Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第四章 「二十一世紀人」の条件――鄧小…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

前後
2  改革・開放の「総設計師」鄧小平氏の役割
 池田 その意味からも、鄧小平氏が、香港返還の「その日」を、どれほど夢見ておられたことか。かつて、「一九九七年以後は香港で春節(旧正月)を迎えたい」と願われていたことも有名です。
 今、香港と鄧小平氏について、お聞きしました。さらにうかがいますが、近年の中国の歩みにおける鄧氏の存在・役割について、先生は、どう見られますか。
 金庸 もし鄧氏がいなければ、きっと中国は、今日のように発展することはなかったでしょう。
 一九八九年、「六・四」天安門事件が発生してまもなく、私は「明報」(八月六日付)に、「みんな(権力者)が長生きの競争をすれば、やはり鄧氏に勝ってもらいたい」と題する社説を発表しました。内容は、こうです。
 「中国共産党内には、相変わらず保守的な思想をもった権力者が少なからずおり、改革・開放に反対している。しかし鄧小平氏一人だけでも、改革・開放路線を堅持していさえすれば、中国には一条の光明をもたらすことができる。
 この路線に反対する人々は、年齢も相当高い。鄧氏が健康で、頭脳が明晰であれば、反対派がじゃまをすることはできないだろう。ゆえに鄧氏が反対派の老人たちよりも長生きするように、私は彼の健康と長寿を心から熱望する」と。
 中国の古いことわざに、「一身天下の安危に繋る」とあります。重要な人物を形容しているわけですが、ここでいう「天下」とは、中国全土を指します。
 日本の戦国時代も、そうだったと記憶しています。「天下」がどうであるかという場合、それはとりもなおさず「日本」がどうであるかという意味です。
 池田 そのとおりです。日本も「日本全土」という意味で、「天下」という言葉を使っていました。ただし、同じ「天下」でも、日本の「天下」のほうは、まことに小さい。中国の一省ほどの大きさを指して「天下」「天下」と騒いでいたわけですが。(笑い)
 金庸 鄧氏は過去二○年間、まさに「一身天下の安危に繋る」という状態でした。もし一九七八年の中国に鄧小平氏がいなければ、中国全体が多くの不幸に見舞われていたことでしょう。
 池田 これは、世界中の人が知りたいことだと思いますが、「鄧小平氏以後の中国」について、どう展望されますか。そして、香港は。
 金庸 氏は人々から「総設計師」と呼ばれることを好みました。
 一方、私も含めて、彼を「大旗手」にたとえる人もいました。改革・開放の大旗を掲げ、全中国の先頭に立って前進していくという意味です。しかし彼は「(四人組の一人の)江青だって、自分のことを『大旗手』と名乗っていたんだ。私は『大旗手』になどなりたくない」と言って、こうした比喩を嫌ったそうです。
 「大旗手」は、旗を大きく振りかざし、大声を張り上げては、人馬の先頭に立って敵陣に突入していくというイメージがあります。たしかにこれは、総司令官の身分に合致しません。逆に、やみくもに猛進する愚かさが目立ち、一歩一歩、地歩を固めながら着実に戦いを進める智略に欠ける感じがします。「総設計師」というたとえのほうが、はるかに、必勝の名将にふさわしいといえるでしょう。
 池田 たしかに、そうですね。
 金庸 総設計師は、緻密な構想と計算にもとづいて、大建築物の全容を、内外ともに描き出していきます。いかなる建築様式を採用するかによって、工事の計画・プロセス、使用する材料などが決まります。設計が完成すれば、まず自分自身で疎漏がないかどうか点検し、あれば改めます。
 その後にみんなと討論して、各方面の意見に耳を傾け、欠点なり安全性に疑いのある要素は、すべて除去して、完璧を期します。こうして設計案が決まれば、続いて建築会社に工事を委託します。総設計師は、工事が始まった後も、工事の順序が間違っていないかどうか、また規格や標準に照らし合わせながら、出来ぐあいに問題がないかどうかを監督・検査します。
 不幸にして、こうした総設計師が私たちよりも先に亡くなるということは、計り知れないほど大きな損失でしょう。ただ、ありがたいことに、設計案全体は、もうすでに完璧に仕上げられています。しかるべき優秀な技術者と作業員も、すでに選定が終わっています。主な工事も第一段階が順調に進められています。今後も設計案にもとづいて、工事を継続していけばよいのです。
 ですから工事をする人は、絶対に混乱したり、言い争いをしたり、自分勝手に設計案や青写真を描き改めたりしてはなりません。
 腰を落ち着けて仕事をし、順序を追って事を進め、段階を踏んで前進していきさえすれば、心配することは何もないのです。
 池田 そして中国が泰然として改革・開放路線を継承していけば、当然、香港にも良い影響を与える、と。
 金庸 そうです。
 香港を対象にした「設計」が重要であることは、いうまでもありません。しかし、中国全体からすれば、香港は一つの小さな地区にすぎません。中国という巨大な高層ビルが堅固で、非のうちどころがないほど立派に建てられていれば――香港という小さな部屋だけ、みすぼらしいものになることなど、決してありえないのです。
3  「自由人」金庸氏の香港への第一歩
 池田 お考えはよくわかりました。再び、金庸先生の人生の記録に話を戻したいと思いますが、先生が、大陸から香港に渡ったのは一九四八年。二十四歳のときでしたね。
 金庸 ええ、その二年前の四六年夏から、新聞の仕事に携わるようになりました。最初は杭州の「東南日報」で、記者兼英語の国際ニュースの聞き取り係を務めていたのです。
 池田 杭州は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』の昔から、「東洋のベニス」とたたえられたとおりの美しい水の都でした。私も一度、行ったことがあります。(一九七四年、第二次訪中)
 金庸 そうでしたか。
