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日蓮大聖人・池田大作

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第九章 ペンによる大闘争――『立正安国…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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10  文学は人の魂を築き上げるもの
 池田 そうは言われますが、日本でも当時、文革の熱に浮かされた人は大勢います。むき出しの権力闘争を、思想や哲学の粉飾で飾り立て、文字どおり、人類史上空前の文化革命だと期待を寄せ、空疎な理想を振り回していた人たちがいます。
 そのなかで金庸先生は、はっきりと「これは権力闘争だ」と見抜かれた。炯眼というほかありません。
 ところで巴金氏に、「政治と文学」について質問したことがあります。
 巴金氏のお返事は、「文学は政治から離れることはできません。しかし、政治は、絶対に文学の代わりにはなりえない。文学は、人の魂を築き上げるものだからです」というものでした。
 「大災厄」の試練を受けた後での発言でした。政治に関わることを厭い、無関心を決め込んでも不思議ではない。憎悪や鬱憤がにじんでいても、おかしくはない。ところが、この断固たる発言です。
 前に触れたように、中国では「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」といいますが、まさに「文に生きる」真金の覚悟に触れた思いでした。
 金庸 巴金先生は語っています。
 「私が文章を書くのは、『敵と戦う』ためだ。すなわち、封建的で立ち遅れた伝統、人類の進歩を妨げ、人間性の発揚を阻む一切の不合理な制度、愛を破壊するすべてのもの……これらを打破するためだ」と。
 彼は常に、一つの崇高な目標をいだき続けてきました。もちろん「私が作品を書くのは、ただ生きていく糧を得るためであって、名を成したいと思ったからではない」という発言も見られますが。
 池田 若さですね。精神の若さ……。
 巴金氏が来日された際、講演会で、こんな「作家としての自画像」を語っておられたそうです。
 「来る日も来る夜も、あたかも私の魂を鞭打つかのように、私の内部では、情熱の炎が燃えさかる。大多数の人々の苦しみと、自分自身の苦しみが、一刻の休みもなく私のペンを走らせる。私の手は、押しとどめることのできない力で、紙の上を動く。それは、あたかも、多くの人々が私の手の中のペンを借りて、その苦しみを訴えているかのようだ。
 私は自分を忘れ、周囲のすべてを忘れ、物を書く機械と化してしまう。時にはイスの上にうずくまり、時には机の上に頭を伏せ、時には立ち上がってソファの前まで歩いていき、すぐまた腰をおろし、心を高ぶらせながら、ペンを走らせる」
 まるで巴金氏の日常、「ペンの戦士」の苦闘しゆく様子が、目の前に浮かんでくるような言葉ではありませんか。
 金庸 巴金先生の文章は、激情に満ちあふれています。彼自身、創作のモットーは「心を読者に捧げる」ことだと述べています。
 たしかに私たちは、巴金先生のどの文章からでも、彼の心に触れ、彼の豊饒な感情を受け取ることができます。古典主義の観点からいえば、含蓄に欠け、吐露しすぎるきらいがあると評されるのでしょうが。
 私自身は、おとなしく、あっさりした文章を好み、そのような創作を常々心がけています。
 しかし、かつて巴金先生の文章を読んで、涙を流したことがあります。少年のときは、『家』の鳴鳳めいほうの自殺や、瑞玉ずいぎょくの難産の末の死に、最近では巴金先生が蕭珊しょうさく夫人の逝去を描いたものを読んで泣きました。
 作者は、決して感情のおもむくままに任せているのではなく、哀悼と苦悩を深く心に刻みながらも、自身は涙をじっとこらえているのです。彼は創作のとき、涙を流さぬよう、じっとこらえて書いていますが、私はこれらを読むとき、とてもこらえることはできません。

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