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第六章 青春の書――『プルターク英雄伝…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

前後
1  文学をめぐって共通する愛読書
 池田 「対談は、いうなれば友人同士が公開で手紙のやりとりをしているようなものです。文学をはじめ、お互いが相手に話しかけたいことを書きつづっていく。それを、ほかの皆さんも興味があれば一緒に楽しむ――そういうことになるかと思います」
 香港のご自宅での語らい(一九九五年十一月)で、金庸先生が話されたこの言葉は、まさに私たちの対談の「心」を語ってくださっています。現代中国語文学の巨匠である先生と、「文学」をめぐって、ざっくばらんに語り合えることは、私にとって何よりの喜びです。楽しみです。
 金庸 池田先生は以前、「私たち二人は、青春時代から愛読してきた文学作品のなかで、なんと多くの共通項をもっていることでしょう。本当に不思議でなりません」と言われました。
 前回も申し上げましたが、中国人は「酒、知己に逢わば千杯といえども少なく、話、投機せずんば半句たりとも多し」という諺をよく口にします。お酒を飲みながら談笑することを好むということでは、中国人も日本人も変わりないのではありませんか。(笑い)
 話に興が乗り、意気投合する。そうすれば、うれしくなって、「さあ、どうぞもう一杯」「あなたこそもう一杯」と勧め合う。ますますお酒の量は増え、語るほどに心は高揚していくものです。
 池田 ただ残念ながら、私はお酒が飲めません(笑い)。これがお酒が好きだった恩師であれば、きっと「意気投合」したにちがいないのですが。(笑い)
 金庸 いわゆる「知己」とは、互いに理解し合い、信頼し合い、相手を尊重し、相手を認め、たたえることです。
 私たちはよく「士は己れを知る者のために死し、女は己れを説ぶ者のために容る」(『史記Ⅵ』村山孚・竹内良雄訳、徳間書店)といいます。女性が化粧をし着飾る目的は、自分に好意を寄せてくれる男性に喜んでもらい、満足してもらうためである。己のことをよく知っている人がいれば、男性は、たとえその人のために命を犠牲にしたとしても本望だ、という意味です。
 池田 『史記』の一節ですね。
 金庸 中国の歴史に登場する、義侠心に富んだ英雄たちは、往々にして知己のために命を投げ出します。しかし正義や、ものごとの是非には、あまり重きを置きません。これは主に儒教思想が広まる前のことです。
 たとえば聶政じょうせい侠累きょうるいを殺し、専諸が呉王・僚を殺し、侯嬴こうえいが信陵君のために自殺を遂げ、予譲が趙襄子を殺そうとした。いずれも、ただ知己の恩に報いるためであって、いかなる正義も重要な目標になっていません。
 このことは日本の武士の理想に近いのではないでしょうか。弁慶の忠勇もまた、「己を知る者」に対する献身であり、義侠心に富んだ特筆すべき行いです。いうまでもありませんが、後世の「神風特攻隊」の忠勇に比べて、明らかに性質が異なります。
 池田 「正義」とは何かということは、難しい問題ですね。プラトンの大著『国家』は副題に「正義について」とあるにもかかわらず、正義そのものについての言及は皆無に近い。それほど難問中の難問なわけです。ただ一つ、決して忘れてならないことは、正義というものは、人間の身近な、率直な感情に即して探求されなければならず、それを無視したり歪めたりすると、必ず無理が生じてくるということです。第二次世界大戦の最中、戦意を鼓舞するために喧伝された「正義」や「大義」は、その典型です。
 当時は「悠久の大義に生きる」などと死が礼讃されましたが、現実の若者たち、特にものごとを真摯に考える者であればあるほど、それらを、空疎なスローガンに感じていたようです。
 もちろん、人間は無意味に死んでいくことに耐えられません。『きけわだつみのこえ』など戦没学徒兵の手記を見ても、自らの死の意味を必死に模索する若者たちにとって切実な関心事だったのは、まず家族であり、肉親であり、何よりもそうした身近な者たちが住む祖国でした。その祖国のために犠牲になるのだということで、強引に自らを納得させ、死を意義づけながら、"散華"していったのです。