 翌四七年に、上海の『大公報』が国際ニュースの翻訳者を募集していると聞き、迷わず応募して試験を受けました。専門家としての訓練を受けていたので、成績もそう悪くはなく、無事に採用されました。(上海で発行できなくなった)『大公報』は翌年に香港で復刊されました。このとき、私も香港に派遣されたのです。
 池田 先生の香港入りについては、こんなエピソードを聞きました。
 ――勇んで上海から香港行きの飛行機に乗ったはよかったが、慌てていたせいか、一銭ももってこなかったことに機中で気がついた。思わず全身から冷や汗が出た(笑い)。たまたま同じ便に「国民日報」社長の潘公弼氏が乗っており、落ち着かない様子の金庸先生に声をかけた。事情を聞いた潘氏から一○ドル融通してもらい、何とか新聞社に着くことができた……。(笑い)
 微笑ましいエピソードですが、先生の波瀾万丈のドラマの開幕にふさわしい出来事ともいえます。香港の最初の印象は、どうでしたか。
 金庸 たいへんな暑さと、何を聞いてもさっぱりわからない広東語でした(笑い)。右も左もわからないこの街に、以後五○年近くも暮らし、人生の大半を送るとは、思ってもみませんでした。
 私は香港で結婚し、子供をもうけ、育て、小説を書き、新聞を創刊しました。家庭も事業も、香港で築いたものです。
 とはいうものの、あのころの香港は、長年暮らした上海と比べると、経済の面でも文化の面でも、やや立ち遅れているとの印象を受けました。ひなびたところに来たな、という気持ちが、多少しました。
 しかし香港の人々は誠実で、信用を重んじ、話に信頼が置けます。私は、すぐに彼らを好きになりました。人情も上海より厚かった。香港の人々の性格は国際的な大都市の住人というよりも、中国内地の中小都市のそれに近いのではないかと思いました。もっとも、そうした香港人の気質も、社会の繁栄とともに急速に変化していきましたが。
 池田 私も香港の人々が大好きです。香港には、何よりも「人間がいる」という感じがします。
 先生は「香港に宝なし、自由こそ宝だ!」と題した「明報」の社説で、こう綴られていますね。「私たちが香港に好んで住む主な理由は、ここが間違いなく自由の地であることだ」と。
 少年時代から「自由」を愛し、権力・権威への「反骨」の気概を養ってこられた先生です。自由の港・香港こそは、先生の自由人としての気質に合っていたのではないでしょうか。
4  日刊紙「明報」の創刊と編集理念
 池田 金庸先生は、香港を代表する日刊紙「明報」を創刊し、三十数年にわたって率いてこられた「言論の王者」としても有名です。
 その「明報」も、一九五九年に創刊されたときは、たった四人の社員でスタートされたとか。経営も長く安定せず、一部には「長く続かないだろう」とか、「一、二年で倒産するにちがいない」との見方もあったそうですね。
 前回お話に出たように、私も恩師の出版社で働き、のちに恩師と「聖教新聞」を創刊した経験をもっています。浮沈の激しい新聞・出版業が、いかに困難な事業であるか。まして先生は、経営と編集の両方を切り盛りしてこられた。先生のご苦労の一端は、体験的にわかるつもりです。
 金庸 「聖教新聞」が創刊されたのは、一九五一年ですね。「明報」創刊の八年前です。
 「聖教新聞」は現在、すでに日本第三の大メディアに成長されました。毎日の発行部数も数百万部に及んでいます。これと比べると「明報」は、まったく見劣りしてしまいます。香港の人口は過去三○年から四○年の間に、約二○○万人から五○○万人へと増加しましたが、「明報」の発行部数は、常に人口の二○分の一から五○分の一にすぎませんでした。たとえ、もう八年過ぎたとしても、「聖教新聞」には、とても追いつけるものではありません。
 しかし、どちらも共にゼロから出発し、苦難と奮闘の時期を経て、徐々に発展したことは共通しています。
 池田 励ましのお言葉に感謝します。
 恩師は「聖教新聞」について、「願わくば日本中の人に読ませたい」と、常々言われていました。私は、その恩師の心を心として、「世界中の人々に読ませたい」との決意で今日まできました。さらに金庸先生の励ましにお応えできる新聞を目指します。
 金庸 私は思うのです。二つの新聞の信念は、とても似通っているのではないかと。戸田先生は新聞の言論は「信用」がなければならないと強調されました。私も賛成です。
 「明報」の「明」の字は、「明理」「是非を明らかに分かつ」「きわめて細かいことまで明察する」「明鏡のごとく、判断が公正」「身にあてても、明らかで曇りがない」「公明正大」といった意味をもっています。
 政治的な傾向からいえば、私たちは特に共産党にも近づかず、また国民党にも近づかない。どこまでも事実にもとづいて正確な報道をし、理性にもとづいて公正な判断と評論を行ってきました。
 池田 たしかに恩師は「信なき言論、煙のごとし」と言われました。これは、今言われた「明報」の編集理念と通じます。深いところで響きあっています。
 「聖教新聞」は「明報」と違って機関紙の性格をもっていますが、私は一宗教団体の機関紙というよりも、むしろ「人間党」の機関紙であると位置づけてきました。
 以前、世界的なバイオリニストのメニューイン氏と語ったとき(一九九二年四月)、氏が質問されました。"仏教の在家の団体である創価学会が、これほどまで大きく発展した秘訣は、どこにあるのでしょうか"と。
 私は大要、こう申し上げました――教義を厳格に守ることは当然として、「どこまでも"人間中心"できた」ことでしょう。「宗教のための宗教」ではなく、「人間のための宗教」の運動を進めてきたからでしょう、と。
 信仰を根本に、開かれた「人間主義」のネットワークを広げてきた。いわば、「求心力」と「遠心力」の双方を合致させてきたからではないか――そう申し上げました。
 「聖教新聞」が開かれた「人間の機関紙」であると申し上げるのも、この意味からです。
 ところで先生、「明報」の「社訓」とは、どんな内容ですか。
 金庸 私は特に、次の中国古代の言葉を社訓にしました。
 「寛容であり、少しの欲があってもならず、確固とした自己であれ」
 つまり新聞は、さまざまな意見を受け入れる寛容さをもつべきこと。編集部は偏見をもってはならず、同意できない観点であってもしりぞけないこと。同時に新聞の責任者から社員まで、新聞を利用して不正を働いたり、不合理な利益を貪ってはならないこと。そして新聞は永遠に公明正大で、やましいことは何もなく、大多数の読者の利益のために奉仕すること――です。
