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第八章 民衆の魂の覚醒――革命的ヒュー…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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2  「同苦」の心から出発した革命的ヒューマニスト
 金庸 私たちが魯迅先生を尊敬するのは、彼の文学もさることながら、その人格、強烈な愛国精神、中華民族への熱愛、封建的な腐敗には一切妥協しない激しい闘争、そして何よりも、当時の中国人の内面に巣くっていた無気力さや無感動・無感覚――いわば「朽ち果てた精神状態」への痛烈な叱咤にあります。
 魯迅先生が、どれほどこの問題で悩み、苦心惨憺したか。それは池田先生が先ほど「魯迅ほど民衆の底の底まで見つめ、厳父のごとく叱咤し、慈母のごとく慈愛しぬいた作家も稀ではないでしょうか。それは瀕死の重傷を負って泣き叫ぶわが子に、涙をたたえてメスをふるう医師の姿をほうふつさせます」と表現されたとおりの壮絶な姿でした。
 池田 そもそも魯迅は、なぜ文学を志したのか。有名な話ですが、彼はこう述べています。
 "愚かで弱い国民は、たとえ体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようと意味がない。まず自分たちがなすべきことは、国民の精神を改造することだ。そのためには文芸が第一だと思った"と。
 十九世紀の半ば以降、中国は列強の侵略の下に蹂躪されていた。国内では圧政に苦しめられていた。それでも数億の民は、そうした現状を諦めていた。
 魯迅は、それが歯がゆくてならなかった。文字どおり身もだえするような怒りを、憤りをいだいていた。
 「わが同胞よ、『諦め』の闇から立ち上がれ!旧い社会の壁を打ち破れ!」――彼の激しい言々句々からは、そんな火を吐くような叫びが聞こえてきます。
 金庸 魯迅先生が中国人の幅広い尊敬を受けているのは、彼が傑出した作家・文豪であることにとどまらず、その人格と精神が「作家」という枠を、はるかに超越しているところにあります。たとえ彼が一生の間に一字も書かなかったとしても、中華民族から出た偉大な人物であることに変わりはなかったでしょう。
 時世を憂うる熱情。わが身の危険を顧みず、民衆覚醒の運動に挺身する勇気。また、悲惨な状態に身を置く中華民族に活力を与えるため、甘んじてわが身を犠牲にした献身。中国人は、こうした偉大な人物を「志士仁人」と呼びます。
 巨大な「同苦」の心から出発して、誠心誠意、人々の福利を図り、私心なく献身する姿――それは中国古代、治水に尽力した禹や、広く人々を教化した孔子に比べることができます。民衆を思いやる心情は、釈迦やイエスに匹敵します。
 池田 『故事新編』のなかの「理水」は、舜の時代の水利大臣・禹に対する魯迅の思いをこめた傑作ですね。口先ばかり達者で、実行力などまるでない知識人――現代にも、こうした無責任な口舌の徒が何と多いことでしょうか――に対して、無骨な大男で顔は真っ黒に日焼けし、歩き回ったため足は少し曲がっている禹の風貌は、まさに対照的で、大実践者である「志士仁人」のおもかげをほうふつとさせています。
 私は期せずして、広大なインドの大地を歩き回ったため、足の裏がコチコチに固くなったという、釈尊の故事を想起しました。
 魯迅の"同志"であった茅盾が、彼について書いていますね。
 「われわれの古代の哲人は、『仁者』(革命的ヒューマニスト)だけが人間を愛することができ、人間を憎むことができると述べております。魯迅はこのような『仁者』であります」(『世界文学大系62』所収の松井博光訳「魯迅」築摩書房)
