救うのだ!と。
 日蓮大聖人の立論は、純粋に宗教上の観点と教義から出発したものです。しかし国家と民衆のことを真剣に考え、自身の危険を顧みず、多数になびくことなく、正論を立てた。その慈悲と勇気は、魯迅先生とも実によく響き合うのではないでしょうか。
 池田 そのとおりだと思います。
 「日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」と。悪に対する仮借なき攻撃。妥協なき闘争。その精神は、魯迅の「ペンの闘争」とも深く響き合っています。
3  真の平和実現への「世界市民輩出の競争」
 金庸 しばらくして後、日蓮宗は、生活に苦しみ、現状に不満をもつ一般庶民、および下層武士、町の職人などを指導し、圧制者に対して抗争を挑みます。いわゆる「法華一揆」です。愛国主義を強調し、衆生の平等性を重視し、貧民の苦痛に同苦することは、日蓮宗が一貫して伝統とする貴重な精神です。
 池田 たしかに日蓮宗の特質です。ただし権力に対する戦いが、ときに間欠泉のように噴き上げたものの、どちらかといえば、玉砕主義であり、広く民衆に根を張った時代精神にはなってこなかった。それどころか近代にあっては、大聖人の教えの一側面を曲解し、過激な国家主義、ナショナリズムの原理ともされてきました。この点、非常に残念に思うところです。
 金庸 私は日蓮大聖人および日蓮宗について知っていることが甚だ少なく、正確ではないところがあるかもしれません。謹んで池田先生に、ご指教をお願いする次第です。
 先生は『日蓮大聖人御書全集』の中国語版の序言で、「『立正安国論』は、戦争という人類の宿命を根底から転換する方途を説いた、平和実現のための書です。ここにSGI(創価学会インタナショナル)の平和実現の方途の根源があります」と述べておられます。
 これは「もし正しい仏法を信奉する人が天下に多く出現すれば、全世界はみな仏国土となり、そうすれば当然、戦争も起こるはずはない」と言われているのだと思います。
 つまり、世界平和を実現するための根本的な道程は、「釜の下の薪を取りのける」という譬えのとおり、戦争の因子を取り去るところにあるということですね。
 任務は並大抵ではなく、重い荷を背負ってはるかな道を、まだまだ歩かねばなりません。しかし、一歩でも歩みを進めれば、平和の勢力もその分、確実に増しているのです。
 池田 「釜の下の薪を取りのける」――私たちが進めている運動は、まさにそれです。
 日蓮大聖人の仏法を根底に、世界に開かれた内面的な価値の体系をつくっていくこと――それを私は「世界市民輩出の競争」と言っています。
 「世界市民」と言っても、それに内実を与えるには、どこまで精神的な基盤を築けるかが重要なポイントです。その精神的基盤を、どう築いていくか。ここに宗教が果たす役割がある。
 平和のための協力にしても、政治や経済、文化、教育といった次元でも当然、必要だと思いますが、その一方で宗教が、深い精神性に裏づけられた「人間」を、どれだけ多く輩出できるかが「薪を取りのける」うえからも、最大の焦点となってくるでしょう。
 その意味で宗教が世界平和の構築に貢献できるところ大であると確信しますし、宗教もまた、そうした時代の要請に応えうる宗教でなくてはならないでしょう。
 金庸 そうです。なかでも仏教の精神的価値の光は、今後ますます、世界を大きく照らしていくと思います。
 池田 流暢な日本語を駆使し、日本の宗教事情にも詳しい、宗教学者のヤン・スィンゲドー氏が、かつて言われていました。
 "創価学会には信仰の確信がある。また、宗教としてのコア(核心)がある。これは従来の日本人の、宗教であれば何でも包み込んでしまう、だらしのない「フロシキ的宗教心」と大きく異なっている"
 "日本は「和」の国であるといわれているが、その「和」は日本だけの「和」にとどまっている。ところが学会が主張し、実践している「和」は、世界を対象にした平和の「和」である。これは日本の宗教界にあって大きな変化を示す運動と思う"
