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第五章 友情、精神と人格、仏教との出合…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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1  友情を尊ぶ中国の倫理観
 金庸 友情について語り合ってきましたが、とても興味深いテーマですので、もう少し続けさせていただきたいと思います。
 池田先生の数多くの著作を読んで気がついたのですが、先生は友情をとても重視されていますね。そもそも創価学会自体、親愛なる友人同士でできた、一つの大集合体といってよいのではないでしょうか。
 池田 おっしゃるとおりです。学会は、どちらが上か下かという「タテ」の関係や、利害などで結ばれた団体ではありません。利害を超え、立場を超えて、人間同士の「ヨコ」に広がる「平等の人間愛」、深い「友愛」で結ばれた団体です。
 金庸 中国人の倫理観では、友情はまず兄弟から始まります。比較的大きな家庭では、赤ん坊が生まれると、その赤ん坊が両親の次に接触するのは兄弟です。
 昔の中国では、家庭での人間関係の在り方を「父慈、子孝、兄友、弟恭」と表現しました。兄弟は血を分けた肉親の情に加えて、友情にも似た感情を併せもっているのです。
 池田 やはり日本とは、ずいぶん違います。一面、それほど「肉親」の結びつきが強いということですね。
 金庸 ええ。中国人は伝統的に、夫婦の情よりも兄弟の情を重んじます。ことわざにも「妻は衣服のようなもの。兄弟は手足のようなもの。なぜなら衣服は破れても繕うことができるけれど、手足がとれてしまえば、継ぎ足しようがない」といいます。
 これは、ある意味で女性や妻の地位を軽視していることは否めません。ただ中国社会で、いかに兄弟の関係が大切にされているかが、おわかりいただけると思います。
 池田 「七歩の詩」――『三国志』の時代に、魏の文帝(曹丕)が弟の曹植を重い罪に落とそうとしたとき、曹植が謳った詩など、兄弟の情愛を訴えた詩として有名ですね。
 「豆を煮るに豆がらを燃やす。豆は釜中にあって泣く。もと是れ同根より生ず。相煎ること何ぞはなはだ急なる」(豆を煮るために豆がらを燃やす。豆も豆がらも、同じ豆の茎から生まれたものではないか。それなのに一方は煮る側、一方は煮られる側という間柄になるとは、なんともひどいことではないか)
 この詩に心を動かされた文帝は、とうとう罪を軽くすることにした――。歴史の常として、権力闘争は兄弟をも引き裂きますが、この詩はその愚かさを教えています。
 金庸 さらに別の角度から申しますと、中国人は、良き友人をさして「兄弟」という場合もあります。中国人が手紙を書くときは、ふつう相手を「吾兄」と称し、自分を「弟」と称します。また、それが真の友人ならば義兄弟の契りを結びます。ある種の儀式を経て、異性同士の友人が義兄弟の契りを結ぶこともあります。
 義兄弟の契りを結ぶときは、こんな誓いを立てます。「同年同月同日に生まれることはできなかったけれど、同年同月同日に死ぬことを願う」と。
 西洋では、一緒に死のうと誓いを立てるのは、熱烈に愛し合う恋人同士です。しかし中国のこのような義理人情の世界では、愛情より友情を重んじるのです。
 池田 「同年同月同日に死ぬことを願う」――『三国志』に出てくる「桃園の誓い」を思い出します。
 金庸 そうです。『三国志演義』での劉備、関羽、張飛三人の義兄弟の契りは、友情の模範になっています。また『水滸伝』でも一○八人の登場人物が義兄弟として結ばれるくだりがあります。中国では、後世の秘密結社も、こうした形式を基準にしてきました。
 また、『三国志演義』にしても、『水滸伝』にしても、友情とともに、すでにお話しした「義気」についても論じています。友情は、主に感情が、その源になっています。それに比べて「義気」には、理知的な判断が含まれています。
 つまり感情からいえば、あまり深い交友関係があるわけではない。しかし「このようにしてこそ、道理にかなっている」と思えば、そのために大きな犠牲を払うことが往々にしてあります。これを「義気」といいます。
 池田 「義を見て為さざるは勇なきなり」(『論語』)。「こうすることが人間として正しい道だ」と知れば、一身をなげうってでも戦う。人のために己をも捨てる。まさに金庸先生の武侠小説に描かれる「丈夫」の生き方です。