 彼は、単なる作家ではない。中国人が尊敬してやまない古代の聖人賢哲に匹敵するほどの人物なのだ、と。
 金庸 中国人は、こよなく魯迅先生を崇拝しています。彼が頼みにしたものは筆墨だけです。高くそびえ立つ不動の勲功を残したわけでもなく、何千何万という人々を組織したわけでもありません。
 しかし、多くの人々に恵みをもたらそうとする深い愛情や、徹底して奮戦してやまぬ精神は、中国史上の、いかなる偉人にも引けをとりません。
 池田 以前、私は魯迅についてエッセイを綴ったときに、こう書きました。
 魯迅には二つの顔がある。一つは「ペンの闘士」の顔。もう一つは、人間精神の内奥を徹底して見つめ、掘り下げた「哲学者」の顔だ、と。
 どちらか一つの側面に偏って評価することはできません。それほど魯迅という人物は大きい。
 金庸 そのとおりです。大作家であるばかりではなく、一個の大人物なのです。
3  魯迅の民衆観が結晶した『阿Q正伝』
 池田 その魯迅の「民衆観」が結晶した作品といえば、やはり『阿Q正伝』が、その白眉ではないでしょうか。
 阿Qは、姓は不明。名もわからない。文字どおり「無名の庶民」です。
 金庸 『阿Q正伝』は、平凡な人々の「めぐり合わせ」と、その内面を描き、分析することで、典型的な中国人を書き表そうとした作品です。
 池田 おっしゃるとおりです。
 金庸 阿Qは本当は、「趙」という姓を名乗りたかったのですが、有力者の趙旦那に分不相応だと言われ、平手打ちをくらってしまいます。名前もなく、あるのは「Q」という一つの音だけです。
 (「Q」という音に対応する)「阿丘」でもなく、「阿貴」でも「阿桂」でもないのです。どこで生まれたのかもわからず、原籍もありません。(一個の人間としての)個性はなく、あるのは"習性"だけです。
 これは、当時のいかなる中国人にも当てはまることだといえますし、同時に、いかなる中国人もそうではないともいえます。
 池田 阿Qとは、誰彼という個別の人間をさす、いわゆる「小文字」の名前ではなく、あくまでも「大文字」の名称だった。それだけの深さと普遍性をもっていた。
 当時、この作品を読んだ中国の人々が、"阿Qとは、ひょっとして自分がモデルではないか"と愕然とした――そんなエピソードも有名ですね。
 金庸 評論家が阿Qを分析するとき、多くは彼の「精神的勝利法」に着目します。
 (他人にバカにされても、すぐに自分で自分をなぐさめ、ゆがんだ優越感を取り戻すという)"精神的な勝利"だけを求めて、積極的に向上する努力を怠る――これはたしかに、多くの中国人がもつ天性でありましょう。
 しかし、より大切なことは、何が何だかわけがわからないままに、運命に翻弄されている阿Qの悲しい一生です。魯迅先生は、この点を強調しているのです。
 池田 愚かで、見栄っぱりで、いつも場当たり的に、その日その日を暮らしている。何でも自分の都合のよいほうに解釈し、すぐ自分という殻のなかに逃げ帰ってしまう。だから、どんなにバカにされても、どんなひどい目にあわされても平気でいられる――処世の知恵といえば聞こえはいいが、魯迅のいう「精神的勝利法」の内実とは、言ってみれば「悲しいまでに愚鈍な楽天主義」というところでしょうか。
 そんな「精神的勝利法」に浸っていた、当時の中国人に対して、魯迅は皮肉を込めて綴っています。
 「かれ(阿Q)はいつだって意気軒昂である。これまた、中国の精神文明が世界に冠たる一証かもしれない」(『阿Q正伝』竹内好訳、岩波文庫)
 痛烈なアイロニー(皮肉)で、忘れることのできない一節です。