 一番の問題は、「悠久の大義」などという声高なスローガンの下に、若者たちに百パーセント死が決定づけられている、「カミカゼ」などという愚行を強いた指導者たちの無能、愚劣にあります。
 戦争中だけではありません。いつの時代も大義という言葉は、油断できない言葉です。大義というものが大声で叫ばれるほど、その内実を厳しく見極めなければなりません。いきなり、話が大上段になってしまってすみませんが……。
 金庸 いえいえ、おっしゃることはよく理解できます。
 池田 ともあれ、『プルターク英雄伝』や『モンテ・クリスト伯』『三銃士』等々、若き日に同じ作品を読み、胸を高鳴らせてきた先生と私です。今、こうしてめぐり合えたこと自体に、深い縁を感じてなりません。
 金庸 私たちは、ともに動乱相次ぐ戦争の日々に身を置いた経験をもちます。当時、中国と日本は交戦状態にありました。もしあのころ、私たち二人が軍隊に入っていたら、戦場で顔を合わせていたかもしれません。(笑い)
 それはともかく、私たちの個性に共通点があることは、間違いないと思います。
 池田 金庸先生と戦場で遭遇するなど、考えただけでもぞっとします(笑い)。しかし日中戦争は、あくまでも日本による侵略戦争です。当時、私もご多分にもれず"軍国少年"の風に染まっていましたが、前にお話ししたように、中国大陸の戦線から帰った私の長兄が言っていました。「日本はひどいよ。あれでは中国の人たちがかわいそうだ」と。したがって戦争に対する懐疑の念が芽生えていました。
 軍部は「これは大東亜共栄圏をつくり、アジアの民衆を欧米の手から解放するための聖戦だ」などと宣伝していましたが、戦争の内実は、まるで似て非なるものだったのです。
 戦争の大義と現実とは、なんとかけ離れていることか――日本の敗戦を迎えて、そうした思いは大きくなるばかりでした。
2  愚かな指導者に率いられた民衆ほど不幸なものはない
 金庸 お話をうかがい、戦争の恐ろしさと平和の尊さについて語らずにはいられなくなりました。
 イギリスのオックスフォード大学やケンブリッジ大学を訪れるたびに目にするのですが、大学内のいくつかの有名な学院には、銅や木でできた銘板が掲げられているのです。そこには数えきれないほど多くの人々の名前が、一行一行、整然と刻み込まれています。注意深く説明を読みますと、こう記されていました。
 「本学院に在籍せし以下の教師、もしくは学生は、一九一四年から一九一八年(または一九三九年から一九四五年)の戦争中に殉国す」と。
 池田 私もオックスフォード大学を訪れたとき、目にしたことがあります。
 金庸 こうした人々はみな、イギリスの精鋭です。オックスフォード、またはケンブリッジの教授、講師、研究生、学生たち――もし若くして戦争の犠牲にならなければ、これらの人々のなかから、どれほど優秀な政治家、学者、科学者、芸術家が輩出したことでしょう。
 ところが現実には、彼らは忽然と、塵に、土になってしまったのです。戦争は、なんという多大な浪費をしてしまったことか。
 しかも歴史が古く、規模が大きい学院ほど、名簿に記された人の数も多いのです。見るたびに、いつも悄然とさせられます。悲しみに苛まれ、長い溜め息をついてしまいます。
 池田 戦争が多大な浪費であることは論をまちませんが、社会的立場が"上"である者ほど社会に対する責任も重い。イギリスはじめ、ヨーロッパの伝統ですね。「ノーブレス・オブリージ」(高貴なる者の義務)――かつて私も創価学園の生徒に語りました。
 近代の日本、特に戦争の泥沼に踏み込んでいった昭和の指導者たちには、そうした気風は希薄でした。立場が"上"になればなるほど保身になり、自分は矢面に立たない。責任を取らない。その結果としての政策決定、意思決定のシステムの脆弱さ、無責任さは、東京裁判を通じて、白日の下にさらされました。