 池田 「永遠に公明正大で、やましいことは何もない」。言うは易く、行うは難い言論の王道です。先生の一言一言には、その王道を貫いてきた「言論の王者」ならではの響きがあります。
 私も「聖教新聞」の記者、また通信員の方々に、かつてこう要望しました。
 「全読者に対して、喜んでいたら共感を表明し、悲しんでいたら勇気をつけ、もしも頭が鈍くなってきたならば知恵を、そして新知識を与え、脱線したら指標を示し、混乱したら整理し、弱ったら守り、のぼせたら冷やし(笑い)、そしてわからず屋は温めてあげる――こういうふうに、臨機応変に、(仏法でいう)対機説法的に、縦横無尽の活躍を」(一九七三年五月三日、第三回全国通信員大会)と。
 創価学会の会員だけではなく、すべての読者に対する「言論人としての使命と責任」を果たしてほしい、庶民とともに庶民の人肌のぬくもりを、いついつまでも大切にしていってほしい――この願いは今も変わりません。
 言論の闘将として長くペンを執られてきたなかで、「明報」の誇りとは何でしょうか。読者のためにお話し願えればと思います。
5  権力と戦う言論人の使命と責任
 金庸 「明報」は、いくつかの重要な段階を経て発展してきましたが、どの段階でも、確固とした主張を貫いてきたことです。
 一九五○年代末期、中国とソ連、さらにインドが紛争を起こしました。軍隊が戦火を交えた局面すらありましたが、「明報」は中国の立場を支持しました。
 六○年代中期に、中国が原爆実験を行いました。「明報」は強く反対を唱えたため、左翼新聞の猛烈な集中攻撃を受けました。
 六○年代後期および七○年代、中国は文化大革命を推進しました。「明報」は毛沢東、林彪、四人組の極左路線に反対し、極左派が香港で暴動を起こすことに反対しました。このため、暗殺や爆弾で報復するぞ、と脅されました。しかし私たちは、中国の文化を保護し、周恩来や鄧小平、彭徳懐といった人々の合理的な路線を支持しました。
 池田 いずれも不滅の「ペンの闘争」の記録です。
 金庸 七○年代後期、「明報」は鄧小平が主張する改革・開放政策を熱烈に支持しました。私自身、鄧小平や胡耀邦などといった指導者と面識を得る機会に恵まれました。
 八○年代、「明報」は、香港の中国返還と、中国が香港の主権を回復することに賛成しました。私個人は「香港基本法」の起草作業に参加しました。
 しかしこの間、「明報」は、中国が(香港に近い)大亜湾に原子力発電所を建設することに反対しました。また八九年の天安門事件では、学生運動の過熱を批判するとともに、北京当局が学生や民主運動家に対して発砲し、武力行使に出たことを攻撃しました。
 池田 時局の風に吹かれて、どちらか一方に与するというのではない。賛成すべきは賛成し、反対すべきは反対する――。
 金庸先生の話をうかがうにつけ、なぜ先生の文筆が民衆の支持を受けてきたのかがわかります。それは先生が常に「民衆の利益に、かなうかどうか」ということを、発言の基準として貫いてこられたからです。
 文化大革命についても、まだ表面的にしか伝えられていない時期に、「これは権力闘争である」と喝破された。いちはやく本質を見抜かれた。
 その炯眼も、先生が、いつも「民衆の側」に立っておられたからこそです。民衆という大地から離れて、たとえ千万言を費やそうとも、それは空論であり、無価値である。「民衆の利益」こそ、百般の判断の基準である。このことを知り抜いておられたからです。
 先生のペンには、民衆への崇高な愛情があります。それだけに、さぞ圧迫は激しかったことでしょう。
 金庸 どんな時期も自分の主張を貫いたため、暗殺の標的になり、生命すら危険にさらされることもありました。巨大な圧力と真っ向から対峙することもありました。しかし、ことの是非・善悪は明白です。私は、不合理な圧力に断じて屈しませんでした。
 池田 信念のために迫害を受け、その圧迫と戦った人を私は尊敬します。迫害こそ「正義」の証であり、迫害を受けない人物は、どこかで妥協し、ごまかしているからです。
 今、金庸先生のような言論の闘士が、どれだけいるでしょう。ましてこの日本に。
 「言論の自由」とは何か――金庸先生は、「明報」の社説にこう記されました。
 「『言論の自由』とは、人民がさまざまな意見を発表することができ、しかも政府の規制・干渉・懲罰を受けないことである」
 すなわち権力の圧力から人民の「言論の自由」を守るところに、その本義があるのだ、と。
 権力と戦うのが言論人です。権力と戦って民衆を守るのが言論人の根本の使命です。
 また先生は、言論人のあるべき姿勢について、こうも戒めておられる。
 「いかなる自由にも限界があるように、言論の自由もまた、法律の制約を受けている。最も一般的な制約とは、いかなる人も自由の権利を行使するときに、隣人の自由を侵害してはならないということだ。
 マスメディアは侮辱、誹謗、デマ、事実の歪曲をしてはならない。なぜなら、隣人の権益や人心の尊厳を侵害するからである」
 すべての言論人にとっての「不滅の指針」だと思います。
 金庸 ええ。私は、その信念できました。
 池田 「文は、すべからく天下に益あるべし」。十七世紀の文人・顧炎武は、叫びました。
 "社会から言論が絶えることがあってはならない。言論とは人間が進むべき道を明らかにし、政治を正し、民衆の苦しみを洞察し、人間を善の方向へ導くからである。そして、そのような言論であれば、天下にとって利益がある。未来にとって利益がある。一篇多ければ、多いほどよい。
 しかし荒唐無稽な内容だったり、人まねだったり、へつらいを目的とした文章などは、存在してはならない。そんな文章は自分を堕落させる。社会にあっても利益はない。一篇多ければ多いほど損である"(『日知録』、要旨)と。
 言論が社会に果たすべき責任の重さ。それに対する自覚。言論人を名乗る者は、社会に「善の価値」を創造していく使命の炎を、その胸に赤々と燃やしていなければならないはずです。
6  「健康な言葉」「健康な心」で未来を語れ!