 学会には従来の日本の宗教の枠組みを超えた「精神の力」があり、世界性がある、と。
 金庸先生はじめ、多くの方々のご期待にお応えするためにも、私どもは戦います。
4  衰えることを知らない巴金氏の創作エネルギー
 池田 さて「ペンの戦士」といえば私は、中国全国作家協会主席の巴金氏を思い出さずにはいられません。
 氏とは、日本と中国で四回、お会いしました。最初の出会い(一九八○年四月)は、作家の謝冰心さん、林林氏も、ご一緒でした。
 私どもの女子中学生のグループが愛唱歌で一行を歓迎したのですが、巴金氏はことのほか喜んでくださり、「若者の成長を見ると、うれしくてたまらない」「青年は人類の希望です」とおっしゃった。青年を慈しむ心情があふれていました。そこに、魯迅と同じ強い信念を感じたものです。
 金庸 そうでしたか。
 池田 当時は、私が創価学会の会長を勇退して一年になるころで、私や学会には、権威主義の聖職者たちからの、いわれなき誹謗・中傷が浴びせられていました。
 巴金氏も「一○年間の大災厄」――文化大革命を忍ばれた。嵐を越えて、何ものにも揺るがず、何ものをも恐れぬ信念と、それでいて人間への限りない温かさを湛えておられた。お会いして、すぐに心が通い合いました。
 お会いしたときには、すでに七十六歳のご高齢でした。今もお元気でいらっしゃるだろうかと気にかかりますが。
 金庸 先ごろ私は、香港在住の作家という身分で招待を受け、北京で開かれた中国全国作家協会の第五回全体代表大会、および全国文学芸術連合会の第六回全体代表大会に、来賓として参加しました。
 作家協会の主席は巴金先生であり、文芸連の主席は曹禺先生です。この老先生お二人の才能と人格には、かねてよりたいへん敬服していました。また、これまでお目にかかる機会がなかったので、今回は、そのお姿を拝見できるのではないかと期待に胸をふくらませて、北京へまいりました。
 しかし思ってもみなかったことに、曹禺先生は、長患いの末、大会の前夜にお亡くなりになり、巴金先生も、ご高齢とご病気から、大会には出席されませんでした。
 作家協会は引き続き巴金先生を主席に選出し、本人も承諾され、留任が決定しました。このことから、健康状態はあまりよくはないものの、精神と頭脳はしっかりとしていることが、十分に察せられます。巴金先生の良友として、池田先生、どうか、ご安心なさってください。
 池田 ありがとうございます。安心しました。
 お会いしたとき、巴金氏は話しておられました。
 「私は七十六歳から八十歳までの五年計画を立てている。一つは、長編小説を二冊書くこと。もう一つは、創作回顧録を書くことです。また、随想録を五冊書く。ゲルツェンの『過去と思索』の翻訳も完成させたい」と。
 衰えることを知らない、盛んな創作エネルギーに感嘆した覚えがあります。
 金庸 中学時代を回想するとき、男女学生に最もよく読まれていた作家が二人いたことを懐かしく思い出します。
 一人は巴金先生。もう一人はツルゲーネフです。
 私たちの年代にとって巴金先生は、青年時代において、愛好し、尊敬した同時代のただ一人の中国人作家です。
 当時の私たち青年にとって、魯迅先生は深刻すぎました。厳粛な社会的意義を強調しすぎるきらいがありました。
 周作人は、境地は恬淡としながら、含意は深遠だという作風をもち、若い人々から共鳴を引き出すものではありませんでした。老舎は、にやにや笑ったような嫌らしさがあり、とても不真面目な印象がありました。沈従文の文章は、他に類を見ない美しさですが、彼が描いた湖南省西部は、私たち江南の人間にとっては、異国情緒で満たされた世界でしかありませんでした。茅盾の革命への情熱は、あまりよく理解できませんでした。
5  わかりやすい巴金とツルゲーネフの文学