 戦争は絶対にあってはなりませんが、日本の社会も、そうした良い意味での「指導者の徳」を育てなければなりません。
 金庸 今、当時を振り返って、国のために命を捧げられずに惜しいことをしたと誰が思うでしょう。当時、私たちは満身に敵意と恨みをいだき、相手を殺したいと思っていました。しかし、そうした敵意は、まったく不必要なものだったのです。それは戦争の過ちであり、戦争を引き起こした権力者、政客、軍部指導者の過失だったのです。
 池田 私も、そう思います。"戦争を準備するのはいつでも悪徳で、戦うのはいつも美徳だ""戦争というのは、ウソの、だましの体系である"などといわれるとおりです。
 特に当時の軍部指導者の、なんと愚かだったことか。評論家の村上兵衛氏が、自身の軍隊経験に照らして言っています。
 「参謀、上級指揮官、将軍たちが、何故あのように無知無能、傲慢、かつ愚劣としかいいようのない識見の人物で多く占められていたか」(『国家なき日本』サイマル出版会)と。
 私の長兄は、ビルマ(現・ミャンマー)で戦死しました。いな、戦死させられました。兄が犠牲になった悪名高いビルマの「インパール作戦」も、無能な軍部指導者の、無謀・低劣極まる軍事計画によって行われたものです。
 以前、「インパール作戦」の跡をたどるテレビ番組を観ました。大好きだった兄が、どんなに悲惨な状態のなかで死んでいったか、どれほど苦しかったかが、痛いほど胸に迫りました。愚かな指導者に率いられた民衆ほど不幸なものはありません。私たちは断じて、二度と再び、過ちを繰り返してはなりません。
3  人間的魅力に満ちた『プルターク英雄伝』
 池田 さて、私たちの対談も今回から、いよいよ「文学をめぐって」の章に入ります。数々の文学作品を話題に、互いの文学観、人生観を大いに語っていきたいと思います。
 金庸 私たち二人の愛読書が共通している主な理由は、個性が似通っているからだと思います。知己と呼ばせていただくのは、あまりにおこがましいことですが、少なくとも、「類は友を呼ぶ」ということは、差し支えないでしょう。(笑い)
 お酒が好きな人同士は、すぐにでも友人になれます。相撲やボクシング、サッカー、野球、バレーボールなどスポーツを観戦するのが好きな人同士は、それらの話を通じて友情を結びやすい。個性が似通っていれば、嗜好も共通するものです。
 私たちは青春時代、冒険や闘争心にあふれた英雄の物語を好んで読んでいました。そうした読書経験が、私たちの性格のなかに「行動」を好む積極性を養った。困難と衝撃に、たやすく屈服しない強さを育てました。
 池田 そうですね。私たちの「青春の書」といえば、まず『プルターク英雄伝』があげられると思いますが、どうでしょうか。
 金庸 ええ。若い読者のために、少し説明を加えておきましょう。
 私が読んだ『プルターク英雄伝』の英文の題名は、『ギリシャ・ローマの高貴な人物の伝記』です。これはイギリスのノース卿がフランス語訳から英訳したものです。
 原作者プルタルコス(プルターク)はギリシャ人ですので、原作はギリシャ語です。ノースの翻訳は、最も早い英訳ではありませんが、訳文がたいへん素晴らしく、ドラマ性に富んでおり、筆運びも華麗です。今日にいたるまで、多くの人々に読まれ続けています。
 シェークスピアは、この訳本から、ジュリアス・シーザー、アントニウス、クレオパトラ、アテネ人デモン、カレオラナス、ペリクレスなどの伝記数編を題材として取り上げています。
 ノースの文章が優れているため、シェークスピアの劇中では、若干の潤色はほどこされているものの、文章を直接引用した台詞が数多く見られます。
 池田 日本人でも、一度は名前くらい聞いたことのある英雄たちが、たくさん出てきますね。
 日本では一九五二年から五六年にわたって、岩波書店から完訳本が刊行されています。河野与一氏の訳業です。
 金庸 『プルターク英雄伝』の原題は、そのまま訳すと、『対比列伝』といいます。初めにギリシャの英雄の伝記を、続いてローマの英雄の伝記を描き、これを一対としているところから、この名前があります。