 金庸 池田先生の世界平和へのご貢献は、あまりにも素晴らしいものです。その偉大さを快く思わない人々がいるでしょうが、「真実」は、どこまでも「真実」です。
 誰が、いくら陥れようと、どんなにウソで塗り固めようと、最後には「真実」は明らかになるでしょう。
 釈尊も、妬まれ、ウソで陥れられようとしました。説法しているときに、一人の女性がやってきて、鉢の入った自分のおなかを指し、「これは釈尊の子だ」といって誹謗したのも有名な話です。
 池田 そのお言葉には、一言、こう申し上げます。
 「墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない」(『魯迅文集』第三巻竹内好訳、筑摩書房)と。
 言われるとおり、ウソは、どこまでもウソです。またウソをつこう、なんとか人を欺こうという姑息な心根が、自分でも気づかないうちに、自分の心を傷つけていく。自分で自分の心を破壊していく。最後は、あまりにも不幸です。
 私自身のことは、どう書かれてもよいのです。私が恐れるのは、ウソや「人を陥れるためのペン」がまかり通ることで、いつしか「言葉」そのものから人の心が離れてしまうことです。
 他人の幸せを、なかなか素直に喜べない。反対に、人の不幸や噂などには、なぜか心が動いてしまう――それが人間の偽らざる一面かもしれません。しかし、そうした人間の不健康な興味ばかりを煽り立てる文章が、あまりにも多い。
 そんな文章ばかりだから、言葉というものは人を傷つけ、人を陥れるためのものだと、みな思ってしまっている。その程度のものだと考えてしまっている。
 これは重大な問題です。
 ソクラテスが「ミソロゴス」(言論嫌い)は「ミサントローポス」(人間嫌い)に通ずると言ったように、本来、言葉と人間は切り離せません。「言葉は人」であり、「言葉は心」です。言葉の荒廃は、人間の心の荒廃であり、言葉の堕落は人間の堕落にほかなりません。言葉を信頼できないということは、人間を信頼できないのと同じことです。
 ゆえに今、必要なのは、言葉に対する信頼を取り戻すことです。人間は「健康な言葉」を取り戻すことで、「健康な心」を取り戻さなければなりません。
 「健康な言葉」「健康な心」で、「健康な未来」を語れ!――マスコミ人は今こそ、その先頭に立たなければならないはずです。
 また、言葉は「剣」でもあります。民衆を守り、人を救う剣は、「宝剣」です。人を陥れ、人を傷つける剣は、「邪剣」です。その邪剣の何と多いことか。もし、金庸先生の小説中の英雄が、現代の日本に現れたなら、どうするでしょうか。(笑い)
 金庸 もちろん、黙ってなどいないでしょう。(笑い)
 私自身、自分が書いた武侠小説の中の虚構の人物を模範にして、常に、こう自分に言い聞かせてきました。「危険が迫り、内心に恐ろしさを感じても、卑怯なまねをして、しりごみしてはならない。自分が書いた小説の英雄たちに顔向けできないではないか」と。
 池田先生は侵略に反対し、世界平和を守るために、日本の反対勢力の暴力による威嚇を受けられ、生命を狙われたことがあると聞きました。先生の毅然とした、何者をも恐れぬ不屈の精神に、私は心から敬服します。
 池田 私への過分のお言葉は別として、人間として最も崇高な生き方とは、「信念に殉じる」ことではないでしょうか。
 まして言論に生きる者は、ある意味で民衆の代表者です。
 中国には「文章興国」という言葉があると聞きました。文章が、ときに国を興し、社会を興す。文章には、それだけの力がある。文筆に生きる者は、それだけ大きな使命と責任を帯びている。言論人が信念に殉じ、正義に殉じることは、最大の誉れです。
 金庸 たしかに中国と日本の歴史には、自分の生命を犠牲にしても、信念を捨てなかった多くの志士がいます。私は彼らが書き残した文章を読むたびに、いつも心酔させられ、尊敬せずにはおれません。
 池田 日本はともかく、中国の歴史には、真実を書き綴ることに生命をも賭した勇者の記録が刻まれています。
 かつて青年たちに語りました。
 中国の春秋時代、斉の国の権力者・崔杼が主君である荘公を殺した。斉の史官(歴史記録官)は、こう記録した。「崔杼、荘公を弑す(反逆して殺した)」。史官は権力者の報復を恐れず、筆を曲げなかった。ありのままを記録した。崔杼は怒り、この史官を殺した。
 すると史官の弟が同じことを記録した。崔杼は、また殺した。すると、史官の弟の弟が同じことを記した。さらには斉の各地から、史官兄弟の受難を聞いた地方の史官たちが、続々と都を目指して集まりつつあった。史官兄弟が全員殺されたのち、われこそが真実の歴史を書き残すのだ、と。
 ここにいたって、さしも権勢を誇る崔杼も、どうすることもできず、記録はそのまま残された……。
 真実を書き綴ることに殉じていく。凄まじいばかりの一念です。彼らにとっては一字一句が血の滴りであり、生命の刻印だった。権力の脅しの前に筆を曲げることは、末代までの恥とされた。
 ペンを執るとは本来、それほど深い覚悟がなければ貫けない仕事なのだということを、教えてくれます。
 金庸 まさに言論人が心すべき点です。
 池田 また、マスコミの現状を見ますと、その改革はマスコミ人の自浄努力にばかり頼ることはできません。それは受け手である市民の側の問題でもあります。