 金庸 ええ。阿Qが意気軒昂になることといえば、町で盗賊に出くわし、その手助けをして、分け前をもらうくらいなもの。いつもは仕事もなく、糊口をしのぐ機会もなく、人々から軽蔑されている。うさばらしに誰かをいじめてやろうと思うのですが、逆に打ちのめされてしまう。仕方がないので、自分より弱い、若い尼さんをいじめます。
 池田 阿Qの愚かさを表現するくだりは、読む者が目をそむけたくなるほどリアルです。思わず本を閉じてしまいたくなるような……。
 それが、ある種の"暗さ"として、当時、世直し運動に挺身していた青年たちが、非難の矛先を向けたところですね。逆にいえば、魯迅の眼光は、尋常一様の人生経験では歯がたたぬような民族精神の「原質」(かつて私が、北京大学での第一回の講演で使った言葉です)まで射通していることの証左ともいえましょう。
 だから、聖人君子ぶった偽善者・インテリに対して、魯迅ほど痛烈に攻撃を加えた人はいません。激しい言葉で……。
 私が三○年前に、日中国交正常化を提言したとき、最初に注目してくださった一人に、中国文学者の故竹内好氏がいますが、氏は、魯迅の筆鋒を「徹底して敵を許さぬという、あのくらい徹底した人はちょっといない」と評しています。愛情と表裏一体の憎しみというか、そこまで徹底しないと本当の革命的論調にはなりえない――ともかく"本物"の凄みを感じます。
 金庸 最後に阿Qは、わけもわからず革命に幻想をもち、いっぱしの革命家を気取り、そしてわけもわからず処刑されてしまいます。当時の中国人は、阿Qと同じように、悲しむべき一生を送っていたのです。
 ただ私は、阿Q個人の主な特徴は「精神的勝利法」にあるのではなく、彼が無感動・無感覚で意志が振るわず、何の知識もないことだと思います。
 阿Qは、その一生を暗黒のなかで過ごし、わずかばかりの光明すら見ずに終わります。魯迅先生は自身のペンを火種にして、幾千幾万の松明に点火し、無知蒙昧な幾千幾万の中国農民に光明をもたらそうとしたのです。
4  阿Qを目覚めさせる革命と創価学会の民衆運動
 池田 「助けて……」と、声にもならない叫びを上げて処刑された阿Qについて、ロマン・ロランは「わたしは、阿Qのあの悲しそうな顔を永久に忘れない」と語っています。
 阿Qの叫びは庶民の「声にならない声」そのものです。阿Qを目覚めさせることができないような革命は、本当の革命ではない。阿Qのような庶民の悲劇を理解しなければ、いかなる革命も政治も、ただの権力の交代劇に終わってしまうことでしょう。
 この「声なき中国」の民衆の最深部に降り立ってこそ、真実の「精神の改造」の「吶喊」(突撃の雄叫び、鬨の声)たりうるのだ――魯迅は、そう語りかけているように思えてなりません。
 金庸 その後、新中国の誕生にいたるなかで、農民たちは立ち上がりました。元気もなく、尻込みして、わけもわからず、暗黒のなかをさまよっていた生き方と訣別したのです。そして武器を手にし、自分たちを抑圧してきた「趙旦那」や「ニセ毛唐」を倒しました。
 江西、湖南、陝西、山西、河北、山東……中国の広大な地域で、数えきれないほどの阿Qたちが胸を張って立ち上がりました。毅然として大地を踏みしめ、何者も恐れず、名声まさに天下に鳴り響く英雄へと成長したのです。彼らの体が変化したのではありません。彼らの頭脳が変わったのです。
 魯迅先生が生涯、悲嘆したのは、阿Qの頭脳でした。先生が期待をかけ、努力したことは、阿Qの「頭を変える」ことでした。
 池田 私ども創価学会が目指し、実践してきたこととも、深く、そして強く響き合っています。
 私どもは、祈りに祈ってきました。戦いに戦ってきました。苦悩に打ちひしがれていた庶民に、無限の勇気と希望を与えたい。人間としての誇りと自信を取り戻して進もうではないか!