 対をなす二人の英雄は、功績、地位、性格が似通っており、一対の伝記が終わるごとに、比較と評論が加えられています。描かれている英雄は全部で二二対です。また、これとは別に、対になっていない独立した四編の伝記が含まれています。
 ノースの訳本では、まずギリシャの国を開いた君主・テセウスが登場し、その後にローマを開いたロムルスが登場します。
 中国語版では『ギリシャ・ローマ英雄伝』といいますが、完訳ではありません。訳文も、あまりこなれていません。読んでも無味乾燥で、味気なさだけが残ります。
 池田 日本や中国に紹介されたのは、ずっと後になりますが、ヨーロッパの文学や歴史に与えた影響は、計り知れませんね。
 金庸 ギリシャ、ローマの伝説上の、または実在の偉人の生きざまを、実に詳しく描き出しています。また、主だった戦争のようすがいくつも描かれていますが、英雄たち自身の描写よりもさらに臨場感があり、精彩をはなっています。
 作者は「対比」に重点を置いているようで、対をなす二人の英雄の類似点を、ことさら取り上げては、共通性を強調しています。
 また作者は、道徳と品格を重視して、偉大な功績そのものは、重んじていません。そうした記述の姿勢によって、偉人たちはいっそう、血もあり肉もある「人間」として、生き生きと描き出されています。
 この本がフランス大革命に与えた影響も大きい。ドイツ語訳は、ゲーテ、シラー、ベートーヴェン、ニーチェにも愛読されました。
 池田 『プルターク英雄伝』の魅力について、「英雄が『人間』として描かれている」ことを挙げられました。私も同感です。
 十九世紀の歴史主義以来、マルクス主義をはじめ多くの歴史観は、歴史の法則性あるいは必然性を追うあまり、歴史を創るのはほかならぬ人間である、という視点を、ともすれば、なおざりにしがちでした。一言にしていえば、「人間不在」ということです。そういう歴史書は、教えられるところはあるにしても、とにかくおもしろくない。
 人間を置き去りにした、近代の歴史観、世界観の破綻を決定的に示したのが、二十世紀の壮大なる実験に失敗した、旧ソ連や東欧の社会主義の現状でしょう。
 「歴史的必然」という言葉が、二十世紀ほどひんぱんに語られた時代はありません。しかし、歴史の流れがあらかじめ決まっており、しかも、それを人間が知りうるなどという考えは、傲慢そのものであって、もしそうなら、外的要因で一切が決まってしまうという一種の決定論であり、これほど簡単なことはありません。
 そこでは人間の独創性とか、主体性、努力といったものは、極端にいえば、すべて無意味になってしまう。つきつめれば、人間は、どうあがいても運命に逆らえない、何をやってもムダ、ということにもなりかねない。
 その意味では「物的決定論」ともいうべきマルクス主義と「心的決定論」ともいうべきフロイディズム(フロイト主義)が、二十世紀の二大思潮であったということは、象徴的です。
 ところが『プルターク英雄伝』の英雄たちの、なんと人間的魅力に満ちていることか。
 小林秀雄氏は「『英雄伝』とは言うが、テミストクレスもペリクレスも、アレキサンドロスもカエサルも、一向英雄らしくはない」(『考えるヒント』文春文庫)と述べています。どの英雄も実に人間くさい。多くの人間的欠点をもち、矛盾をかかえている。失敗も多い。決して聖人君子などではありません。
 でも、それが「人間」というものです。悩み、苦しみ、試行錯誤しながら、それでも現実と格闘し、歴史をつくり、歴史を残していく。『プルターク英雄伝』には、そんな赤裸々な「人間たち」の生きざまが淡々と綴られています。内容からいえば『英雄伝』というより、むしろ『人間伝』といったほうが適切かもしれません。
4  デモステネスの努力、ペリクレスの風格
 池田 すでにご紹介した「ペレストロイカの設計者」ヤコブレフ氏が言っています。モノを第一義とするのでもなく、「存在が意識を決定する」という唯物論の考えでもなく、「意識が人生を決定するという(仏教の)考えに、まったく賛成です」と。