 池田 おっしゃることは、よくわかるような気がします。巴金氏やツルゲーネフの文学には、社会に対して憤りをもっている青年たちに訴えかける、ある種の「わかりやすさ」があります。
 トルストイが晩年、それまでの創作活動を自ら否定したとき、死の床にあったツルゲーネフが、どうか思いとどまるよう訴えたことは有名ですが、ツルゲーネフの作品は、多くの人々が受け入れやすい「わかりやすさ」をもっているように思います。
 それに対し、トルストイの思想や生き方には、余人のまねることができない、ある種の徹底したものがあります。それは魯迅の「深刻」さ、前章で論じた、底光りのするような「暗さ」と次元を通じているものです。それは、青年たちの性急な世直しの情熱にとって、少々、重すぎる"荷"であったかもしれません。
 そういえば、第三次の訪ソに続いてブルガリアを訪れたとき(一九八一年)、在ブルガリア日本大使館でツルゲーネフの『その前夜』という本を紹介されたことを思い出します。ロシア革命前夜の、ブルガリアの青年とロシア女性とを主人公にした作品だったように記憶します。
 祖国の独立と自由への燃えるような若き魂の模索を描いている点で、巴金氏の『家』と共通したモチーフを伝えています。
 金庸 私たちは気候が温暖で、自然に恵まれ、物産の豊かな江南で生活する、世間知らずの幸福な青年でした。もし、抗日戦争期の苦しみに満ちた八年間を経験しなければ、おそらく今日にいたるまで、ぼんやりとして、わけのわからないまま、夢うつつに一生を送っていたことでしょう。
 巴金先生の『家』『春』『秋』といった作品と、私たちの生活や思想・心情は、とても似通っていたため、彼のペンに満たされた温かさや、作中に描かれた恋愛と同情は、直接、私の魂に触れるものでした。
 池田 代表作の『家』は、日本でもよく読まれてきた作品です。
 金庸 私は地主兼銀行家の家庭の出身ですので、社会的地位は『家』の高家と、ほぼ同じでした。ただ、こちらは江南の田舎町、高家は成都という大都市にあるという違いはありました。
 江南の田舎町は上海に近かったせいで、開放的な雰囲気が成都よりも早く訪れました。そのため家庭内の封建的な色彩は、高家ほど濃厚、強烈ではありませんでした。
 私の家でも女の子たちを使用人として少なからず雇っていましたが、『家』の鳴鳳のような美しくて頭のよい女の子は、いなかったように思います。(笑い)
 もっとも、私が家を離れたのは十三歳のときです。年齢がまだ小さかったためでしょう。女の子たちが美貌であるかどうかに興味をもち、気を配ることは、まだありませんでした。今振り返ってみても、彼女たちの容貌は、ごく普通だったと記憶しています。ただ性格はみな温厚で優しく、私にもたいへん、よくしてくれました。
 しかし『家』の覚慧(高家三兄弟の末弟、封建制打倒に燃える情熱家)と鳴鳳のロマンスを読んだときは、私にも理解できました。それは当時、『家』を読むときの心情が、『紅楼夢』を読むときと、さほど変わらなかったからです。たとえば池に身を投げて自殺する鳴鳳に対する同情は、晴雯(せいびん)や芳官(ともに『紅楼夢』に出てくる使用人)に対する同情に等しかったのです。
 池田 『家』の封建的な桎梏に満ちた家庭に比べて、金庸先生のご家庭は、自由な雰囲気があったのですね。
 金庸 巴金先生は「愛を破壊するすべてのもの」を敵と見なし、封建的で立ち遅れた制度と戦うことを決意していますが、彼の小説は、その目標を達成しているといってよいでしょう。
 彼は覚新(高家三兄弟の長兄)の惰弱さと悲劇を描いていますが、これらは腐敗した封建制度によってもたらされたものであることが、はっきりと示されています。当時、私はほんの子供でしたが、深い感動を覚えるとともに、作者と考えが一致していることを自覚していました。
 池田 『家』は、深い味わいのある作品ですね。巴金氏は、この名作の末尾に、家を出て革命運動の胎動著しい上海へと向かう覚慧が、船上、茫々たる河の流れに目をやるシーンを、こう綴っています。