 現在、情報はあふれんばかりにあります。しかしその分、人間が賢くなったとは必ずしも言えない。むしろ情報の大波に溺れかけているのが現実です。
 情報のおかげで生活は豊かになったかもしれないが、人間の精神は、かえって惰弱になったとも言える。
 恩師は「青年は国の眼目である。批判力猛しければなり」と若い人々を叱咤しました。自分の眼で真実を見抜き、是は是、非は非としていく批判力を、民衆特に青年が身につけていかなければ、根無し草のように波間波間を漂っていくしかないでしょう。
 近年、マスコミ報道による人権侵害を、市民レベルで監視する動きが、欧米を中心に出てきています。そのための機構の整備も進んでいます。私も賛成しますが、それが有効に機能するには、監視する市民の側に、真偽を見抜く眼がそなわっていることが不可欠です。
 その意味からも結局、民衆一人一人が賢明になる以外に道はない。一人一人が賢者となって、明確な目的観をもって、社会の動向と進むべき道を検証していくことです。
 私がハーバード大学で、二十一世紀文明に果たす大乗仏教の役割を論じた際、宗教が人間を「善くするのか、悪くするのか」「強くするのか、弱くするのか」「賢くするのか、愚かにするのか」というメルクマール(指標)の必要性を訴えたのも、真実の宗教こそ、そうした人格のバックボーンにならなければならない、との信念からです。
 金庸 創価大学での講演(九六年四月)でも申し上げましたが、今日、世界の科学技術と生産能力は驚異的な進歩を遂げました。
 しかし、人と人が調和して生きていくための人間関係の道理や、知恵や見識などは、二五○○年前の釈尊、孔子、ソクラテス、プラトン、またイエスたちを超えずにいるように思われてなりません。いな、超えるどころか、これらの聖賢先哲が示した基本的な道理すら人は理解せず、耳を傾けようともしません。
 今のままでは機関銃や手榴弾を、八歳か九歳の子供に持たせて遊ばせているようなものです。これはきわめて危険なことです。
 私たちが「価値」を論じようとしても、多くの人は、すぐに「それは、いくらぐらいの値段だろう?」とか、「これを買うと、いくら払わなければならないのか?」といったぐあいに連想してしまいます。彼らが理解している「価値」とは、基本的に「商品の価値」なのです。
 目に見えない「精神の価値」を使いきれていない。ないしは使う資格に欠けている――これが現状ではないでしょうか。
7  「友情」こそ人間性の証、人生の究極
 池田 さて、波瀾万丈の人生を生きてきて、私の一つの結論は「人生の究極は友情」だということです。
 "人生から友情を除くのは、世界から太陽を除くのに等しい"(キケロ)と言います。真の友人こそ、人生を照らす太陽です。最高の宝です。
 金庸 おっしゃるように、「友情」は私の生命の中できわめて大事で、貴重な感情です。父母・兄弟・姉妹・夫婦の関係にも匹敵するものです。
 池田 お国の言葉にもあります。
 「人の朋友あるは、燕安のためならず、其の仁を輔佐するゆえんなり」(人に友があるのは、くつろぎ遊ぶためではなく、友が立派な行いをするのを助けるためである=)朱熹『近思録』)
 「朋友を語らんか、まさに切磋あるべし」(友と語り合うのは、互いに切磋琢磨するためである=)司馬光『資治通鑑』)と。
 上辺だけの「なれあい」や「付和雷同」では、もちろんない。互いに切磋琢磨しあう友情ほど、美しいものはありません。
 中国の人々の友情の厚さについては、こんな話を聞きました。――ロサンゼルスに中国人の街のチャイナ・タウンがある。ロサンゼルスで暴動があったとき、チャイナ・タウンは、住民が総出で隣近所を守るので、暴徒もなかなか手が出せなかった、と。
 これも民族の結束の強さというより、友情の絆こそが、中国人の精神の骨格をなしていることを示しているように思います。
 金庸先生の武侠小説の「侠」という言葉の深義は別として、これもある意味で友情の異名といえるのではないでしょうか。
 金庸 たしかに中国人が言う「侠」は、友情が、かなりの部分を占めています。
 さらに言えば「侠」には必ず「義気」が伴います。中国人は「義気」を特に重視します。『三国志演義』の関羽が崇拝を集めるのも、そのためです。『水滸伝』で豪傑たちが兄弟の契りを結び、生死をともにする誓いを立てるのも、「義気」のためです。
 池田 日本人に、なじみやすい言葉で言えば、「信義」でしょうか。
 『三国志』の「赤壁の戦い」で、敗れた曹操が落ちのびていく途中、関羽に退路を断たれる。本来であれば、たやすく討ち取れるところを、関羽はかつて曹操から受けた恩義を思い、あえて曹操を許し、見逃す――こうした物語など、「信義」を重んじる中国の人々の気概をほうふつとさせますね。
 先生の作品にも、信義と友情をめぐる物語が多く描かれていますが。
 金庸 ええ。たとえば『書剣恩仇録』に出てくる紅花会衆の義兄弟の面々は情愛が深く、義気を重んじます。
 『射●英雄伝』の主人公は、友情と民族闘争の狭間に身を置きます。『雪山飛狐』では仇敵同士の友情を、『倚天屠龍記』では七人の兄弟弟子たちの友情を綴りました。『鹿鼎記』では、皇帝と、ならずものの友情を描きました。おしなべていえば、私の小説は往々にして友情を美化しすぎ、理想化しすぎています。(笑い)
 池田 ご自身のご友人の思い出は。