 その民衆運動のなかで、「黙っていた」庶民が「口を開く」ようになりました。「声を出す」ように、そして大声で笑うようになりました。
 かつて作家の杉浦明平氏が語っておられました。
 「学会の最大の業績は、社会の底辺にいる人たちというか、庶民の力を引き出し、蘇生させたことです」と。
 金庸 なるほど。
 池田 杉浦氏の近所に両親が盲目で、それこそ宿命を一手に背負い込んだような一家がいたそうです。暗く、沈鬱な感じだった。その一家が学会員になった。すると、いつの間にか、明るい談笑の声が聞こえるようになった。
 また、生活も苦しく、満足に人と話もできないような女性がいた。村でも孤立状態だった。その人が、あちこちの家を訪ねて歩くようになった。聞けば学会に入って、仏法の話をしているのだという。
 堂々と自己主張しはじめ、学校の父母会でも発言するようになった。驚いた。こうしたことは、上からの押しつけなんかでできることではない。信仰という自発性でなくてはできない――見る方は見てくださっています。
 決して"我が田に水を引く"ものでないことは、金庸先生には理解していただけると思います。そうした庶民の次元にまで精神変革の波が及んだということは、日本の歴史では稀有のことなのです。その意味では、私どもの前進は、日本精神史上に一つの文化革命をもたらしつつあると、私は自負しているのです。
 周恩来総理が、一九六○年代から学会に注目してくださっていたのも、何よりも学会が「民衆のなかから立ち上がった団体だからだ」とうかがい、さすが名宰相の炯眼と感じ入った次第です。ありがたいことです。
 金庸 理解できます。その道のりの困難さも、偉大さも、私には、よくわかるつもりです。
 現在、中国のどこの農村に行こうと、阿Qのような人間に会うことはありません。
 出会う人々は壮健で、活発な男女ばかりのはずです。たとえ中国と外国の問題を持ち出したとしても、きっと彼らは、香港の返還問題を語り、さまざまに国際情勢を語ることでしょう。
 農民であれ、郷鎮企業の従業員であれ、町の小売業者であれ、彼らは皆、小型の電子計算機を使いこなし、家には新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどがそなえられているはずです。中国は生まれ変わったのです。
5  民衆が主人になる時代とは
 池田 お国の発展は目覚ましいかぎりです。私自身、これまで一○回の訪中を通じて実感しています。この五月にも上海を訪れましたが、天を衝くような勢い、活力を感じました。
 周総理は「いずれ中国も交通渋滞に見舞われる。日本の高速道路建設を、よく研究しておくように」と言われていたそうですが、中国は、総理の予測をも上まわるような勢いで発展しておられる。
 二十一世紀に向かって伸びゆく中国――貴国の興隆、繁栄を、心の底から願ってきた私にとって、これほどうれしいことはありません。
 金庸 お言葉に感謝します。現在の中国の発展も、魯迅先生はじめ幾多の先人が、その礎を築いたからこそです。
 池田 魯迅は語りました。単刀直入にいえば、中国人民の歴史は、「奴隷になりたくてもなれない時代」と「しばらく安全に奴隷でいられる時代」の二つしかない、と。
 この不幸な歴史の輪廻を断ち切り、まったく新しい「第三の歴史」を創造することが、彼の宿願でした。端的に言ってそれは「民衆が主人になる時代」であったはずです。
 金庸 魯迅先生が熱望していたように、阿Qの頭脳は根本的に変わりました。そのすべてが魯迅先生の仕事によって成し遂げられたわけではありません。しかし彼の提唱を受けて立ち上がった多くの青年たちが、彼の指導に従って、その難事業を遂行していったことはたしかです。
 そして、さらに多くの青年たちが、懸命に奮闘し、暗黒の勢力と戦い続けました。一方、知識人たちは、外国の革命思想を受け入れるとともに、これを広めていきました。
 その結果、労働者、農民、兵士といった多くの民衆の頭脳が変化し、民衆自身が闘争のために奮い立ちました。
 池田 新中国誕生にいたるまでの、生き生きとした建設の息吹については、たとえばエドガー・スノーの記念碑的なルポルタージュ『中国の赤い星』などに詳しく記されていますね。
 当時の革命児たちは、農民を教育し、徹底して説得してまわった。正義と平等と自由、人間の尊厳のために戦うべきだ。そして呼び起こされた中国農民の意識と力は、中国を二○○○年の眠りから目覚めさせた。この地上に激しい変化をもたらしたのだ、と。