 いうところの「意識」とは、仏法の言葉でいえば、人間の「一念」と言い換えることができるでしょう。「自分自身」がどうか。人生も社会も、一切はそこから始まるのです。いくらでも変革していけるのです。「人間」が歴史の主体者なのです。
 とかく無関心、無感動、いわば「心の死」にあえいでいるような現代です。そうした時代だからこそ、『プルターク英雄伝』は再び、大いに読まれてよい本だと思います。
 「人間たちは、かく悩み、かく戦った」――生き生きとした「人間への関心」「人間への感動」を取り戻していける力をもった本だと思います。
 金庸 登場する英雄たちは、どれも毅然としています。何ものにも屈することなく、意志の力が特に強い人たちです。
 たとえばギリシャの雄弁家デモステネスは、言葉がはっきりせず、特に「R」の巻舌音の発音が正確ではなかった。
 そこで彼は努力と鍛練を惜しまず、口のなかに小石を入れて、演説の練習をした。声が小さいという弱点は、平地を走ったり、急な坂を登ったりして、あえて息も絶え絶えになって演説や詩の吟唱をすることで克服した。さらに、大きな姿見を置いて、演説の身振り手振りの練習をした。こうした不屈の努力で、偉大な雄弁家に自分を鍛えていったのです。
 不撓不屈の精神で困難を乗り越え、奮闘し続ける古代の英雄たち――池田先生が、この本に感銘されたのも、こうした描写があってのことではないでしょうか。
 池田 地下に演説の稽古場をつくり、演技の練習をし、声を鍛えた。二、三カ月も稽古場にこもって練習するために、外に出たくても恥ずかしくて出られないよう、髪の毛を半分そり落とした――そんなエピソードも綴られていますね。私もよく若い人に紹介しています。「青春期の努力を忘れるな」と。
 金庸 デモステネスのほかに、特に先生の印象に残る人物は、誰でしょう。
 池田 ペリクレス(ペリクリーズ)でしょうか。「民主主義におけるリーダーシップとは、どうあるべきか」――彼の伝記は、実にさまざまな角度から教えてくれます。
 まず、指導者としての「風格」です。こんな挿話がありますね。
 「ある時などは、実に厭な手に負えない連中の一人に、一日中広場でののしられ悪態をつかれながらも、黙ったままそれを我慢して急ぎの仕事を片付けていた。夕方になって平生どおり家に帰るのをその男はまつわりついてきて、ありとあらゆる悪態をついた。だが、家に入ろうとした時にはすでに暗くなっていたので、ペリクレスは下僕の一人に灯をもたせ、その男を家まで送るよう言いつけたのである」(村上堅太郎編『プルタルコス英雄伝(上)』所収の馬場恵二訳「ペリクレス」ちくま学芸文庫)
 悪口雑言など悠々と見下ろしながら、「自分の道」を黙々と進む。目先の評判がどうこうではない。自分が今、果たすべき使命は何か。それに歴史が、どんな審判をくだすか。彼の胸には、くっきりと自覚されていたにちがいありません。
 金庸 堂々たる指導者の風格です。
 池田 また、指導者たるもの、「公私の別」に厳しくなければならない。欲望に支配されてはならない。そのことを彼は、よく知っていました。ゆえに自分を律しました。
 「市中においてはただ広場と評議会場に通ずる道一本を往来する姿が見かけられ、食事の招待とかそれに類する親睦の会を一切断わったので、彼の政治活動は長期にわたったのに、その間友人の誰のところにも食事の客となったことはなかった」(同前)
 「高潔さ」という点でも群を抜いていたようです。
 金庸 中国の故事にある「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」そのままの清廉ぶりですね。
 池田 その点、故周恩来総理は偉かったですね。枢要な地位にありながら、万事に特別扱いされることを嫌い、理髪店などでも、先客が順番を譲ろうとしても、固辞して受けなかった、といいます。
 ところで、ペリクレスは自分の才覚と努力で、アテナイ(アテネ)の最高指導者の座につきます。強大な権力を手にします。しかし、決して大衆に迎合しなかった。
 「民衆の自由になったり、風のように変り易い大衆の欲望に容易に迎合することはなかった」(同前)