 金庸 池田先生にお聞きしたいのですが、日本の社会では、ふつう友情について、どのように考えていますか。私は先生との交友から、先生が私を良き友人として遇してくださっていることを実感しています。老年期にいたっても、まだこのような友人に恵まれるとは、私は本当に幸せです。
2  「友情」の育ちにくい日本の精神的土壌
 池田 過分なお言葉です。
 ご質問に関していえば、日本は一般的にいって、なかなか友情が結びにくい社会だといえるでしょう。
 友情とは人間社会の「ヨコ」に広がる絆です。ところが日本の社会は「タテ社会」――いわば「上下」の関係を軸に成り立ってきた社会だからです。
 金庸先生は『書剣恩仇録』の〈日本の読者諸氏へ〉で、こう述べておられますね。
 「中国の侠士の基本的な考え方は、日本の『武士道』とも違いがある。武士道の中心は『忠』の思想である。恩ある主君に忠を尽くし、命を犠牲にしても惜しくはないという考えだ」(『書剣恩仇録』〈一〉岡崎由美訳、徳間書店)と。
 先生の言われるとおりで、日本では長く「忠義」が社会道徳の根本でした。吉川英治の小説などには「君、君たらずといえども、臣、臣たり」という言葉が、しばしば出てきます。たとえ主君が横暴で、理不尽であっても、とにかく主君に忠義を尽くす。そうした「タテ」の関係が強すぎて、友情という平等の「ヨコ」の人間関係が育つ土壌が、あまりなかったように思います。
 「忠臣蔵」はもちろん、近代以降の文学でも、『阿部一族』(森鴎外)や『樅ノ木は残った』(山本周五郎)など、主君への忠義をテーマにした作品は多い。それに比べ、友情を取り上げた作品となると少ない。
 そもそも友情という観念自体、日本の歴史のなかでは、あまり発達しなかったのではないか、と指摘する識者もいます。友情というものが大切だと盛んに言われだしたのは明治以後のことで、それもヨーロッパから取り入れたモラルではないか、と。
 金庸 なるほど。
 池田 中国では何といっても「家」という観念が伝統的に強いですね。「家族」が道徳の源泉のようなところがある。
 作家の陳舜臣氏は、こう言っています。
 「中国人の『団体感』なるものは、家で行き詰ってしまう。それほど家の『壁』は高い。それを乗り越えて、村―町―県というふうにひろがらない。とても国家まで届かないのである」(『日本的中国的』徳間文庫)
 また、フランシス・フクヤマ氏も述べています。
 「中国系社会は日本とは著しく異なり、集団志向的では〈ない〉のである。林語堂(リン・ユタン)の言葉を借りるなら、日本の社会は一個の花崗岩にたとえられるのに対して、中国の伝統的社会は家族というバラバラの砂粒でできたもろい盆のようなもの、ということになる」(『「信」無くば立たず』加藤寛訳、三笠書房)
 それほど中国では、「まず家族ありき」である、というのです。
 金庸 よく理解できます。
 池田 そうした「家族中心のタテ型社会」から、金庸先生が先ほど言われた「義兄弟の絆」とか、親しい友人をさして兄弟と呼ぶといった習慣が、どうして生まれたのか。
 この点について陳舜臣氏は、「孝」、つまり「親への孝行」という道徳と関連づけて、こう指摘しています。
 「『孝』は絶対である。どんなに悪い親にでも、孝道を尽さねばならない。家族中心の強い中国人は、この絶対的という堅苦しい関係は、家のなかだけでたくさんだと考えた。社会に出て対人関係を結ぶとき、できるなら親・子というタテ型の関係を避け、せいぜい兄・弟というヨコ型にしようとした」(前掲書)と。
 「孝」という「タテ型」の道徳が、あまりにも強すぎた。そこで社会での対人関係の基本を、兄弟という「ヨコ型」にしたというのです。
 『三国志』の関羽や張飛も、義兄弟としての絆の深さ、強さは書かれていても、それぞれの家族、一族については、ほとんど出てきませんね。
 こうしたところにも、この作品が中国人に愛されてきた理由が隠されているのではないでしょうか。つまり、堅苦しい「家」の観念から解き放たれた、「ヨコ型の人間関係」への共感、あこがれといったものです。
 金庸 とても興味深いご指摘です。
 今、先生は、日本には友情が育ちにくい。それは伝統に根差した日本の「タテ社会」と深いかかわりがある、と論じられました。そのほかに、いかがでしょうか。
3  互いに真に理解し合える「知己」の大切さ
 池田 もう一つ挙げれば、良い意味での「個人の独立」という意識が薄かったからではないでしょうか。
 福沢諭吉は明治維新後の日本が独立国として成り立っていくためには、個人の「独立自尊」が条件だと訴えましたが、事情は今も同じです。とかく「独立した人格」というものが、日本には乏しい。