 金庸 魯迅先生は阿Qのほかに、無感動・無感覚の典型として、趙旦那やニセ毛唐、また『祝福』の祥林嫂、『孔乙己』の孔乙己、『薬』の華老栓、『石鹸』の四銘などを描いています。
 そのすべてが農民ではありませんが、いずれも中国の旧社会のなかで、朧朦として、少しの生気も感じられない、腐乱した人物の一群です。
 人間が腐乱していれば、そうした人間たちで成り立っている社会もまた、腹の内側から崩れ、ただれていくものです。
 池田 今、先生が挙げられた魯迅の作中人物に共通するのは、ネガティブなかたちをとった民衆の「原像」というか「原質」への、徹底した肉迫ですね。
 革命といい世直しといいますが、一切はまず「人間」を革命するところから始まる。人間を変革せずして、社会の変革はありえません。魯迅の革命的ヒューマニズムが、私どもの「人間革命」の主張と響き合うゆえんです。
 金庸 魯迅先生は、中国数千年の歴史を振り返り、民衆が過ごしてきた日々は、いつも生活によりどころがなかった。一度として本当の「人間」になったことなどない、と言いました。先ほど池田先生が指摘されたように、一番よくても奴隷になれるだけで、悪ければ奴隷にすらなれない、と悲嘆しました。
 戦争が起きても民衆は、自分が、どちらの側に属しているのかもわからない。賊が来れば当然、殺される。官軍が来ても、やはり同じように略奪され、惨殺されます。
 やっとのことで世の中に太平が訪れると、労役に服し、年貢を納めることで、殺されずにすみます。つまり、安らかに奴隷になれる時代が到来するわけです。
 池田 最近、金庸先生の小説『碧血剣』(全三巻)の日本語訳が出版されましたが、この作品でも、そうした庶民の流転劇が綿々と綴られていましたね。いつの世も、一番苦しむのは庶民です。
 中国ほどではないにせよ、日本でも民衆への苛斂誅求は厳しいものでした。「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」「百姓と油は、搾れば搾るほど出る」といった言葉がまかり通る時代が長く続きました。
 長い間、そう「飼い慣らされてしまった」ゆえか、いつしか日本人の心のなかには「長いものには巻かれろ」とか「お上には逆らえない」といった考えが、深く根を下ろしてしまいました。
 福沢諭吉が『文明論之概略』のなかで「武人の世界に治乱興敗あるは、人民のためには、あたかも天気時候の変化あるに異ならず。ただ黙してその成行を見るのみ」(『文明論之概略』松沢弘陽校注、岩波文庫)と喝破しているように、いくじなく権力の僕に甘んじ続けてきたのが、いつわらざる現状だったのです。
 私どもも戦いますが、日本人が、こうした貧しい精神風土を克服できる日は、残念ながら、まだまだ先のようです。
6  民衆の頭脳を変えようとした魯迅とガンジーの闘争
 金庸 「奴隷になりたくてもなれない時代」と「しばらく安全に奴隷でいられる時代」とは、「一治一乱」という言葉にも置き換えられます。
 「治世」とは民衆が安全に奴隷でいられる時代であり、官軍や賊に、むやみに殺される心配はありません。「乱世」になると官軍と賊の両方から殺され、民衆は奴隷になりたくてもなれない時代になります。要するに「むしろ太平の犬とはなるとも乱世の人とはなるなかれ」ということです。乱世に生きる人間は、犬にさえ及ばないのです。
 もちろん、こうした状況は改められなければなりません。魯迅先生の闘争は、一生続きましたが、それは、こうした社会に、変革の道を見いだすための戦いだったといえるでしょう。
 池田 中国における魯迅の存在は、いわばインドにおけるガンジーにも比べられるのではないでしょうか。
 ガンジーの盟友、ネルーは述べています。
 ――ガンジーのインド民族への最大の贈り物は「何ものも恐れるな」という教訓だった。彼は民衆の心から「どすぐろい恐怖の衣」を取り除き、「民衆の心の持ち方を一変させた」のだ……。
 金庸先生が言われたように「民衆の頭脳を変えようとした」魯迅の闘争は、ガンジーのそれと同じく、不朽の光を放っています。魯迅という一個の人間を通して、中国の民衆は今まで覆い隠されていた自らの可能性に気づき、真実の"自分自身"を発見したのにちがいありません。
 金庸 ガンジーも悲運に倒れましたが、中国でも文化大革命の期間に、著名な文人は皆、災難に遭いました。