 「眼前は果てしない緑の水である。この水は絶えず前方へ流れてゆく。それは彼を載せて、見も知らぬ大きな都市へ行くのだ。そこにはいっさいの新しいものが生長しつつある。そこには新しい運動が起っている」(『家』飯塚朗訳、岩波文庫)
 この一節について巴金氏が、私の問いかけに対し、「ここでいう『水』とは、青年を意味している。未来への可能性を意味しているのです」と語られていたことが、忘れられません。
6  社会の矛盾に対する激烈な告発
 金庸 巴金先生の『滅亡』と『新生』という作品は、革命青年の思想・心情を描写した作品ですが、そのころの私には、よくわかりませんでした。ドラマチックに話が展開する部分に興味を覚えた程度です。
 最も深い印象を受けた作品は、『春の中の秋』『秋の中の春』という二つの中編小説です。一つは創作で、一つは翻訳です。ある若者の胸の内と淡い恋心が書き述べられています。印象が深かったのは、若者の考えていることが、まったく私自身のことでもあったからです。なかでも、誠実な愛が挫折するという不幸には、感銘ひとしおでした。
 池田 今挙げられた作品は、残念ながら寡聞にして内容を知りません。巴金氏からは全集を頂戴しましたが、ほとんどの作品は、まだ日本語に訳されていないのが現状なのです。
 金庸 『寒夜』『憩園』といった、比較的後期に属する小説は、それまでの作品よりも含蓄の深い情緒を漂わせているため、読者の側にも深い見識が要求されます。より芸術性が高くなっている分だけ、鑑賞する人は、かえって少ないようです。音楽も、あまり格調が高いと、唱和する人が少ないように。
 ベートーヴェンを引き合いに出してみましょう。ピアノ曲「エリーゼのために」の軽快で活発な調べは、人々に愛され、鑑賞する人はとても多い。しかし「交響曲第九番」などの力作となると、思想が深く、構成も重々しいため、理解が容易ではなく、そのため愛好者は当然、ぐっと減ってしまいます。
 池田 なるほど。『寒夜』には、魯迅に通じるような暗さというか、社会への根底的な告発がありますね。
 気の弱い、善意の男が、どこにも出口の見えない、どろどろした嫁姑の争いに巻き込まれ、自らも病魔にとりつかれてしまう。追い詰められた妻は主人公を愛しつつも、そのもとを去る。
 主人公もまた、赤貧洗うがごとき困窮のなか、彼を盲愛する老母と二人で、不治の病の進行を、絶望的に見やるしかない。ついに病に声さえ奪い取られた彼の痛憤――。
 「彼の声を聞くことができた者はいなかった。彼は『公平』を要求した。しかしその『公平』はどこにあるのだ。彼は自分の悲憤を声にして叫ぶことができなかった。彼は沈黙のなかで死んで行かなければならないのだ」(『世界文学全集72』所収の立間祥介訳「寒い夜」集英社)
 「彼は『公平』を要求した」――なぜ自分だけが、このような悲劇に遭わなければならないのか。宿命といい、天命という。それは果たして善なるものなのか、邪なるものなのか、と。
 この問いかけは、いわれなき罪によって、身を宮刑に処されるという恥辱を味わった司馬遷の発した有名な言葉「天道是か非か」を想起させます。
 それはまた、打ち続く災厄に翻弄されながら、必死に"神"の意図を探し続ける義人ヨブ(旧約聖書)の姿に見られるように、実は宗教の次元と隣り合わせにあるといえましょう。
 しかし、巴金氏の場合は、よい意味でも悪い意味でも、宗教への跳躍は見えません。むしろ、社会の矛盾に対する激烈な告発となっていく。
 その点、巴金氏の文学が、革命を志し、社会主義中国を誕生させていった当時の若い人々に、さぞかし広く受け入れられ、勇気を送り続けていったであろうと推察されます。
7  日中交流に心血を注いだ先人の気骨と苦闘
 金庸 池田先生と巴金先生が初めて会われたのは一九八○年ですが、その前年に巴金先生が書かれた『随想録』のなかには、日本の友人である中島健蔵氏を記念する一文があります。ここには土岐善麿、井上靖、水上勉など、多くの日本の友人について言及されています。