 「右顧左眄せず〔国家の〕最善に向って真直ぐに施策を進めた。たいていの場合は民衆を説得と教化によって納得させた上でこれを導いたが、時としては非常に嫌がるのを手綱を引き締めて強引に前に向かせ、〔国家の〕利益となる方向に進ませた。ちょうど医者が長引く難病に対して、折を見ては害のない楽しみを許すかと思うと、折を見ては痛い手術をしたり口に苦い良薬を与えたりするのをそのまま真似ているわけである」(同前)
 民主政治は、ある意味で「人気」が左右します。政治家は一種の「人気商売」になりかねない。大衆に迎合すれば、そのときは、それで済むかもしれない。自分の身も安泰です。しかし、本当の意味での政治の成熟も、永続性もありません。
 このように、民主主義というものは、プラトンが『国家』で精妙に分析しているように、一歩間違えれば、ポピュリズム(大衆迎合主義)になってしまう危険性を常にはらんでいます。
 明確な展望のもとに、粘り強い「説得と教化」で民衆を導く。時に民衆の耳に逆らうようなことでも、言うべきことは、はっきりと言う。なかなかできることではありませんが、それでこそ指導者は、「民衆との信頼関係」を勝ち取れるのではないでしょうか。
5  大事を成すのは「時を知る」指導者
 金庸 社会の根本は、「信頼」です。
 むかし孔子が、弟子から「政治の一番大事な基盤は何でしょうか」と聞かれました。
 孔子は答えました。「第一に、人民に食を与えること。第二に、国を守るための強い兵力。第三に、人民からの信用である」と。
 弟子は続けて問います。「その三つのなかから、やむを得ず除くとすれば、どれが先でしょうか」。
 孔子は、三つのうち最初に除くなら、「兵力」であると答えました。人民がなければ国は成り立ちません。兵力がなくとも、人民には食を与えなければならないからです。
 弟子は、さらに問いかけました。「食と信用のうち、除くとすればどちらでしょうか」。
 孔子は考えて、答えました。「どちらかを除くというのであれば、『食』を除く」と。
 食糧は、民が自分の力で何とかすることができます。国家の蓄えがなくても支障はありません。一方、「国に信用がなければ、人民は、バラバラになってしまう。国が成り立たない」。
 池田 「民は信なくば立たず」と。
 金庸 この孔子の言葉は、現代にも当てはまると思います。たとえば商売をして、損をするのは痛手ですが、それ以上に「信用」をなくすことは、最も致命的です。団体をつくったり、会社を興したり、どんなことをするにも「信用」が一番大事です。
 池田 私は中国とのおつき合いを振り返ったあるエッセイに「信義の国信義の人々」と名づけましたが、中国の方々が伝統的に信義、信用を重んじておられることは、よく存じているつもりです。また私も二十数年間、その一点をベースに交流を重ねてきました。
 さらに挙げれば、指導者の重要な資質の一つは「時を知る」ことではないでしょうか。
 退くべきときは退き、進むべきときは進む。前後左右を油断なく見つめながら、「時」というものを知り、「時」に照らして全体の指揮をとっていかなければ、一流の指導者とはいえないでしょう。ペリクレスは、その「時を知る」指導者だった。
 自分の人気に気をよくしたある指導者が、調子にのって、他国への軍事行動を起こそうとした。多くの市民も賛成した。
 するとペリクレスは、「彼を引き留め思い止まらせようと試み、あの有名な言葉、すなわち、ペリクレスの言に従わずとも、最も賢明なかの助言者さえ待たば過ちを犯すことはあるまい、それは時である、という言葉を口にした」(前掲書)
 事態は、彼の心配したとおりになりました。アテナイは大敗し、多くの市民が犠牲になりました。勢いも大切。人々の団結も大切。しかし、そこに「時」という条件が加わらなければ、大事を成すことはかなわない。
 仏典にも「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」とあります。恩師も「今はいかなる時かを凝視して」(「青年訓」)と、青年に訴えました。ペリクレスも、この「時」というものの大きさを知り抜いていたように思えてなりません。