 ある人が、こんな問いかけをしました。
 「魯迅先生が、もし今日まで生きておられたなら、批判を受け、『闘争』の対象にされていただろうか」と。
 この質問は、香港でなされたものです。そのとき、論議に参加していた人の意見は皆、同じでした――もちろん、「闘争」の対象にされていただろう。そして「清算」されていただろう、と。
 池田 私も、そう思います。金庸先生が鋭く見抜いておられたように、文化大革命の本質が権力闘争にあったことを、魯迅が見逃すはずはありませんし、紅衛兵による幼稚で粗暴な攻撃などに屈するはずもなかったでしょう。
 人間を見すえ、歴史を見る魯迅の透徹した眼は、時流を超えたものがあったのではないでしょうか。彼には、どこか"予言者"の風貌を感じます。
 そして、時流の大勢として受け容れられることを、どこかで手厳しく拒否するような孤高の風格というか、底の底まで掘り下げた精神性の原質ともいうべきものが不気味に底光りしています。彼が文化大革命を経験したとしても、その結果はおそらく、幸福なものではなかったように思います。
 金庸 そうでしょうね。魯迅先生の歴史観は、そのまま彼の民衆観でもあります。彼は、歴史とは民衆がつくるものだと認識していました。
 先ほど池田先生と私が語り合った二種類の時代は、「マクロの中国史」です。阿Qや孔乙己、祥林嫂、閏土などの人物は、「ミクロの中国史」です。司馬遷の『史記』そのものは、「マクロの中国史」です。劉邦、項羽、秦の始皇帝といった人々の伝記は、もう一つの「ミクロの中国史」といえるでしょう。
 ただ魯迅先生は、本当の歴史は阿Q、孔乙己、祥林嫂といった人々によってつくられるのであって、秦の始皇帝、劉邦、項羽といった人々によってつくられるものではないと考えていました。しかしながら、結果は同じく一治一乱の交替であったわけですが。
 池田 歴史は"英雄"がつくるのか。民衆がつくるのか。歴史学の分野でも、民衆が歴史に果たしてきた役割を、より重んじる傾向が出てきていますね。
 金庸 西洋の歴史学者も社会史、風俗史、文化史といった分野を、次第に重視しています。以前のように政治史だけが唯一の歴史だとは見なさなくなりました。近年はさらに「民衆史」の著述が発表されるようになってきています。
 比較的早い年代のもので、著名な業績としては、イギリスのエドワード・トンプソンの『イギリス労働者階級の形成』、アメリカではターケルの『困難な時代』があります。しかし、これらは科学的な観点から見た歴史です。魯迅先生が文学によって私たちの心のなかに再現した民衆史とは異なります。
7  魯迅のなかの「寂寞」と青年への希望
 池田 ところで魯迅の文筆活動をたどっていくと、初期の評論の一つである「摩羅詩力説」(一九○七年)以来、繰り返し「寂寞」という言葉に突き当たりますね。
 「寂寞」――どんなに叫んでも何一つ反響がない。静まりかえった"底無し沼"を相手にしているような感触は、生涯、魯迅にまとわりついて離れませんでした。
 もちろん、それは虚無感とも絶望感とも違うものでした。
 「人が寂寥を感じたとき、創作がうまれる。空漠を感じては創作はうまれない。愛するものがもう何もないからだ」(竹内好訳『魯迅文集4』所収の「小雑感」筑摩書房)と語っているように、それは彼にとっての創作の源泉でもあったのですね。
 金庸 そうです。「寂寞」とは、魯迅先生の文筆活動を理解するうえで、欠くことのできない重要な言葉です。
 池田 また魯迅は、「暗黒ともみあっていただけだ」と語ったこともあります。
 自身の文筆活動を振り返って「寂寞」といい、「暗黒」という――中国と中国人の未来を憂うる魯迅の苦悩は、それほど深かった。複雑だった。
 しかし、その苦悩こそ、むしろ「ペンの闘士」としての勲章なのかもしれません。魯迅が目指したものは、目には見えない「民衆の魂」の変革という、いまだ誰も登ったことのない峰でした。
 険しい峰を登る者にしか、山頂に吹く風の激しさはわかりません。彼の苦悩は、そのまま、彼の闘争の偉大さを物語る証明だったように私は思います。
 偉大な事業を成し遂げようとする者なら、一度は必ず、そうした孤独の試練に突き当たることでしょう。「寂寞」という言葉には、そんな魯迅の深い真情が込められていると思うのです。
 金庸 池田先生は、魯迅先生の「摩羅詩力説」に注目されています。独自のご見識に敬服します。といいますのも、中国で魯迅研究に従事する人はたいへん多いのですが、この論文に言及する人は少数だからです。