 金庸 私の経験では、本当に理解し合える友人をつくることは、年をとるにつれて難しくなるようです。少年時代のように、利害も打算もない、真心からのつき合いができなくなる。腹蔵なく心中を語り合うことが、できなくなるからです。
 私の最も仲の良い友人は、みな中学時代に交友を結んだ人たちです。あのころは一緒にご飯を食べ、同じ宿舎で寝泊まりし、ともに授業に出て勉強しました。いつも一緒でしたので、とても仲が良かったのです。そのころの友人とは、今でも連絡を取り合っていますし、なるべく機会をもうけては会うようにしています。
 池田 その点は、日本でも同じですね。四十代、五十代になると、利害や打算の関係でない学生時代の交友が懐かしくなるのか、にわかに"同窓会"が増えてきます。
 金庸 私とともに「明報」を創刊した沈宝新氏は、中学三年のときのクラスメートです。一九三八年に知り合い、二一年後の五九年に「明報」を創刊しました。お互い誠実に協力しあい、三十数年にわたって新聞を出し続けました。友人関係は、今年でもう五九年になります。
 ともに新聞事業に携わるなか、デマを飛ばしては、二人の仲を裂こうと画策する人が後を絶ちませんでした。しかし互いに疑ったり、悪意をいだいたりすることは、一度もありません。私が心臓の大手術を受けたとき、「宝新兄さん」は、手術が始まるときから終わりまで、八時間半も病院で待っていてくれました。
 池田 そのほかには、いかがでしょうか。
 金庸 新聞事業を始めてから出会った友人のなかで、私が最も心ひかれ、また敬服する人は、徐東浜氏です。彼は一昨年(一九九五年)、アメリカで亡くなりました。私は何日も慟哭しました。まるで自分の兄が世を去ったかのように悲しかった。
 物書きとして知り合った友人には、董千里、倪匡、蔡瀾、馮其庸の各氏などがいます。
 囲碁を通じての友人や、学問研究をともに行っている外国の友人もいます。香港の経済界で親しい友人と言えば、馮景禧氏や李国宝氏など。「香港基本法」の起草に携わったときには、何人かの法学者と友情を結びました。仕事の合間の会話でも、実に「ウマ」が合いました。蕭蔚雲教授、項淳一先生、許崇徳教授たちです。
 池田 さすがに善き友人を、たくさん、おもちですね。
 人間にとって「善き友」が、いかに大切か――阿難が、釈尊に対して発した問いを思い出します。
 阿難が質問した。
 「私は、独り静かに思惟しました。私たちが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、すでにこの仏道の『なかば』を成就したに等しいと。この考え方は、いかがでありましょうか」すると釈尊が答えた。
 「阿難よ、それは違う。決してそうではない。阿難よ、われらが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、実にこの仏道の『すべて』なのである」と。
 ここでいう「善き友」「善き仲間」とは、広げていえば「人間の精髄の道を歩む同志」といえるでしょう。「友情」こそ、人間を人間としての正しい軌道へと導く門であり、船であり、潮です。
 また平和といっても、その実体は人と人との信頼のなかにある。「友情の連帯」を結ぶところから、流れが築かれていく。そう私は信じます。
 ゆえに私は、その「人間性の潮」を世界に広げたい。一人また一人と、「金剛の友情」で世界を結びたいのです。金庸先生はじめ、世界の「宝の友」とともに。
8  人生の根幹のテーマ――「師弟」の道
 池田 金庸先生は人間と人間のさまざまな出会いや情愛を見事に描いてこられました。作品には、「友情」とともに、「恩」を重んじる人間像が描かれています。
 『書剣恩仇録』でも、主人公がいったん捕らえた敵を放すくだりで、先生は主人公に、こう語らせています。
 「こいつの兄弟子の陸ご先輩には、我ら恩がある。紅花会は恩と仇のけじめはつける」(『書剣恩仇録』第二巻岡崎由美訳、徳間書店)と。
 「恩義に厚い」ことこそ、「侠」たる者の資質であることを強調されています。
 恩義は忘れてはなりません。たとえ一生かかってでも、何かで報いようという心をなくしてはなりません。仏法では「父母の恩」「師匠の恩」「三宝の恩」「国王の恩」の四恩を強調しますが、それも、「恩」を知り、「恩」を報じていくことこそが、人間性の極致だからです。
 金庸 そのとおりです。なかでも仏教徒としては、「三宝の恩」を最も大切にしなければなりません。
 池田 先生にとっての恩人とは、どなたでしょうか。当然、さまざまな分野にわたるでしょうが。
 金庸 まず小学校五年生のときのクラス担任で、国語の教師だった陳未冬先生です。
 一昨年(一九九五年)、杭州で六○年ぶりにお目にかかりました。当時、私の作文の誤字を直してくださった話をして、どんな誤字だったか申し上げると、先生は笑いながら「記憶力がよい」と褒めてくださいました(笑い)。そして自分の誤りを覚えておくことが成長の秘訣だとおっしゃいました。
 もう一人は、中学校の校長だった張印通先生です。先にお話ししたように、私は(訓導主任を批判した)壁新聞の一件で学校を退学させられましたが、張先生は極力、処分を軽くしようと骨を折ってくださいました。
 しかし訓導主任は(中華民国時代の)国民党員で、校長を上回る権力をもっていたのです。のちに張先生は私に別の学校を世話してくださいました。この大恩大徳は、私の一生に実に大きな影響を与えたと思います。昨年、先生の銅像が建てられ、記念の除幕式が開かれましたが、碑文は私が認めました。