 そのなかで巴金先生は、中島健蔵氏について、こう書いています。
 「氏は酒好きで、しかも酒豪だった。私は数回、氏のために酒席を設けたが、いつも節制するよう勧めた。私の忠告は、あまり効き目がなかった。私には、氏が酒の力を借りて憂さを晴らしているのが分っていた。当時、氏は、中日両国人民の友情促進の事業のために刻苦奮闘しており、脅迫状が舞い込んだり、色眼鏡で見られたり、文章発表の場が得られなかったり、書店は著書を出版してくれなかったりで、生活の源を塞がれ、自動車を売り払うなど、困苦の日々を過ごしていた。それでも氏は屈服せず、動揺もしなかった。氏は、中日文化交流という、この巨大な事業に多大の心血を注いだ」(『随想録』石上韶訳、筑摩書房)と。
 池田 伝え聞くところによると、たいへん剛毅な方だったようですね。
 中島氏が当時、「四人組」の一人として、飛ぶ鳥を落とす権勢を誇っていた姚文元と会ったときのエピソードを聞きました。
 姚文元の居丈高な物言いに対して、中島氏は、ついに堪忍袋の緒を切らしてしまい、言葉を荒げた。あわてた通訳は、できるだけやわらかく訳すのだが、中島氏の激しい語気、表情から、姚の顔色が変わってしまう。この一幕があってから中島氏が理事長を務める日中文化交流協会へのいやがらせが激しくなった、と。
 金庸 中島先生は生前、日中文化交流協会の中心的存在でした。巴金先生の言葉は続きます。
 「あるとき、中島氏と雑談したさい、氏が言うには、どうも中日友好が自分の最後の仕事になりそうだ、自分には何の心配も恐いこともない、とのことだった。『私は、この仕事を選び、この道を歩んで来て、少しも後悔していない』と氏は言った。ここで氏は、『シンガポールの経験』を語り出した。一九四二年、氏は従軍記者となってシンガポールへ行った。同地で、日本軍が何の根拠もなく多数の華僑を逮捕し、みな銃殺するのを目のあたりに見た。あとで犠牲者の一部の母親が息子の写真を持って中島氏のところへ訪ねて来た。それ以来ずっと氏は、このことで悩み続けた。氏はしきりに、戦後の日本の前途について考えた。有名な評論家でフランス文学者であるこの人は、ついに、自分の主要な仕事、つまり中日両国人民が子々孫々に至るまで仲よくつき合っていくために努力するという仕事を探し当てた」(同前)と。
 池田 身に染みてわかります。以前にも申し上げたように、私も中国との友好交流のため、三○年間、走り続けてきましたが、その原点は、一つには第二次世界大戦中、出征していた長兄が、一時除隊になって家に帰ってきてもらした一言――「日本軍は、ひどすぎる」――にあるからです。長兄はビルマ(現・ミャンマー)で戦死しました。中島氏の苦しみと同じような"うずき"が、心の深いところにあるのです。
 ところで姚文元一派のあまりのいやがらせに、日中文化交流協会の方が意気消沈していたところ、中島氏は、こう一蹴されたといいます。
 「花道で死のうと思うな。野垂れ死にこそ光栄だ。つぶされるそのときまで、続けるんだ」
 美しい言葉です。まるで花形役者が、舞台で「見栄」を切っているような名セリフですね。中島氏の気骨を思わせます。
 のちに事情を聞いた周恩来総理は、「ずいぶん迷惑をかけたようだ。すべて自分の責任だから、許してほしい」といって、頭を下げられたといいます。周総理も、さすが、というしかありませんね。並の人物にできることではない。
 金庸 中島先生と同じように、池田先生もまた、中日友好を推し進めたがゆえに、激しい攻撃と中傷を受けられ、先生の名誉を破壊しようとするデマが捏造されました。しかし先生は、これらを歯牙にもかけず、なおも「日本は第二次世界大戦で犯した侵略の罪を謝罪し、お詫びすべきだ」と主張されました。