6  邪悪に打ち勝つアレクサンドロスの胆力
 金庸 『プルターク英雄伝』には、多くの英雄が出てきますが、いちばん有名な英雄といえば、やはりアレクサンドロスですね。
 池田 先生もそうでしょうが、私も少年の日、彼の活躍に胸おどらせたものです。
 その感動もあって、以前、『アレクサンドロスの決断』という青少年向けの創作を書いたこともあります。
 金庸 そうですか。もし中国語訳が出たならば、ぜひ読んでみたいものです。
 池田 アレクサンドロスについて書かれたものは数知れないと思いますが、彼について最も詳しく、また劇的に書かれたものは、『プルターク英雄伝』ですね。アレクサンドロスを書こうとする者は多かれ少なかれ、この『プルターク英雄伝』の内容を参照してきました。私の創作も『プルターク英雄伝』から多くのヒントを得ました。
 金庸 先生は創作の題材を、どんな場面からとられたのですか。
 池田 アレクサンドロスが重い病に倒れた際のエピソードです。
 ――友人である医師のフィリッポス(フィリップ)が、危篤状態にあるアレクサンドロスのために薬を調合する。
 一方、アレクサンドロスのもとには、ある手紙が届いていた。「フィリッポスが敵方に買収され、アレクサンドロスを殺そうとしている」と。
 しかしアレクサンドロスは、その手紙を枕の下に隠す。そしてフィリッポスが薬をもってくると、何もいわずにその手紙を渡し、自分はフィリッポスの薬を受け取る。
 「以後はまさに驚嘆すべき劇的な見ものであった。すなわちフィリッポスは手紙を読みアレクサンドロスは薬を飲み、それから同時に互いに顔を見合せたが、思いは同じでなく、アレクサンドロスは曇りのないなごやかな顔でフィリッポスに好意と信頼を示しているのに、フィリッポスは誹謗のため人心地もなく、神を呼んで天に向って手をさしのべたり、寝台に俯してアレクサンドロスに自分のことを疑わずに信じてくれるよう訴えたりしたのである」(村川堅太郎編『プルタルコス英雄伝(中)』所収の井上一訳「アレクサンドロス」ちくま学芸文庫)
 そして薬による深い昏睡状態ののち、アレクサンドロスは回復します。フィリッポスは裏切ってはいなかった。なによりも「疑いで友情の絆を割こうとした」策謀は、友を信じ抜いたアレクサンドロスの勝利に終わったのです。
 金庸 アレクサンドロスの胆力を物語る美しいドラマです。読者の胸を打つ一幕の劇ですね。
 池田 友を、人間を他意なく信じること。その曇りのない、雄々しい「心」には、邪悪も勝てませんね。
 ところで人間アレクサンドロスの魅力を、あますところなく伝えるプルタルコスの「まるでこの目で見てきたような」描き方が、また心にくい。(笑い)
 『プルターク英雄伝』は、ペンをとる人にとっても、よい"お手本"ですね。
7  最古の紀伝文学『史記』との比較
 金庸 『プルターク英雄伝』を読んだとき、私はすでに香港におりました。年も三十歳を過ぎていました。手にしたきっかけは、『ジュリアス・シーザー』などシェークスピアの戯曲数編のルーツを探るためでした。
 ノースの訳本は、エリザベス一世時代の英語で書かれています。文章も典雅で華麗なため、当時の私の英語力では、とても歯が立ちませんでした。
 そこで極力、「綿密に読む」ことに注意を払いました。ただ、本を読む一方で、英語を勉強したり、文学を研究したりしたので、この本に込められた道徳的な意義は、十分くみ取れませんでした。
 池田 この本が多くの人に愛されたのは、一つには「伝記」という形式をとったからでしょう。一人の人間、一つの事件を、無理なく理解させてくれる。歴史の「輪郭」がくっきり浮き出てくる。
 金庸 歴史学者も、多くの場合、「伝記」という形式を使って歴史を叙述します。
 世界で最も早いものは、司馬遷の『史記』です。その次は班固の『漢書』です。『プルターク英雄伝』は、『史記』の成立に比べて、少なくとも二○○年は時代がくだります。
 池田 二つの本を比較して、違いは何であるとお考えですか。
 金庸 『史記』は、字数が、はるかに少ない。しかし人物の風采は、『プルターク英雄伝』よりも自由闊達に描かれているように思います。