 池田 いくつになっても、恩師は恩師ですね。私も小学校時代の先生に、今でも機会あるごとに、旧交を温めさせていただいています。その先生は私の寸志に対しても、必ず礼状をくださいます。"波瀾万丈の人生ですが、「高木は風に妬まれる」といいます""何もあなたを守れなくて申しわけない"という手紙もいただきました。今もって尊敬しています。せめてもの報恩のために、これまで文章に綴ってもきました。
 先ほどの陳先生と張先生――そのほかには、いかがでしょうか。
 金庸 中学の国語教師の王芝簃先生も、私の恩師です。王先生は、意志の堅さ、正直、勇敢、人間愛などの「侠気の精神」を、身をもって教えてくださいました。私の生涯を振り返るとき、先生の教えは私を無意識のうちに正しい道へ導いてくれたと信じています。
 ただ残念なことに、私は自然環境に恵まれた江南の出身で、しかも家庭は裕福でしたので、贅沢で安逸な生活を送ってしまいました。悲歌慷慨するごとき王先生の壮士の豪毅さを学び切ることはできませんでした。
 また「大公報」時代の翻訳主任の楊暦樵先生には、翻訳の技術を教わりました。
 しかし、これらの恩師はみな世を去ってしまわれました。恩に報いようにも、もはや、かないません。
 池田 仏法の眼から見れば「生死は不二」です。どの恩師の方も、金庸先生のご活躍を喜び、見守っておられることでしょう。
 私にとって恩師・戸田先生からの恩こそ、生涯、いな永遠にわたる無上の宝です。師の大恩に報いていくことが、私のすべてです。
 「師弟」――金庸先生は、人生の根幹であるこのテーマについても、絶妙に表現されています。
 ――一人の弟子が、わが師匠の偉大さを、こう形容する。
 「千里の遠きも、もってその大を挙ぐるに足らず。千仭の高きも、もってその深きを極むるに足らず(千里という距離をもってしても、その大きさを形容するには足らない。千仭という高さをもってしても、その深さをいい表すには足らない)」(『倚天屠龍記』)
 師匠の大きさと深さも、同様であるというのです。
 その弟子は、師匠のもとで修行に励む日々にあって、「毎日、(進歩ではなく)退歩している」という実感をいだいていた。
 これは、怠けて後退したという意味ではない。自分が努力すればするほど、師匠の偉大さ、深さがわかってくる。そして師匠の偉大さに圧倒されて、自分の力が、あまりにも及ばないことを思い知らされる。毎日、毎日、師匠に学び、新しい発見に眼を開いていく。そして、自らの限界を痛感しつつ、より大きく、より深くなっていこうと、さらに求道の心を燃え上がらせていった――。
 私が恩師のもとで受けた一一年の薫陶も、そうでした。
 偉大な師匠をもった青春が、どれほど幸福か。まことの師弟の絆が、どれほど厳粛か。そして、師弟の道を貫く人生が、どれほど崇高か。金庸先生の筆は、心にくいまでに描き切っておられます。
 金庸 池田先生は、本当に幸せだと思います。先生には偉大な師匠がいらっしゃいました。先生の素晴らしい人格と境涯は、戸田先生から大きな影響を受けていると思います。
 小説『人間革命』も読ませていただきました。池田先生は十九歳のとき創価学会に入会され、偉大な師匠に、毎日、教えを受けたのですね。本当にうらやましく思います。
 中国では師匠から学ぶのに二通りの方法があるといいます。一つは、「言葉で教えられる」。二つには、「身をもって教えられる」。池田先生は戸田先生の姿を通して、さまざまなことを学ばれたのでしょう。
 池田 お言葉に感謝します。千鈞の重みがあります。
 一九九六年四月には、金庸先生を牧口記念会館(東京・八王子市)にお迎えしました。師弟の精髄を知る先生を、「師弟の城」にお迎えした喜びは、言い尽くせません。
 金庸 牧口初代会長の精神は、池田先生のなかに生きています。牧口先生にお会いできなくとも、池田先生を通して牧口先生の偉大さがわかります。また、(戸田第二代会長の祥月命日である)四月二日という、大変、意義ある日に、池田先生自ら、(牧口記念庭園に)私の桜を植樹してくださいました。私は一生、このことを忘れないでしょう。
 池田先生、私は思うのですが、何ごとも後継者が大事です。まして師弟においては、なおさらではないでしょうか。
 創価学会が今日、このように大発展したのも、ひとえに戸田会長が優れた後継者を見いだしたからではないでしょうか。
 池田 恐縮です。ただ、学会があまりにも発展したために、嫉妬や迫害もまた大きいのです。
 金庸 よくわかります。中国の格言に「人から迫害に遭わない人は、平凡な人である」とあります。人から憎まれもせず、やきもちも焼かれないような人は、たいした人物ではないのです。
 池田 仏典にも「賢聖は罵詈して試みるなるべし」――本当の賢人・聖人かどうかは、ののしってみて、確かめるべきである――とあります。悪口を受けることが、偉大な人生の証明となるのです。
 何があろうと私には恩師がいます。「恩師なら、どうされるだろうか」――私は常に、そう自らに問いかけながら生きてきました。恩師に出会って、今年で五○年。私は恩師のことを、ただ恩師のことを考えて、この五○年間を生きてきました。これからも同じです。
9  「二十一世紀人」の条件
 池田 今後、ますます世界は狭くなります。一体化が進みます。「一体化された世界」の焦点は、「人間」です。