 これこそ日本人がとるべき愛国的行為だと思います。なぜなら徹底して侵略を懺悔し、以後は決して同じ轍を踏まないと誓ってこそ、国家は平穏安楽で、光明に満ちた大道を歩み始めることができるのですから。ここにこそ、真の愛国者が目指すべき目標があります。
 池田 詳しくは申しませんが、初めて中国にうかがったときも、続いてソ連を訪れたときも、さまざまな妨害がありました。非難も中傷もありました。
 しかし、それが何でしょう。歴史の目から見れば、とるに足らない「波騒」にすぎません。誰が正しく、誰が愚かだったのか。時の鏡は、くっきりと映し出してくれるでしょう。すべてを低く見下ろしながら、私は「わが道」を進むだけです。
8  一番苦しんだ人に一番幸せになる権利が
 金庸 話は若干、横道にそれますが、今年、中国の吉林大学から池田先生と私に、名誉教授の称号を授与したい旨、話がありました。大学関係者の皆さんのご厚情に心から感謝したいと思います。
 ただ私自身については、今後は精力と時間を、歴史の著作と歴史小説の執筆に集中させようと計画していますので、気持ちが分散しないよう、対外的な活動はできるだけひかえており、婉曲にお断りした次第です。
 吉林大学について池田先生は、次のように語っておられます。
 ――日本の中国侵略は、東三省から始まった。"満州国"の首都は、吉林省長春に置かれた。日本は中国に損害を与えたが、なかでも吉林省は苦しみが最も長く、侵略の時間が最も長いところである、と。
 池田 一番苦しんだ人が、一番幸せになる権利をもつ。これが私の宗教者としての信念です。日本では、先の第二次世界大戦で唯一の国内戦を経験し、数多くの非戦闘員が犠牲となり、鉄の暴風といわれた砲撃で山河が変容した沖縄の人々です。私が小説『人間革命』の執筆を沖縄から開始したのも、その思いを込めてのことでした。吉林省の方々に対しても、まったく同じ思いなのです。
 金庸 先生は、こう続けておられる。
 ――私は吉林大学と連携を結ぶことによって、何としても大学の発展に貢献したいと願ってやまない。これによって「罪をあがなう」ことができるとはいえないが、少なくとも一人の日本人として、懺悔の意を示したいのです……。
 私はたいへん感服しました。これこそ公明正大で、立派な「大丈夫」の行動だと思います。病床の巴金先生も、このことを知れば、きっと、このような友人をもててうれしいとおっしゃるにちがいありません。
 池田 過分なお言葉です。
 巴金氏と三度目の語らいのおり、談たまたま「トルストイの死」が話題になりました。氏は「トルストイは自殺をするような人とは思えない」と断言された。その断固たる口調に私は、失礼とは思いながら、うかがわずにはいられませんでした。「文化大革命の猛威が吹き荒れた、最悪の苦悩のなかで、死を考えたことはありましたか」と。
 「いや、考えたことはありません」。氏の目に鋭い光が走りました。「苦しいことは多かったが、そのなかで考えた唯一のことは、『戦って、戦って、戦い抜いて生きていく』ということでした」
 もちろん、あの悪夢のような空前の狂乱のなかで、多くの文化人が巻き込まれたように、苦悩の屈折があったとはいえ、その根底を貫く鉄のごとき信念、巌のごとき人格――巴金氏という「人間」を垣間見たような思いがしたものです。
9  『随想録』にみられる勇気ある告白
 金庸 巴金先生は一九七九年から八六年まで、全部で五冊の『随想録』を著しました。そのなかで、かなりのページを割いて、"文化大革命中、自分は意志を堅く保つことができず、硬骨漢になりきれなかった"と自責しています。
 具体的には政治の圧力に屈し、「良心に背く」総括と批判を書き、不合理とわかっていながらも自分を告発し、さらには友人や他の文芸工作者をも告発してしまったのです。
 作者自身が自己を暴露し、自己を批判したことは、読者を驚かせ、動転させました。巴金先生のように"卑しくて恥ずべき行為をしでかした"と自分で自分を罵り、きっぱりと自責の念を表したことは、中国の歴史上、まったく先例がないからです。
