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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 青春の書――『プルターク英雄伝…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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7  最古の紀伝文学『史記』との比較
 金庸 『プルターク英雄伝』を読んだとき、私はすでに香港におりました。年も三十歳を過ぎていました。手にしたきっかけは、『ジュリアス・シーザー』などシェークスピアの戯曲数編のルーツを探るためでした。
 ノースの訳本は、エリザベス一世時代の英語で書かれています。文章も典雅で華麗なため、当時の私の英語力では、とても歯が立ちませんでした。
 そこで極力、「綿密に読む」ことに注意を払いました。ただ、本を読む一方で、英語を勉強したり、文学を研究したりしたので、この本に込められた道徳的な意義は、十分くみ取れませんでした。
 池田 この本が多くの人に愛されたのは、一つには「伝記」という形式をとったからでしょう。一人の人間、一つの事件を、無理なく理解させてくれる。歴史の「輪郭」がくっきり浮き出てくる。
 金庸 歴史学者も、多くの場合、「伝記」という形式を使って歴史を叙述します。
 世界で最も早いものは、司馬遷の『史記』です。その次は班固の『漢書』です。『プルターク英雄伝』は、『史記』の成立に比べて、少なくとも二○○年は時代がくだります。
 池田 二つの本を比較して、違いは何であるとお考えですか。
 金庸 『史記』は、字数が、はるかに少ない。しかし人物の風采は、『プルターク英雄伝』よりも自由闊達に描かれているように思います。
 二人の人物の伝記を合わせて掲載し、同時に比較して論じる「対比式」は、司馬遷も採用しています。たとえば蘇秦と張儀、白起と王翦を合わせて論じています。ほかにも「孟子・賈生列伝」「衛将軍驃騎列伝」などがあります。いずれも二人の伝記を一つにまとめた形式です。
 その後の中国の歴史家は常に、こうした体裁を踏襲してきました。『唐書』には、李靖と李勣の伝記が一つにまとめられています。
 プルタルコスは当時、『史記』の内容を見たり聞いたりすることはなかったでしょうから、伝記を対にして、合わせて評論するスタイルは、彼自身の創意によるものと思われます。
 もし、この本がなかったら、シェークスピアの重要な戯曲のいくつかも、世に出ることはなかったわけです。
 池田 司馬遷の偉大なところは、死んでも死に切れないような「恥」に身悶えするなかで、その苦しみを「歴史創造」の情熱に変えていったことです。
 苦境に出合ったとき、何を残すか。多くの場合、人間の真価は、そこで問われます。
 司馬遷は『史記』を執筆した動機を告白するにあたって、こう述べています。
 「それ詩書の隠約なるは、その志の思いを遂げんと欲すればなり。昔、西伯は羑里に拘われて、周易を演べ、孔子は陳・蔡に厄して春秋を作り、屈原は放逐せられて、離騒を著わし、左丘は明を失いて、それ国語あり、孫子は脚を臏(き)られて、兵法を論じ、不韋は蜀に遷りて、世、呂覧を伝え、韓非は秦に囚われて、説難・孤憤あり。詩三百篇は、大抵賢聖、発憤の為作するところなり」(『史記Ⅷ』西野広祥・藤本幸三訳、徳間書店)と。
 金庸 「太史公自序」の一節ですね。
 池田 古来、歴史に残る名著を残した者は、自身を襲った苦悩に発憤することで創作の力を得た。苦しみを前進へのエネルギーに変えたのだ、と。
 私どもが信奉する日蓮大聖人も、最大の難の最中にあって、「開目抄」「観心本尊抄」といった重要な書を著されました。
 恩師も、よく言われていました。"大聖人が偉大なのは、ただ難をしのばれたからではない。最も大きな難の最中にあって、最も重大な法門を明かされたことだ"と。
 これは、文筆の世界に限らず、人生万般にわたる真実でしょう。ひとかどの人物というものは、いかなる逆境であれ、それを追い風に変えていく強靭な生命力を蓄えているものです。
 金庸 『プルターク英雄伝』の日本語版は、きっと素晴らしい出来ばえで、日本の文化人たちに大きな影響を与えたことでしょうね。
 中国では民国(中華民国)の初め、軍政の指導者や大文人のなかで、日本と深いかかわりをもっていた人が少なくありません。たとえば孫中山(孫文)先生、蒋介石、戴季陶、廖仲愷、魯迅、周作人、郭沫若、郁達夫などです。
 しかし日本が中国侵略を強め、「二十一カ条要求」を中国に突きつけてから、中国人の日本に対する敵愾心は深まりました。双方の文化交流は中断されざるをえなくなりました。これはたいへん不幸なことです。
 池田 十九世紀末以来、今世紀半ばまでの日本と中国の不幸な関係のなかでも、いわゆる「対華二十一カ条要求」は、その大きな分岐点であり、分水嶺ではなかったかと、私は思っております。
 第一次世界大戦中、欧米諸国の関心が中国から外れていた情勢につけ込み、中国での日本の権益拡大の要求を、一方的に突きつけた。近代日本の最大級の愚挙、愚行です。
 当時の中国政府は、日本からの最後通牒を受諾させられた五月九日を、「国恥記念日」としたほどです。それをきっかけに、思い上がった日本は次第次第に軍国主義化を強め、奈落の坂道を転げ落ちます。
 この対談でも申し上げましたが、私は何度でも繰り返します。「日本人は、中国に対して行ってきた蛮行、愚行を忘れるな!」「本当の日中友好を望むならば、過去をうやむやにするな!」と。
 『プルターク英雄伝』から日中の歴史にまで話が及んでしまいましたが、次章以降も金庸先生と私の「青春の書」をめぐって、語り合っていきたいと思います。

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