 ここでは詳しくは論及しませんが、そうした「独立した人格」が形成されにくかった原因の第一として、福沢は、日本の宗教、特に仏教の在り方が、人間の精神的なバックボーンたりえなかったからだと、喝破しています。傾聴すべき意見だと思います。
 確固とした「個」、人間としての「根」がないから、どこまでいっても「ヨコ並び」。個と個がぶつかり合って切磋琢磨していこうという積極的な発想がない。ともに人格を向上させていこう、自分を高めていこう、そのために、ときに厳しく意見し合い、とことんまで論じ合おう――という姿勢に欠けている。
 逆に何ごとも人より目立つまい、「ほどほど」でいこう、という傾向が強い。むしろ、抜きんでた存在に対しては、足を引っ張ろうとする。厳しくいえば、人間関係のうわべを取り繕うことで、個人と個人がぶつかり合う「向上の道」を避けているといえるかもしれません。
 金庸 よくわかりました。
 中国人は友情を結ぶうえで、「知己」という考え方を、たいへん重視します。互いに理解し、気が合うことが最も大切なのです。その場合、長年の友人同士である必要はありません。
 『史記』に「ことわざに曰く、白頭といえども新のごとく、傾蓋すること故のごとし」とあります。意味は、もしも互いに意見が合わなかったら、たとえ子供のころからの知り合いであって、ともに頭が白くなるまでつき合ったとしても、それはつい最近の知り合いと何ら変わることはない。もし意見が一致するならば、たとえ道で偶然に出会い、車を降りて話を交わしただけの者同士でも、もう古くからの友人と変わらない、ということです。
 つまり、「酒、知己に逢わば千杯といえども少なく、話、投機せずんば半句たりとも多し」(本当の友人に出会うならば、酒を千杯くみかわそうとも、話は尽きない。逆に話が合わなければ、少し言葉を交わすだけでも、わずらわしい)ということです。
4  本物の友情こそ人生の宝
 池田 知己といえば、私の友人であるキルギスの作家アイトマートフ氏が、前にも触れた私との対談集(『大いなる魂の詩』)の「まえがき」で、このようにも綴っておられました。
 「私は長い間、心の中でこのような対談にあこがれ、好機の訪れを待っていた。(中略)
 若いころ私はキルギスの村の老人たちを見て、よく驚いたものである。老人たちは話し相手がいない、胸の内を打ち明ける相手がいない、と言って嘆いていた。
 『周りに人がいっぱいいるのに、話し相手がいない、とはどういうことだろう?』と私には不思議だった。しかし今なら私にも老人たちの気持ちが分かる。それはなくてはならぬ話し相手に対する渇望である。
 遅かれ早かれ私はその人を探し出さねばならなかった。私の心が次第に思いこがれはじめていたその人をである。自分をより明確に、より正確に理解し、知ることを助けてくれるようなその人をである」
 まさに、金庸先生と語り合う私の心境そのものです。
 金庸 私も、まったく同じ気持ちです。
 私と先生が良き友人になれたのは、世界・人生・政治・文化・社会・宗教といった各分野での考え方が、互いに似通っているからだと思います。これすなわち「知己」ということです。
 池田 「知己」――いい言葉ですね。なれあいではない。利害でもない。あらゆる「飾り」を取り去った本当の自分、裸の自分を知ってくれている。美しい言葉です。人間性の輝きがあります。
 ともあれ「心が結ばれ、心が通い合う」関係こそ何よりも尊い。また長続きします。
 私は、いつも「正直」であることを心がけてきました。そうでないと相手に失礼ですし、何より自分が納得できないのです。
 以前、ある海外のマスコミのインタビューを受けたとき、こんな質問をされました。「世界の多くの指導者、識者と会って、最も印象深かった点は何でしたか」と。私は即座に、「率直さでしょうか」と申し上げました。
 言うべきことは率直にいう。ウソは言わない。そして自分の言ったことに責任をもつ。そうすれば、たとえ初めは理解し合えなくても、いつか必ずわかり合えます。本物の友情が結べます。
 この人生、友情をこそ私は大切にします。友情をこそ誇りにします。年齢を重ねるごとに、そうした心境が強まってきます。
 友情を描いた数少ない日本の文学に『走れメロス』(太宰治)という作品があります。この作品に出合ったときの感動を、私は忘れません。地位も名誉も何もいらない。ただ「友情だけは裏切るな!」と。