 池田 『随想録』の一つである『探索集』には、こう記しておられますね。
 「一切のことをすべて『四人組』に押しつけることはできない。私自身も『四人組』の権威を認め、低頭してひざを屈し、甘んじて彼らのなすがままに任せた。だから、まさか自分に責任がないとも言えないだろう!まさか他の多くの人々に責任がないとも言えまい!」(『探索集』石上韶訳、筑摩書房)と。この炎の吐露こそ、偉大な人格を示しています。
 金庸 文革期間中は、当局の圧力のもと、殴打や残虐な刑罰に遭い、また家族にも被害が及ぶかもしれないと脅され、多くの人々が屈辱的な自己批判書を書きました。
 しかし巴金先生が『随想録』を書いたときは、いかなる圧力からも完全に自由でした。ですからこれは、正直で善良な一人の人間の、純粋な、真心からの懺悔なのです。これはおそらく、彼が生涯、敬服してやまぬフランスのルソーと深い関係があるのではないかと思います。
 池田 ルソーの『告白』が、すぐ想起されますね。
 金庸 私は、『随想録』を読み終えた後、巴金先生に対する敬服の念を増すとともに、「自分ならこのようにはできないだろう」と恥ずかしく思いました。
 私が、もし同じ環境のもとに身を置いたとしたら――私の行動はきっと、彼の半分にも及ばなかったでしょう。
 池田 そのお言葉そのものが、真摯な、そして勇気ある告白です。人間、正直であるということは、やさしいようで難しいことだと思いますが、言葉の本当の意味で「正直な」告白であると、私は受けとめました。
 ここで巴金氏は、わが「内なる悪」「内なる『四人組』」を見すえておられる。「内なる『四人組』」を見すえることが不十分であったがゆえに、「外なる『四人組』」の恫喝に、一時とはいえ、もろくも屈してしまった。邪な権力の在り方を、ある意味で認めてしまった。そのことを他人の責任にせず、「自分の問題として」、とらえ返しておられる。ここが大事です。
 T・S・エリオットは指摘します。
 「世俗的な改革家や革命家の運命が一段と安易のように私におもわれる一つの理由はこういうことなのです――主としてこれらの人々は世の悪を自分の外部にあるものと考えているということです。この場合、悪はまったく非個性的と考えられるので、機構を変革する以外に手はないということになります。あるいは悪が人間に具体化されているとしても、それはいつも他人の中に具体化されるのです」(『エリオット全集5』所収の中橋一夫訳「キリスト教社会の理念」中央公論社)
 悪は外にあると同時に、自らの内にもある――この点を凝視しない限り、あらゆる世直しや革命は、単なる権力の交代劇の域を出ることができないでしょう。
 金庸 文化大革命が始まるやいなや、私はすぐに新聞紙上に社説を発表し、文革を推進する中国共産党当局のデタラメぶりを厳しく糾弾しました。さらに『月刊明報』を創刊し、文革中に起こった、さまざまな不合理を、白日のもとにさらしていったのです。
 私たちは、江青に反対し、林彪に反対し、康生、陳伯達、柯慶施、張春橋、姚文元に反対し、郭沫若に反対し、毛沢東に反対しました。そして私たちは、彭徳懐、鄧拓、呉晗、廖沫沙、鄧小平、周恩来、李先念、劉伯承、陳毅、巴金、曹禺、老舎をほめたたえ、支持し、画家の黄冑、黄永玉たちを支持しました。
 池田 よく存じあげています。「明報」紙上における先生の舌鋒の鋭さは、今なお語り継がれています。
 金庸 これは私が、巴金先生よりも大胆で、正義感に富み、観点が正しかったことを意味するものではありません。単に私は香港にいた――つまり安全な場所にいたからにすぎないのです。中国共産党の極左派が、私を暗殺しようと企てたことがありましたが、ほどなく周恩来総理が命令をくだし、極左分子が香港で暴力行動に出ることを禁止したため、ことなきをえました。