 「摩羅詩力説」が書かれたのは、『阿Q正伝』の一四年前です。魯迅先生の当時の作品は、その多くが西洋の知識や思想を紹介したものですが、これもその一つです。
 「摩羅」という言葉はインドに源を発する言葉で、「悪魔」を意味します。西洋でいうサタンです。魯迅先生は、この言葉を使って激しい反抗の思想、既存の秩序や制度を打ち破ろうとする精神を表しています。
 サタンとは、天国に背き、神に反抗する者のことですが、ここでは封建的な道徳や観念に反対し、全力で個性を発揮し、終始たゆむことなく、既成の制度や観念を拒絶するという意味に広げています。
 池田 魯迅が青年を愛したゆえんも、そこにあったのではないでしょうか。青年は本質的に、未来を志向するものです。また革新性をもっています。現状に甘んじることなく、常に未知の可能性へ挑戦していく。
 先ほどは「寂寞」という言葉について語り合いましたが、私は魯迅が、どこまでも青年を愛したという一点に、彼がいだいた希望の光を見ます。文豪は、ある種の文学青年たちの、まじめではあるが短兵急な非難、攻撃に、ときには絶望的になりながらも、最後まで若さのもつ可能性に信を繋ぎとめていました。
 あるときは本を買ってくれた青年が握り締めていたお金の温もりに、自分の本が青年の前途を誤らせはしないかと心配する魯迅。
 またあるときは権力の弾圧に散った青年のために、幾度となく紅涙したたる追悼の筆を執った魯迅。そして生前、最後の写真のなかでも、青年と語り合っていた魯迅。
 彼は言っています。
 「生きて行く途中で、血の一滴一滴をたらして、他の人を育てるのは、自分が痩せ衰えるのが自覚されても、楽しいことである」(石一歌著、金子二郎・大原信一共訳『魯迅の生涯』東方書店)
 青年は希望です。その青年を愛し、育てようとした人に、根本的な「絶望」はない。そう思います。
8  評論「摩羅詩力説」と生命の力
 金庸 私たちも青年のために、もう少し、「摩羅詩力説」の内容について説明しておきましょう。
 魯迅先生は「摩羅詩力説」を通して、愛国の観念を深めるとともに、祖国を解放し、自由を勝ち取り、圧迫に反抗するための戦争、闘争を鼓吹しています。
 作品の冒頭は、古くからの文明国は、その多くが衰亡し、文化さえも二度と興隆することのなかったこと。かくしてインド、イスラエル、エジプト、イランといった古い国は、鳴りをひそめて没落していったという指摘から始まります。
 しかし、たとえ国家が軍事や政治の分野で失敗したとしても、その後に、もし偉大な文人が詩文を創作し、その国の民衆の魂を呼び覚ましたならば、プロシアやイギリスのように、復興の機会は十分にあると主張します。彼は、こうした詩人を「摩羅派詩人」と呼ぶのです。
 池田 激しい情熱をたぎらせた、憂民憂国の詩人たち、という意味ですね。
 金庸 いわゆる"聖人君子"たちは、そうした詩人たちを、まるで悪魔でも見るように、反逆者のごとく扱います。しかし実際は、こうした反逆の徒のペンによって、民族の活力や社会の良心が表現されるのです。
 魯迅先生が特に力を込めて推賞しているのが、イギリスの大詩人バイロンです。世間の耳目を驚かせる彼の言動が、論文のなかで紹介されています。
 池田 バイロンが「自由」を勝ち取るという己の理想を実現するために、ギリシャの解放戦争に身を投じる。そして結局、自分の生命を犠牲にする。
 私も、いかなる現状にも安住せずに、絶えず新しいもの、創造的なものを求めゆく彼の魂の革命性に、強い共感を覚えます。
 金庸 そして同じく「自由」を謳い上げたイギリスのシェリーの叙述に移り、彼の詩作である「プロメテウスの解縛」と、「チェンチ家」が紹介されます。
 チェンチという乙女の父親は暴虐無道で、むやみに民を惨殺していた。チェンチは民の害を除くために実の父親を殺します。父殺しは本来、大逆ですが、シェリーの詩は、この乙女をほめたたえています。
 魯迅先生は、さらにロシアの詩人プーシキン、レールモントフ、ポーランドのミツキェヴィチ、ハンガリーの詩人ペテーフィなどを紹介しています。
 ペテーフィは偉大な愛国詩人です。「生命は誠に貴重なものだが、愛情の価値はこれに勝る。しかし、もし自由のためならば、両者ともなげうつべし」(ペテーフィ著『自由と愛情』〈一八四七年作〉から翻訳)という有名な詩句の作者です。彼は帝政ロシアの圧政に抵抗して戦死しました。