 『走れメロス』――世界の一流の方は、友を裏切りません。私も金庸先生はじめ、多くの友人と心を結ぶことができました。何と幸福なことか。人生をここまで生き抜いて、また青春時代の「メロスの世界」に戻ってきたようです。
5  返還後の香港の「希望の明日」へ向けて
 池田 ところで金庸先生、先日の香港訪問(一九九七年二月)の際には、たいへんお世話になりました。私どもSGI(創価学会インタナショナル)の世界青年平和文化祭にも、ご夫妻でご出席くださり、本当にありがとうございました。
 特に会談の際、七月の香港返還について重ねて意見を交換できたことは喜びです。
 金庸 私こそ、お礼申し上げます。池田先生が香港を温かく見守ってくださっていること、また香港市民に対して素晴らしい励ましを送ってくださっていることに、心から感謝します。
 返還問題についても、誰もが経済的な観点から見ています。文化的、平和的観点から見てくださっている方は、池田先生です。
 池田 恐縮です。
 香港の中国返還――アジアが、世界が、万人が関心をいだいている問題です。香港の「希望の明日」を、どう開いていくか。この問題について先生が、とりわけ「拝金主義」の風潮に警鐘を鳴らしておられたことに感銘しました。
 香港は返還後も栄え続けていくでしょう。ただ、そこに暮らす「人間」に光をあてたとき、人間は経済だけでは生きられません。「心の充足」を願う側面も必ずあります。先生は、この「焦点」を鋭く見すえておられた。
 金庸 会談でも申し上げましたが、香港の人々は世界の他の地域と比べても「物質」への欲望が強いのです。
 香港は、土地も狭い。どこへ行っても人、人、人です。土地が小さく、人が多いので、その分、「生活を良くしよう」という気持ちが旺盛なのです。
 そこでは、「いい生活をする」「お金がある」「社会的名声がある」ことが人生の目的になりがちです。文化や芸術などについても、「それは、お金に換算していくらか」「どれだけもうかるのか」といった見方から判断してしまう。この点を、私は心から心配しています。
 池田 そうした香港の方々の精神面を展望するうえでも、今回の香港返還は良い影響を与えるのではないか――そう先生は指摘されましたね。
 金庸 ええ。香港の人々にとって今回の返還は、「イギリスの海外領土から、祖国・中国に帰る」ことです。これは、香港の人間が精神的支柱を得ていくうえでプラスになるのではないか。また今後、中国大陸の人々と接していくことで、「祖国への愛」を学ぶ機会も増えるのではないか、と申し上げました。
 池田 中国と香港の方々の「素晴らしい未来」を願うばかりですが、ともあれ先生が強調された「拝金主義」の弊害は、今や世界的な風潮です。
 ロシアをはじめ、旧社会主義国でも、その傾向が見受けられるようです。数十年にわたって人と社会を率いてきたイデオロギーが崩れてしまい、人間は羅針盤のない精神の航海に放り出されてしまった。
 いったい自分たちが、どこへ行こうとしているのか。どこを目指せばよいのかわからない。そんな寄るべなき航海で、頼りになるものといえば、お金だけになってしまった――ゴルバチョフ氏も私との対談のなかで、そうした風潮の危険性を、繰り返し口にしておられました。
 金庸 たしかに深刻な問題です。
6  自己の「内」の可能性を見つめよ
 池田 最近、私の若い友人が教えてくれました。「ペレストロイカの設計者」といわれるヤコブレフ氏(「レオナルド・ダ・ヴィンチ・クラブ」総裁)について、ある新聞が、こんな見出しをつけて報道していたと。
 「マルクスから大乗仏教へ――アレキサンドル・ヤコブレフ」――「モスコーフスキー・ノーボスチ」という、ロシアの週刊新聞の記事だそうです。
 ヤコブレフ氏は私の親しい友人ですが、その氏が、仏教に深い関心をいだいている。それはなぜか、という記者の質問に、たとえば氏は、こう答えています。
 「第一番目に、彼らは外的な創造者である唯一神を認めず、自身のなかにある神を見る。つまり、自己完成や個人的な覚醒を通じての仏の境地への到達を目指しています」
 「私はこの考えが非常に気に入りました。それは、どんな人も仏になれると信じているからではありません。各人の中に、自己完成の可能性が秘められていて、自分自身のことは自分で責任をもたなくてはいけないという思想にひきつけられたのです。
 我が国によくある考え方、つまり下の者が上に立つ者、たとえば皇帝や将軍や大統領といった存在に救いを求めるという考え方に、私は憤慨しています。なぜ、こんな考え方をするのでしょうか?働け!創造せよ!自身と自分の可能性を信じ、権力や何かからの恩寵を待っていてはいけない!と言いたいのです」と。