 私たち香港在住の文化人が、大胆に直言して、はばかることがなかったのは、また政治的な迫害という大きな災いを免れることができたのは、比較的幸運だったというだけのことです。内地に身を置く同業種の人々よりも、勇敢であったとか、正しかったというわけでは決してありません。この点について私は、「己を知る」聡明さをわきまえるべきでしょう。
10  文学は人の魂を築き上げるもの
 池田 そうは言われますが、日本でも当時、文革の熱に浮かされた人は大勢います。むき出しの権力闘争を、思想や哲学の粉飾で飾り立て、文字どおり、人類史上空前の文化革命だと期待を寄せ、空疎な理想を振り回していた人たちがいます。
 そのなかで金庸先生は、はっきりと「これは権力闘争だ」と見抜かれた。炯眼というほかありません。
 ところで巴金氏に、「政治と文学」について質問したことがあります。
 巴金氏のお返事は、「文学は政治から離れることはできません。しかし、政治は、絶対に文学の代わりにはなりえない。文学は、人の魂を築き上げるものだからです」というものでした。
 「大災厄」の試練を受けた後での発言でした。政治に関わることを厭い、無関心を決め込んでも不思議ではない。憎悪や鬱憤がにじんでいても、おかしくはない。ところが、この断固たる発言です。
 前に触れたように、中国では「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」といいますが、まさに「文に生きる」真金の覚悟に触れた思いでした。
 金庸 巴金先生は語っています。
 「私が文章を書くのは、『敵と戦う』ためだ。すなわち、封建的で立ち遅れた伝統、人類の進歩を妨げ、人間性の発揚を阻む一切の不合理な制度、愛を破壊するすべてのもの……これらを打破するためだ」と。
 彼は常に、一つの崇高な目標をいだき続けてきました。もちろん「私が作品を書くのは、ただ生きていく糧を得るためであって、名を成したいと思ったからではない」という発言も見られますが。
 池田 若さですね。精神の若さ……。
 巴金氏が来日された際、講演会で、こんな「作家としての自画像」を語っておられたそうです。
 「来る日も来る夜も、あたかも私の魂を鞭打つかのように、私の内部では、情熱の炎が燃えさかる。大多数の人々の苦しみと、自分自身の苦しみが、一刻の休みもなく私のペンを走らせる。私の手は、押しとどめることのできない力で、紙の上を動く。それは、あたかも、多くの人々が私の手の中のペンを借りて、その苦しみを訴えているかのようだ。
 私は自分を忘れ、周囲のすべてを忘れ、物を書く機械と化してしまう。時にはイスの上にうずくまり、時には机の上に頭を伏せ、時には立ち上がってソファの前まで歩いていき、すぐまた腰をおろし、心を高ぶらせながら、ペンを走らせる」
 まるで巴金氏の日常、「ペンの戦士」の苦闘しゆく様子が、目の前に浮かんでくるような言葉ではありませんか。
 金庸 巴金先生の文章は、激情に満ちあふれています。彼自身、創作のモットーは「心を読者に捧げる」ことだと述べています。
 たしかに私たちは、巴金先生のどの文章からでも、彼の心に触れ、彼の豊饒な感情を受け取ることができます。古典主義の観点からいえば、含蓄に欠け、吐露しすぎるきらいがあると評されるのでしょうが。
 私自身は、おとなしく、あっさりした文章を好み、そのような創作を常々心がけています。
 しかし、かつて巴金先生の文章を読んで、涙を流したことがあります。少年のときは、『家』の鳴鳳めいほうの自殺や、瑞玉ずいぎょくの難産の末の死に、最近では巴金先生が蕭珊しょうさく夫人の逝去を描いたものを読んで泣きました。
 作者は、決して感情のおもむくままに任せているのではなく、哀悼と苦悩を深く心に刻みながらも、自身は涙をじっとこらえているのです。彼は創作のとき、涙を流さぬよう、じっとこらえて書いていますが、私はこれらを読むとき、とてもこらえることはできません。

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