 二人の人物の伝記を合わせて掲載し、同時に比較して論じる「対比式」は、司馬遷も採用しています。たとえば蘇秦と張儀、白起と王翦を合わせて論じています。ほかにも「孟子・賈生列伝」「衛将軍驃騎列伝」などがあります。いずれも二人の伝記を一つにまとめた形式です。
 その後の中国の歴史家は常に、こうした体裁を踏襲してきました。『唐書』には、李靖と李勣の伝記が一つにまとめられています。
 プルタルコスは当時、『史記』の内容を見たり聞いたりすることはなかったでしょうから、伝記を対にして、合わせて評論するスタイルは、彼自身の創意によるものと思われます。
 もし、この本がなかったら、シェークスピアの重要な戯曲のいくつかも、世に出ることはなかったわけです。
 池田 司馬遷の偉大なところは、死んでも死に切れないような「恥」に身悶えするなかで、その苦しみを「歴史創造」の情熱に変えていったことです。
 苦境に出合ったとき、何を残すか。多くの場合、人間の真価は、そこで問われます。
 司馬遷は『史記』を執筆した動機を告白するにあたって、こう述べています。
 「それ詩書の隠約なるは、その志の思いを遂げんと欲すればなり。昔、西伯は羑里に拘われて、周易を演べ、孔子は陳・蔡に厄して春秋を作り、屈原は放逐せられて、離騒を著わし、左丘は明を失いて、それ国語あり、孫子は脚を臏(き)られて、兵法を論じ、不韋は蜀に遷りて、世、呂覧を伝え、韓非は秦に囚われて、説難・孤憤あり。詩三百篇は、大抵賢聖、発憤の為作するところなり」(『史記Ⅷ』西野広祥・藤本幸三訳、徳間書店)と。
 金庸 「太史公自序」の一節ですね。
 池田 古来、歴史に残る名著を残した者は、自身を襲った苦悩に発憤することで創作の力を得た。苦しみを前進へのエネルギーに変えたのだ、と。
 私どもが信奉する日蓮大聖人も、最大の難の最中にあって、「開目抄」「観心本尊抄」といった重要な書を著されました。
 恩師も、よく言われていました。"大聖人が偉大なのは、ただ難をしのばれたからではない。最も大きな難の最中にあって、最も重大な法門を明かされたことだ"と。
 これは、文筆の世界に限らず、人生万般にわたる真実でしょう。ひとかどの人物というものは、いかなる逆境であれ、それを追い風に変えていく強靭な生命力を蓄えているものです。
 金庸 『プルターク英雄伝』の日本語版は、きっと素晴らしい出来ばえで、日本の文化人たちに大きな影響を与えたことでしょうね。
 中国では民国(中華民国)の初め、軍政の指導者や大文人のなかで、日本と深いかかわりをもっていた人が少なくありません。たとえば孫中山(孫文)先生、蒋介石、戴季陶、廖仲愷、魯迅、周作人、郭沫若、郁達夫などです。
 しかし日本が中国侵略を強め、「二十一カ条要求」を中国に突きつけてから、中国人の日本に対する敵愾心は深まりました。双方の文化交流は中断されざるをえなくなりました。これはたいへん不幸なことです。
 池田 十九世紀末以来、今世紀半ばまでの日本と中国の不幸な関係のなかでも、いわゆる「対華二十一カ条要求」は、その大きな分岐点であり、分水嶺ではなかったかと、私は思っております。
 第一次世界大戦中、欧米諸国の関心が中国から外れていた情勢につけ込み、中国での日本の権益拡大の要求を、一方的に突きつけた。近代日本の最大級の愚挙、愚行です。
 当時の中国政府は、日本からの最後通牒を受諾させられた五月九日を、「国恥記念日」としたほどです。それをきっかけに、思い上がった日本は次第次第に軍国主義化を強め、奈落の坂道を転げ落ちます。
 この対談でも申し上げましたが、私は何度でも繰り返します。「日本人は、中国に対して行ってきた蛮行、愚行を忘れるな!」「本当の日中友好を望むならば、過去をうやむやにするな!」と。
 『プルターク英雄伝』から日中の歴史にまで話が及んでしまいましたが、次章以降も金庸先生と私の「青春の書」をめぐって、語り合っていきたいと思います。

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