 池田 バイロンにしろ、プーシキン、シェリーにしろ、私も若いころから愛読してきた詩人です。とても共感を覚えます。なかには残念ながら、日本ではあまり知られていない詩人もいますが。
 ともあれ魯迅が挙げた詩人たちは、理想に生き、信念に生き、「自分自身」に生きるという、「生命の光」にあふれています。澄み切ったロマンの青空があります。
 「苟に日に新たに、日日新たに、又日に新たなり」――私の大好きな言葉ですが、いずれの詩人からも、そんな清新な「魂の息吹」を感じてなりません。
9  魯迅に比肩しうる文人が日本にいたか
 金庸 魯迅先生は、この文章の結論を次のように述べています。
 「(こうした詩人たちは)いずれも剛毅不撓の精神をもち、誠真な心をいだき、大衆に媚び旧風俗習に追従することなく、雄々しき歌声をあげて祖国の人々の新生を促し、世界にその国の存在を大いならしめた。わが国において、これに比肩しうる詩人がいるであろうか」(『魯迅全集1』所収の北岡正子訳「摩羅詩力説」学習研究社)
 池田 魯迅にとって、そうした詩人たちの姿は、自らが進む「民衆覚醒」の道の先達と映ったことでしょう。彼の心の鼓動が聞こえてくるような一節です。
 金庸 この文章は古文で書かれていて、やや難しかったせいか、当時の青年たちは、あまり注意を向けませんでした。
 しかし、そこに描かれた、国を愛し、国の発展を願う思い。民衆を目覚めさせようという情熱。人々の足枷になっている風俗習慣に反対し、古く朽ち果てたものは取り払おうという思想は、その後、魯迅先生が一生を通じて行った言動と寸分も違いません。
 「わが中国において、これに比肩しうる詩人がいるであろうか」
 この問いかけは、池田先生が言われるように、まさしく魯迅先生が、「これぞわが道」と思い定めたゆえの言葉です。自分自身に課した言葉であり、自らを励ます言葉であったと思います。
 池田 私も問いかけてみたいと思います。
 「日本において、果たして魯迅に比肩しうる文人がいたであろうか」と。
 日本の近代の主だった文人のなかで、魯迅のように社会悪と真正面から戦った人がいたかといえば、おそらく皆無でしょう。
 もちろん中国と日本とでは、背負った時代背景や事情が違うかもしれません。
 十九世紀以来の帝国主義の流れのなかで、日本は「後発」の帝国主義国でした。そのため近代化の進展の度合いが比較的早かった。「先発」の帝国主義国に追いつけ、追い越せと、国民がこぞって先を急いだ。
 その近代化の欺瞞性や醜さを文人たちが鋭く感じとっていたことも事実です。
 夏目漱石が有名な『草枕』の冒頭で「……とかくに人の世は住みにくい……どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」と述べているように、文学や芸術の世界が、実社会への一つの異議申し立てを基盤にしていることは事実でしょう。
 しかし、日本と中国では「住みにくさ」の度合いが、まるで違う。ゆえに文人たちの問題意識も、魯迅のように社会の矛盾や悪に目を向け、真っ向からそれに立ち向かおうとするのではなく、個人の内面へ、あるいは魯迅が中国古典との断絶を叫んだのとは対蹠的に、古典の世界へと向かってしまいました。
 それは、見方によっては、ゆとりともいえるし、逆に、むしろある種の逃避といえます。いずれにせよ、そうした土壌からは、魯迅のような戦う文人が生まれなかったことだけは事実です。日本と中国の近代史を比較するなど、軽々にすべきではないし、もっともっと長いスパンで見なければ、その理非曲直は判断できないでしょう。しかし私は、この「果たして魯迅に比肩しうる文人がいたであろうか」という問いは、絶えず問い直されてよいと思っております。
 よく日本に「革命」はなかった――太平洋戦争後の民主化はもとよりのこと、あるいは明治維新にしても、みな外圧をきっかけにして起こったもので、民衆が自ら起こしたものではない、といわれますが、総じて民衆が自分たちで意識して、自発的に社会を変革するという経験がなかった。
 そうした精神的土壌からは、一人の「魯迅」も世に出ることはなかった。これは日本人の精神の骨格を考えるうえで、重い意味をもっているように思えてなりません。

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