 金庸 たいへん率直な発言ですね。
 池田 「権力や何かからの恩寵を待ってはいけない」――「恩寵」とは、言い得て妙ですね。
 要するに人間の「内」か「外」かと立て分けていえば、総じて「外」へ「外」へと人間の目が向いている。
 イデオロギーの壁が崩れた。ロシア正教はじめ一部に宗教の復権はあったものの、社会の大勢は、「権力」「お金」「物質的価値」など人間の「外」に向かっている。その分、「内面を見つめる」ことを忘れている――このことへの危機感を、ヤコブレフ氏は訴えておられるのでしょう。氏の仏教への共感も、この危機感に根差しているといってよい。
 もちろん経済は大切です。お金も必要です。ただ、それを追い求めるばかりでは、本当の意味での人間の充足感はない。ここで今一度、人間の内面に光をあてるべきではないか。経済の豊かさばかりではなく、「精神を豊かにするには、どうするか」を真剣に考えるべき時期が来ているのではないでしょうか。
 金庸先生も、創価大学をご訪問くださった際に、この点を論じてくださいました。
 金庸 今や社会の大多数の人々は、物質の豊かさにのみ目を奪われ、商品をどれだけ保有し消費しているかを重視し、精神の価値を重視しなくなりました。
 たしかに以前に比べ、私たちの物質生活は大きな進歩を遂げました。しかし、だからといって、暮らしが豊かになったとは必ずしもいえません。その人が幸福か、それとも不幸かということは、金銭や物質の多さで計算するものではなく、心の満足度と精神の価値によって判断されるものだからです。
 近代の文明は、次第に精神と人格を重視しなくなりました。
 しかし、もしも商品や物質だけが人々の目標となれば、当然の成り行きとして、争奪、略奪、闘争、戦争、さらには世界大戦をも引き起こすでしょう。こうした大災難を回避するためには、精神と人格の価値を発展させ、創造し、大切にしていく以外にないのです。
 人類の精神と人格が崇高であれば、争奪行為などは、より多くの人々から軽蔑されていきます。これこそ恒久平和の根源ではないでしょうか。
 池田 「隴を得て蜀を望む」(隴も蜀も地名。一つの望みが実現されると、すぐ別の欲望が起こる)という諺があるように、人間の欲望には限りがありませんからね。
 昨年(一九九六年)、アメリカ大統領選挙を前にして、『ニューズウィーク』誌が、「理想の社会はどこに」という記事を載せていました。その冒頭の言葉が、「うまくいっているのに、誰もが不満をもっている。それが私たちの時代のパラドックス(背理)だ」というものです。そして経済的繁栄と個人の自由、労働条件、衛生状態、社会保障制度、人種や性の差別など、「ひとことでいえば、アメリカは非常に住みやすい国になった。にもかかわらず、国民は指導者をののしり、将来を悲観している」と続けています。
 物質文明のチャンピオンともいうべきアメリカが、この状況ですから、人類は迷妄から醒めなければいけません。
 金庸 おっしゃるとおりです。全面的に賛同します。
 私たちが今こそ克服しなければならないのは、個々人の心の中にある、無限で、永遠に満足を知らない欲望です。欲望といっても、「いい欲望」と「悪い欲望」があります。無制限の欲望は「悪い欲望」です。東洋哲学の精髄も、この「悪い欲望」をどう乗り越えるかにあります。
 池田 先生が会談の際、返還後の香港について、中国の精神文化の価値を強調されたのも、その意味からですね。
 金庸 中国の精神文化――たとえば儒教の道徳から学ぶ面も多くなっていくのではないでしょうか。
 儒教には、たとえば「修身・斉家・治国・平天下」(身を修め、家庭を斉え、国を治め、天下を平安にしていく)といった考え方があります。自己革新から始まって、究極的には世界の平和を目指していくという思想です。
 仏教から学ぶことは、さらに重要です。仏教の基本的な教えを学ぶだけでも、「善き人になる」「善き行いをする」人生に目覚めることができる。自分のことだけではなく、「人々のために貢献する」心を養っていけるのではないでしょうか。
 だからこそ香港SGIはじめSGIの方々には、ぜひそうした「精神の価値」「正しい価値観」を多くの人たちに示していっていただきたいと、私は心から願っております。
 池田 深いご理解の言葉、ありがとうございます。香港のメンバーも喜ぶでしょう。何よりの励みです。