 頭も心も体も強い。視野が広い。人間が大きい。そうした「国際人」「世界人」が陸続と育たなければ、未来は開けません。その人材を、どう育てていくか。私たちすべてが真剣に考えなければならない問題です。
 金庸 まったくそのとおりです。
 池田 訪れるたびに思うのですが、その点、香港という街は恵まれていますね。国際都市としての「地の利」があります。
 重ねてゴルバチョフ氏の話になりますが、氏の故郷は北コーカサスのスターブロポリといって、商業交易はじめ人的交流の非常に盛んなところだったそうです。
 そうした故郷の気風に触れて氏は、「何世紀もの間、人との調和、民族間の友好関係が、生き抜くための最大の条件であった」「私たちは思考形態からいっても、人間関係からいっても、『国際主義者』となるべく運命づけられていた」と言われていました。
 香港にも、同じような事情があるのではないでしょうか。いわば「国際人」の揺籃の地としての――。
 金庸 たしかに香港で長い間生活した人は、おのずと、ある種の国際感覚をはぐくむことができるでしょう。小さいころから世界を旅し、世界に対する見識をもつ機会に恵まれています。視野が狭くないのです。
 ただ、欠点は、中国本国の文化や伝統に対する感情や、愛情に欠けています。これはおそらく、(中国人としての)重厚な基盤がないからでしょう。
 池田 それも、今回の返還によって大きく変わるのではありませんか。今後は香港の人々の長所と、中国本国の人々の長所が、結び合わされていくことでしょう。
 金庸 中国人も伝統的に外国人を排斥しません。異民族の文化を容易に受け入れるという長所をもっています。
 香港の人間は、政治上はイギリス人の影響を受けていますが、人種差別という偏見がありません。私たちは、西洋人、日本人、インド・パキスタン人、黒人と、誰とつき合っても、まったく同じように見なします。ですから、友だちづき合いはもちろん、恋愛も結婚も、まったく問題ありません。
 私の友人には、「国連家族」とも呼ぶべき家庭をもつ人が、たくさんいます。たとえば娘が外国人に嫁ぎ、息子が外国人をめとっても、みんな仲良く、楽しく、いたわりあって暮らしています。
 言葉、宗教、生活習慣はちがっていても、「愛」による調和によって、幸福な共同生活を送ることができるのです。
 池田 必要なのは、言葉、宗教、生活習慣など、人間を隔てる「差異へのこだわり」を捨てた、人間すべてに対する「愛」――いわば、「大愛」であり、「普遍の愛」ですね。一言でいえば「慈悲の心」です。
 金庸 大きな国も小さな国も、もちろん人間も、みな平等です。みな平等に仲良くしていくべきです。釈尊も、人間だけでなく、犬も猫にも平等に大慈大悲を注ぎました。
 池田 「平等」と「慈悲」。まさに「国際人」「世界人」「二十一世紀人」の条件ですね。平和も、「慈悲の心」が広がった分だけ近づきます。
 「大人は己なし」(荘子)という言葉が、若いころから私は好きです。「己」とは、ただ自分の私利私欲をさす言葉ではないと思います。小さなカラに閉じこもった小さな自分、自分とは異なる価値を受け入れられない小さな器の自分。それをもさして「己」というのでしょう。
 日本人は、島国根性といって、なかなか広い心がもてません。小さな「己」が捨てられません。これは日本人の宿命といってよい。だから私は青年たちに「世界に目を向けよ」「堂々たる国際人たれ」と、常々語っています。二十一世紀に活躍するには、それが絶対の条件だからです。
 金庸 まったくです。その意味で、創価学会と池田先生の存在は、日本にとってきわめて重要です。
 日本は他の面では優れていても、国際感覚が優れているとはいえません。
 以前、ある大会社のアンケートが、私のもとに来ました。「どうして日本のイメージは悪いのか」という設問です。
 私は、「自分の長所を表現することが、下手だからではないか」と答えました。そのために、長所までも短所に見られます。これは改良したほうがいい。
 たとえば、ある人が、学問もあり、能力も優れている。しかし人間関係の面でうまくいかない。それでは誤解されて、悪い人だと思われかねません。
 池田 いつも言うのです。日本人は、もっと「話す」ことだと。とにかく「しゃべる」ことです。特に海外では、言葉を惜しんではいけない。黙っていてはいけない。黙っていては、いつまでたっても心は通いません。
 「沈黙は金、雄弁は銀」といって、黙っていることを美徳とする風潮が、まだまだ根強い日本ですが、これからの国際化社会では逆です。「雄弁こそ金」です。
 金庸 真の「二十一世紀人」になるには、まず胸襟を大きく開き、自分と違ったところのある人に、差別や偏見の心をもたないことです。そして交際のなかで互いに理解し合い、意思を通わせ、「慈悲の心」「愛の心」をはぐくむことです。「相手のために何をすべきか」を考えることです。
 それでこそ社会の調和が期待でき、世界平和の維持が期待できるのです。
 池田 心に「慈悲」。そして、実際の行動においては、常に「相手のため」を考え、「相手のため」に行動する。つまり「菩薩」の実践です。
 私たちは香港と日本、中国と日本、そしてアジア、世界へと、「慈悲の心」「菩薩の実践」で民衆を結んでいきたいものです。その「民衆の大交流」のなかからこそ、真の「国際人」「世界人」が育つのです。

1
2