 二十一世紀を目前にして、私たちは切実な選択を突きつけられています。「物質の価値」に翻弄される社会か。それとも、「精神の価値」で人間の内面を照らし、導いていく社会か。私たちは、後世の人々に恥ずかしくない歴史を残していかなくてはなりません。
7  仏法との出合いと「生と死」の問題
 池田 さて、「ヤコブレフ氏と仏教」の話が出ましたが、金庸先生も仏教を信奉しておられます。造詣も実に深くていらっしゃる。先生が仏教に出合ったきっかけは、何だったのでしょうか。
 金庸 私が仏の教えに帰依したのは、高僧や有名な在家信者の教えに導かれたものではありません。それは非常につらい、苦難に満ちた過程でした。
 池田 と申しますと。
 金庸 一九七六年十月、私の長男の伝侠が突然、アメリカのコロンビア大学で自殺してしまったのです。青天の霹靂でした。私も息子のあとを追って自殺しようかと思ったほど、悲しみにさいなまれました。
 そして、こんな疑問が突き上げてきたのです。「どうして自殺しなければならなかったのか? どうして突然、命を捨ててしまったのか?」と。いっそ「あの世」まで行って伝侠に会い、"この疑問に答えなさい!"と問いただしたかったぐらいです。
 池田 そうでしたか。初めてうかがうお話です。
 子供を失った親の気持ちは、失った者にしかわかりません。私もそうです。私の恩師である戸田先生も、お若いとき、ご長女を、わずか一歳で亡くされています。仏法にめぐり合われる前のことです。「冷たくなった娘をだいて、ひと晩中、泣いた」と述懐しておられました。その後まもなく奥様も亡くされ、「死」の問題について真剣に考えた、と。
 金庸 私も、それから一年の間に、「生と死」の深淵を探究するため、数え切れないほどの書物を読破しました。イギリスで出版された『死の問題』と題する本は、特に念入りに研究しました。
 そのなかにトインビー博士が死について論じた長い文章が掲載されていました。この論文には深く掘り下げた見解が数多く見られましたが、私の心に巣くった「人間の生死」という大きな疑問に解答を与えてはくれませんでした。この疑問はいうまでもなく、宗教のなかへ入っていってこそ、解答が得られるものだったのです。
 私は高校生のとき、キリスト教の新約聖書、旧約聖書を、初めから終わりまで精読したことがあります。そこでこのとき、聖書の主な内容を思い起こしては繰り返し思索しました。しかしキリスト教の教義は、私の考え方にはなじまないことが、はっきりわかりました。そこで次に私は、仏教書のなかに、その解答を求めたのです。
 池田 恩師も、ご長女と奥様を亡くされたあとの一時期、キリスト教に道を求めたことがあります。しかし、「生命」の問題に関して、どうしても心の奥底から納得できなかった。得られるものがなかった、と語っておられました。
 金庸先生が「キリスト教になじめなかった」のも、一つには、やはりその「生死観」にあったのではないでしょうか。
 以前、ご紹介したクーデンホーフ・カレルギー氏が語っておられました。
 「東洋では、生と死は、いわば本の中の一ページです。そのページをめくれば、つぎのページがでてくる、つまり新たな生と死がくりかえされる――こういった考えだと思います。ところがヨーロッパでは、人生とは一冊の本のようなもので、初めと終わりがあると考えられています」(『文明・西と東』聖教文庫)
 東洋と西洋では、その生死観に、決定的な違いがある、と。
 生死の問題について懸命に思索をめぐらされていた金庸先生にとって、人生を「一冊の本」のようにとらえる生死観には、満足できなかったのではないでしょうか。
 しかし、ひと口に仏教書を学ぶといっても、仏典は膨大です。研鑽には、さぞご苦労があったのではありませんか。
8  「真理は仏教のなかにあった」
 金庸 中国の仏典は、おびただしい量があり、数万巻余りにも及びます。そこで簡単な入門書を数冊読んだのですが、そこには迷信と虚妄の要素が色濃く、真実の世界を認識するためのものではないと思いました。
 しかし、のちに「雑阿含経」「中阿含経」「長阿含経」に取り組み、何カ月も寝食を忘れ、研鑽に没頭し、一心に思索に打ち込んだのです。すると、突然ひらめくものがあったのです。「真理は仏教のなかにあったのだ。必ずや、そうにちがいない」と。
 ただ、漢訳仏典は難しすぎます。なかには一つの文字に、まったく異なる意味が含まれるなど、理解のしようがありませんでした。
 そこでロンドンのパーリ文学会から「原始仏典」の英訳本全巻を購入しました。ご存じのように「原始仏典」とは、仏典として最も早い時期のもので、仏教研究者が釈迦牟尼(釈尊)の説法に最も近いと考えた記録を指します。インド南部やスリランカ一帯に伝わっていたので、「南伝仏典」とも呼ばれます。大乗仏教学者や大乗各宗派が「小乗仏典」と貶称しているものです。
 池田 漢訳の仏典と英訳の仏典を比較対照しながら、研究されたのですね。
 金庸 はい。英訳仏典は容易に読み進めることができました。「南伝仏典」の内容は、簡明で飾り気がなく、人生の真実に十分、接近しており、私のような英語を母国語としない者でも、理解し、受け入れることに困難はありませんでした。
 私の信仰は、ここから生まれました。そして信じるようになりました。仏陀――パーリ語原文の意味は「覚者」ですが――は、たしかに人生における真実の道理を悟ったのだ。そして仏陀は、この道理――つまり「仏法」を世の人々に伝えることをわが使命にしたのだ、と。
 私は長い間の思索、考証、疑問の問い直し、研鑽の継続などの過程ののち、ついに心の底から全身全霊で、仏法を受け入れたのです。仏法は、心に巣くった大きな疑問を解決してくれました。「そうだったのか!ついにわかったぞ!」と、心は喜びで満ちあふれ、歓喜は尽きませんでした。このようにして苦しみが歓喜に変わるまでに、約一年の歳月が流れていました。
 池田 当時の先生の心情がそのまま伝わってくるようです。
 金庸 私は次に大乗経典を研鑽しました。たとえば「維摩詰経」「楞伽経」「般若経」などです。すると、ここでまた疑問が起こってきました。これらの仏典の内容が、「南伝仏典」とは異なり、神秘的で不可思議なことを誇張する叙述ばかりなのです。私はこれを受け入れ、信じるわけには到底いきませんでした。
 しかし『妙法蓮華経』(法華経)を読むにいたり、長い思索を繰り返した結果、ついにわかったのです。すなわち本来、大乗経典がいいたかったことはみな、この「妙法」だったということを。大乗経典は、知力の劣った、のみこみの悪い人々にも理解させ、帰依させるために、巧妙な方法を用いて仏法を宣揚し、説き明かしたものだったのです。
 『妙法蓮華経』で仏陀は、火宅、牛車、大雨など多様で身近な比喩を使って、世の人々に仏法を説き明かしています。人々を導くためには、「方便」を使う場合もある。仏陀が毒に当たって死にかけているふりをする場面もあります。それも、仏法を人々に広めるためなのです。
 池田 おっしゃるように『法華経』は、豊かな芸術性に満ちています。「永遠」があり、広々とした世界観、宇宙観があります。森羅万象の一切を包みゆく生命空間の広がりがあります。
 数々の譬えがちりばめられた経文の言葉は、映像性に富んでいる。あたかも荘厳な「生命の写真集」をひもとくかのように、一瞬一瞬の場面が目に浮かび、胸に迫ってきます。
 金庸 「妙法」。この二字の意味をわきまえるようになって、ようやく大乗経典を幻想で満たしている誇張にも反感をいだかなくなりました。大苦悩が大歓喜へと変わるのに、およそ二年の歳月がかかりました。
 池田 『法華経』は「円教」です。大乗経典の最高峰である『法華経』から見るならば、他の仏典は、それぞれ真理の一端を説いたものであり、一切経は、そのことごとくが、円教である『法華経』におさまります。あたかも大小さまざまな川の流れが、すべて海へ注いで大海となるごとく。
 金庸先生は先に小乗教を学ばれ、のちに大乗教を学ばれ、その結論として『法華経』に仏教の真髄を見いだされた。これこそ先生が、どれほど真剣に仏教を探究されてきたか、ということの証ではないでしょうか。
9  胸を打たれた恩師との出会い
 金庸 ありがとうございます。
 ここで池田先生に、一つお願いがあるのです。先生が創価学会に入会し、仏法に帰依された動機、経緯を語っていただけないでしょうか。
 私は小さいころ、祖母が唱える『般若波羅蜜多心経』や『妙法蓮華経』を聞きながら育ちましたが、まるまる六○年の歳月を経て、苦悩の探究と追跡の果てに、ようやく仏法の道に入ることができました。
 池田 私の場合は、日蓮大聖人の教えそのものというより、まず戸田城聖先生という人に出会った感動です。
 敗戦後で、昨日まで"鬼畜米英"などといっていた大人たちが、今日は欧米流の民主主義を賛美しだすという変わりようでした。私も多くの青年たちと同じく、大人たちへの不信、急激な価値観の転換へのとまどいのなかで、友人と読書会を行うなど、「確かなもの」を必死に求め続けていました。
 そのためもあってか、初対面の戸田先生に率直な質問をぶつけました。「正しい人生とは」「真の愛国者とは」「天皇制について」の三つです。
 恩師は無名の一青年に対して、何のハンディキャップもつけずに、誠実に答えてくださいました。また、その答えには曖昧さというものがなかった。少しの迷いもなかった。恩師の答えのすべてが理解できたわけではありませんでしたが、私は感動しました。胸を打たれました。いわば戸田先生の内側からほとばしる「生命の光」「人格の光」に打たれたのです。
 金庸 私も池田先生の小説『人間革命』を読みました。戸田先生との出会いの場面も、詳しく記されていますね。
 池田 もともと私は宗教というものが、あまり好きになれませんでした。また、それまで日蓮系の仏教と聞けば、少年時代によく見た光景――白装束を着て、団扇太鼓をたたきながら街を練り歩く人たち、といった光景が目に浮かんできた。正直にいって、あまり良いイメージはありませんでした。(笑い)
 金庸 では、創価学会に入会するまで、先生は、どのような「心の遍歴」をたどってこられたのでしょうか。
 池田 実際、入会してから「これは大変なところに入ってしまったな」とも思いましたが(笑い)、戸田先生という希有の師の魅力は、私をとらえて離さなかったのです。
 おそらく金庸先生も実感されていることではないかと思いますが、私たちの青年時代は、「人間とは何か」「人生、いかに生くべきか」といった問いについて、現代より真剣であったように思います。私も悩みました。ゆえに自分なりに学びました。
 最近、日本でも話題になった『ソフィーの世界』という本があります。ソフィーという少女が謎の人物の問いかけに導かれて、哲学の森に踏み入っていく――少女の目を道案内に、ともすれば難解になりがちな哲学の歴史の流れを、とてもわかりやすく学ばせてくれるということで、ベストセラーになりました。
 その探究の旅の出発点で、著者は、こう綴っています。
 「ソフィーは二つの封筒をあけた。
 『あなたはだれ?』
 『世界はどこからきた?』
 なんてくだらない質問!いったいこの二通の手紙はどこからきたのだろう?それこそ本当に謎だった。
 ソフィーをありふれた日常からひきさらい、突然、宇宙などという大問題をつきつけたのは、いったいだれなのだろう?」(ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』須田朗監修・池田香代子訳、日本放送出版協会)
 「自分は、誰だろう?」「世界は、宇宙は、どこからきたのか?」。やさしいようでいて、誰もわからない質問です。しかし、誰もわからないからといって、そのままにしておけるものでもない。
10  永遠のテーマ――「人間、人生とは何か」
 金庸 そうです。いくら時代が変化し、文明が進歩したからといって、解明できる問題ではありません。
 池田 特に「生および、その前」「死および、そのあと」という命題は、人間にとって普遍の、そして永遠のテーマです。
 この命題に真摯に取り組まずしては、人生は、およそ薄っぺらなものになってしまうでしょう。極端な話、「あとは野となれ、山となれ」――今現在を、ただおもしろおかしく暮らせばよい、ということにもなりかねません。
 金庸 先ほど先生と語り合った「拝金主義」も、そうした問いかけが失われたところに大きな原因があるといえるでしょう。
 池田 同感です。入会する前の私も、私なりに、この命題に何とか迫りたいと努めていました。哲学を学び、文学を読みあさったのも、そのためでした。ときには、エマソンの超絶主義の哲学にあこがれたこともありますし、あるときはベルクソンの「生の哲学」の書物を、むさぼるように読んだこともあります。
 「心の遍歴」といえば、そうした遍歴の果てに、私は仏法にめぐり合うべくして、めぐり合ったといえるでしょう。
 戸田先生に初めてお会いしたとき、その生命から放射される強烈な光線の前に、今まで魅力を感じてきたエマソンやベルクソンのイメージも、みるみる春の霞のような淡い輪郭と化していくのを、いかんともなしえませんでした。
 私は「確かなもの」にめぐり合うことのできた感動を、即興の詩に託して先生に聞いていただきました。
 「旅びとよ/いづこより来り/いづこへ往かんとするか……」
 人間とは何か。人間は「いづこより」来るのか。そして「いづこへ」往かんとするのか――いつも脳裏から離れないテーマだったからこそ、こうした詩が即座に浮かんできたのでしょう。以来、私の求道の旅は始まりました。この旅路に終着点はありません。

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